お預けを食らっていたダイビングですが、「とりあえず1回潜ってみる?」と条件付許可を医者からもらったので、元気よく「はいっ」と答え、早速仲間に予定を組んでもらいました。明日潜りに行きます。潜ってから検査して、異常がなかったら晴れて解禁…って夏終わりじゃん! と、とにかく久しぶりのダイブです。ああ海が静かでありますように。水温と透明度が高くありますように。台風の影響でうねりが入っているとの情報もあり、ちとドキドキします。上手く耳抜きはできるようになっているでしょうか。しかもボートだし。緊張するなー。しちゃいけないのにー。
今朝は、田舎から持って帰ったゴーヤを他の夏野菜と炒めて食べました。今年のゴーヤは苦味が少なく、ちょっと物足りないけど食べやすくはあります。実家でもゴーヤチャンプルを作ってもらったのですが、食べながらふと思いついて「どうやって私らを好き嫌いなく育てたの?」と訊いてみました。私も妹もほとんど好き嫌いがないシアワセものなのです(好んで食べないものはありますが)。答えは「子供用の食事を作らず、美味しいものは見せびらかしながら食べた」。ふむ、なるほど。
考えてみればかなり小さいうちから、秋刀魚の内臓とかサザエの肝まで好んで食べていました。大人が美味い美味いと言うので「そうかこれが美味いのか」と思い込み、今では「肝のついていない上品なサザエのつぼ焼きなんてケッ」となるほどです。苦手な食材をどう誤魔化して食べさせるかって番組を見ると「食材の味を分からなくしちゃうなら、その食材食べる意味ないんじゃん? 栄養だけなら錠剤でも飲んどきゃイイのに。何もそんなに手間ひまかけて苦労せんでも」と思います。子供の偏食に悩んでる世のお母さま方に言ったら怒られそうですが、手間かけて食べやすくすればするほど偏食に拍車がかかりそうな…違うのかしら?
そういや、以前スーパーでお手ごろな値段の刺身用のサザエを見つけ、喜び勇んで買って帰ったコトがあります。が、私はサザエの刺身の作り方を知りませんでした。まぁ刺身というからには生のまま切ればいいんだろう、そして切るためにはまず殻から引きずり出さねばなるまい、と、殻と蓋の間にフォークを刺し、身に突きたてようとしたんです。ところが、流石は刺身用で、このサザエは生きていました。そして抵抗を始めたのです。具体的に言うと蓋をきゅぃっと閉めちゃったのです。
私は途方に暮れました。蓋をぴっちり閉められちゃ、中身にフォークは届きません。仕方なくフォークを構えて待っていたら、サザエはそろそろと蓋を持ち上げてきました。今度こそ! 私は再度チャレンジしましたが、サザエの方が素早く、また蓋を閉められてしまいました。向こうも命が懸かっているので必死なんでしょうか、こっちも意地です。私は食べるためにサザエを買ったのです。負けるワケにはいきません。攻防が続きました。サザエの防御は固く、私の攻撃を幾度となく跳ね返しました。
そんなコトをしていたせいで、一向に夕食の準備が進みません。私はだんだんイライラしてきました。何このサザエ、サザエのくせに生意気なんじゃないのか、サザエの分際で人間さまに逆らってイイと思ってるのか、ナメるんじゃねぇ!…とまで思いました。イラついているのでガラが悪くなってる上に、サザエ相手にマジになるとは、人間さまも何もあったもんじゃないですが。んで腹を立てた私はコンロに焼き網を置き、熱くなったそこにサザエを乗せました。サザエも火には敵わず、やがて大人しく蓋を持ち上げたまま死にました。勝った…!と思いました。
ぐつぐつの煮汁に醤油をちょろっと差して食べたサザエは美味しかったです。美味しかったんですけど…生きたサザエの中身をどう取り出せば良かったのかは、謎のまま残ってしまいました。ご存知の方はゼヒ教えてください。気絶でもさせる方法があるのでしょうか。それとももっと暴力的に、殻を叩き割れば良かったのでしょうか。…て、はて、なんでサザエの調理法の話してるんだっけ?
夏休みで田舎に帰ってました。めちゃ美味しい枝豆を食べさせてもらったり、朝から晩までマンガを読んでゴロゴロしたり、敷地を流れる川の写真を撮ったり、何ヶ月かぶりに運転をして、同じころ免許を取った母親に「もう私の方が上手くなったね」とバカにされてムキーッとなったり、ご近所さんにバーベキューパーティーを開いてもらったりして過ごしました。あと母親が知り合いから中古パソコンを譲り受けてきたのですが、キーボードに埃が積もっていたので掃除をしてあげました。掃除をしながら「綿棒ある?」と尋ねた私に「めん棒? あるよ。…うどん延ばすヤツでしょ?」と答える母親がパソコンを使いこなせるようになるかどうか、私はちょっと不安です。麺棒でパソコンに何しろっつーんだ。
以下は、読みかけの文庫本を放り出して読んできたマンガの覚えてるだけ。
■坂田靖子『バジル氏の優雅な生活』全9巻−その時々の気分で気に入る話が変わるんだけど、今回は『ランスロットの遺産』と『廃園の秋』のエピソードがいいなぁ…と思ってからハッとする。どっちも離婚の話じゃん。何か気にかかっているのか>私?
■同じく坂田靖子『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』全5巻−マーガレット奥さんも魅力的だけど、植物育てるのが好きで美味しいものが好きで奥さんが好きで、実はマーガレット奥さんよりもロマンチストなタルカムさんも可愛いくて好き。
■竹宮恵子『イズァローン伝説』全12巻−昔解読した古代語がまだ読めてびっくりした。未読の人に忠告します。イズァローンの古代語は解読しない方がいいです。読もうと思えば簡単に読めるようになりますが、ロクなコト書いてないのでシリアスシーンが台無しになりますぞ。
■BELNE『蒼の男』1〜8+EX、『ロンドンの佳き日』1〜3、周辺の関連話数冊−初期の絵は気持ち悪いし、本編は何がイイんだかよく分からないのに、作者の愛の濃さに巻き込まれてつい読んでしまうんだよな、このシリーズは。ちなみに私の好きなのはレイヌ・ガーディーとスタンです。あとうさぎのアルフレッドも。
■森脇真末味『UNDER』全2巻や傑作集など10冊ほど−森脇さんの作品ってホント古くならない。天井に星を、壁に花を、床に魚を描き、それを夜で森で海で塗りつぶして、また星を花を魚を描く。そしてまた塗りつぶす。『ゼネツィオの庭』には昔っから惹かれてました。
あとは清水玲子『月の子』全13巻・『竜の眠る星』全5巻、波津彬子・中山星香(←懐かし〜)・青池保子・他を数冊ずつ。全部で何冊のマンガがあるのか数えたコトはないんですが、今回読み返したのがごくごく一部であるのは確かです。本の置ける実家があるシアワセ。…それでも随時処分していかないと破裂するんですよね。広〜い書斎は幼い頃からの夢です。ステキな書斎にマンガを並べるのだ(いやマンガだけじゃないですが)。
で、昨日東京に戻ってきたのですが、東京についた途端に気分が悪くなりました。田舎で数日過ごして東京に戻ると、具合が悪くなるコトが多々あります。昨日は胸がムカムカしました。目が痛くなるときもあるし、頭が痛むときもあります。精神的なものも多少はあるかも知れませんが、主な原因は空気が悪いせいだと、私は思ってます。排気ガスのにおいがやたら鼻につくし、地下鉄の空気はこもって耐えがたい。数時間後にはそれになれちゃうのが、かえって怖いです。
そりゃ東京は便利です。お芝居も好きなだけ観られるし友達もいる。仕事もある。けど一生住む場所じゃありません。東京を愛している人ゴメン! ハイジじゃないけどマチでは病気になっちゃうし、智恵子さんじゃないけど「東京には本当の空がねぇぜ!」と言いたくなるのですよ、私。今はまだ“便利”の方が勝ってますし、田舎に引っ越すキッカケも見つからないのですけど、何か外的な要因(田舎に住まない?と誘われるとか、会ったコトもない遠縁の親戚が田舎屋を私に残して他界するとか)ができたら。あるいはこの「東京は住むトコロじゃない!」って気持ちが“便利”を上回るようになったら。いつかは分からない。ひょっとすると10年以上先になるかも。でも、いつか、きっと、絶対に。
げっ! 読みたい本がいきなり52冊も増えてしまった…。先日リストがちっとも短くならないと嘆いたばっかりなのに。もう魅力的な書評のあるサイトを発掘するのは止めます! インターネット始める前は次に読む本に迷うような状態だったのになー。これじゃ絶対追いつかないよぅ。褒められている本ばかりじゃなく「なんかヤバげ」な匂いにも惹かれてしまう自分が憎い。…だってさー、そこにもある種の“愛”を感じちゃうんですもん。
さて。私の「読みたい本リスト」を長くしてくれたならのさんが更に『千と千尋の神隠し』の親について書いてくださってます。うーむ、なるほどー。ならのさんの書いているコトと、私の思っているコトはかなり近いのでは、と私も思います。ならのさんの文章を「なるほどなー」と肯きながら読んでるし。なのにナゼ結論が違うのだろう、なんで視点が違うんだろう…と考えてみたんですが、要するに私は「無償に無条件に親を受け入れてない」からじゃないかと思いつきました。ウチは親が変わってくれちゃったから、子供がそこを乗り越えなくて良かったのです。
ただ関係は変わったので、それなりに親離れ子離れはしてると思うのですが…。自覚がないだけで実は親離れしてなかったらどうしようー。きゃー。と、とにかく、親子関係以外では、あんまり「無償に無条件に」相手を受け入れる必要はなくて。私こそ人と関わるの下手くそなので、「合わない」と思った人はすぐにサヨウナラしちゃって。で、そんなんで自分がそういう状態になった経験がない(一時はなっても解決しちゃった)から、千尋じゃなくて親の方に注目しちゃったんじゃないかと思います。親の立場にはなる可能性はあるから。今のところ予定はないけど可能性はある…ハズ…。
理想論かも知れないですが、自分が親になったらああやって子供からのメッセージをシャットアウトしたくないな、と。そう思ってるから「親が変わる」可能性が見えてればイイな、と思った…んだと思います。思う思うと自分のコトなのに曖昧ですが、理由を後付けしてないかちょと不安なのですすいません。あああと「人は望みさえすればいくつになっても変わりうる」は、自分に対しての言葉で、他人に「変わってくれ」と要求してるワケじゃありません。忘れちゃいかん、と思って時々書いてるのだ。ただ「私はもう××歳になっちゃったんだから、今更変われないよ」と言いつつ、現状に不平不満たらたらの人にムカつくのは、私の人間ができていないトコロです。てへ。
うー、も少しツッコんで書きたいんですが、今日から帰省でしばらく更新できないのでした。残念! あ、それから「あれはあれでハッピーエンド」というならのさんのご意見は、「そう言われりゃそうか」と簡単に納得しちゃいました。親の方に注目する余り、千尋のたくましさ(成長した部分)を軽く見過ぎていたと反省。うん、そうだよな。そう思えばイイのですね。やっぱ「がんばれよー、千尋」だな。あと、ぴよの神さまの正式名称は「オオトリさま」ですか? でも「ぴよの神」や「おひなさま」の方が可愛くてイイんだけどなー。通称がそっちと思っておこうかしら。
『千と千尋の神隠し』続き。なるほど、ぴよの神の正式名称は「おひなさま」と言うのですか! そっちの名称も可愛いなあ。けど「ぴよの神」も捨てがたい〜っ。あっと、あの両親については「イカーン!」って思ってるワケじゃないのですよ。ただ哀しいなぁと感じてしまうのです。それがリアルなのは認めつつもね。だから、ほーんのちょっと、ラストにどちらかの親がふと振り返る(すぐに背を向けてしまってもイイから)くらいの描写が欲しくなったのですな。←なかったですよね? それでも教訓くさくなっちゃうかなぁ。あと、そう、やっぱ「大人があの経験から何も持ち帰らない」のも哀しいのですよね。その哀しさがリアルで良しって見方もありますが、結局私の根強いハッピーエンド願望が勝ちました。てへ。…と、以上ほぼ私信。
昨日の日記を書いてから、私って「人ときっちり向き合おうとしない(ように見える)人」に対して、過敏すぎるかなーと考えてました。フィクションでも現実でも。ま、自分の関わる全ての人にきちんと向き合おうとしてたら疲れちゃうとも思っているので、「人」ってのはある程度ちゃんとつき合いたい人って意味なのですが。あとシロツグさんの8/19のMEMOを読んでから、「私は言葉を信じているんだろうか?」とも。言葉にすると失われるものがある、てのはホントだと思います。だけど逆に言葉にするコトで見えてくるものもある。んー。ケースバイケースと言っちゃえばそこまでだけど、難しいなぁ。
あえて乱暴に区別するなら…それでもきっとはみ出しちゃうケースはあるのだけど…私は自分の内部で起きてるコトに関しては、あえて言葉にしない場合もある、な。サイトを持ってから気軽に話せる事柄は垂れ流しまくってるけど、実は「いつか書きたいな」と思っているのに書けてない事柄もいくつかある。書き始めても途中で詰まっちゃう。なんか違う気がして。そういう物はあえて言葉にはしない。いつか出来るかも知れないし、ずっと出来ないままかも知れない。
だけど、人に対しての気持ちは、なるべく言葉にしたいと思う。私の中で、さっき書いた「人と向き合う」って話と、これは繋がっている。いい言葉でもキツイ言葉でも、自分の気持ちを誤解のないように人に伝えるのはけっこうエネルギーが必要だったりして、さらに『ER』みたいな海外ドラマを見ていると「いくらムカついてるからって、そこまで周囲に不愉快をまき散らすのってどうよ」とも思うのだけど…。相手の気持ちを察する努力をしなくていい、とか、相手を傷つけてもいい、って話じゃなくて。
なんか言葉だって不完全なものなのに、それも使わずにお互い相手の気持ちを推しはかろうと、同じ距離を保ったままぐるぐる回って見合っているようなのって、すごいムダな気がする。人生短いのに。いやこれは考えようとすると必要以上に考え過ぎちゃう、私みたいなタイプが2人いた場合の話だけど、昔そんなコトやってめちゃくちゃ後悔したもので。うわー、どんどん話が収拾つかなくなってきたぞ。つまり、その、ことほど左様に言葉とは難しいものでございます、という話!
もうぐちゃぐちゃ。私も人といろいろ話す時間が必要みたい。
■『レベッカ』は読了。急展開のあとはヒロインがあまり妄想膨らます暇もなくなってスピーディーに終わりました。しかしちょっと事態が好転すると「使用人は私を好きになり、敬うだろう」と何の根拠もない甘々の未来予想図を描くのは変わらず。脱帽するよ。あ、昨日の日記を読むとまるで私がムカついているようだけど、楽しんでますよ。ここまで妄想っぷりが炸裂してるとムカつく段階を通り越したみたい。
■ブックマークに3サイト追加しました。ずっと前から読んでたのに入れ忘れてた「めんたまやき」と、デザインが素敵でイラストも文章もとっても私好みの「甲羅道場」と、『指輪物語』の感想にハマった上に日記でもやられてしまった「虫の居所」。結婚生活最高! カメくん可愛い! ぴよの神ラブ!
リンクついでに「虫の居所」のならのさんが書かれていた「無償で無条件の」を読んで思い足したコトなど。私が『千と千尋の神隠し』を見たのは1回だけで、その時の感想はコチラにあります。あれを見たときはストーリーなんかハッキリ言って二の次で、とにかく映像の楽しさに夢中になったのですよ。特に湯屋の描写と八百万の神々に。ならのさんが「ぴよの神(いいネーミングだなぁ)」と名付けている神さまが、私もとーっても気に入っていました。
で、私はあれを妹と見に行ったのですが、ひとしきり湯屋や神々を語り終わってしまった私たちが次に口にしたのは「あの親はマズイよねー」でした。あの「イヤさ」は、確かにリアルです。別に理解ある理想的な親の方が良かったと言っているワケじゃありません。私が気になるのは、あの両親が「物語の最初から最後まで、決して千尋とまっすぐに目を合わせることがありません」(byならのさん)という点なのでした。最後まで、です。言い換えれば、彼らは全然成長していないのですよ。
最後に、いきなり両親が泣き出して「千尋〜、よくがんばってくれた! 私たちがバカだったよ」と許しを求めるシーンが欲しいんじゃありません。そんな展開だったらいくら湯屋が素晴らしくても、映画全体の感想が「ケッ」になってしまうでしょう。だけどね、ほんのちょっと…異世界の記憶は残っていなくても、深層心理のどこかで何かを覚えていて、それによってホンのちょんびーっとでも物の見方が変わるような描写があったら良かったなぁ…と思うのです。ひょっとしたら、この先あの親子の関係が変わるかも…って期待が持てたら、と。
と思うのは、私が一番親と衝突していたのがあの年頃だったからかも知れません。がんばって、ぼろぼろ泣きながら拙い言葉で自分の気持ちを訴えて、親との関係をちょっとずつ変えていった年頃です。そしてウチの親は変わってくれました。それがいかにラッキーなコトだったのか、今ではよく分かります。分かるつもりです。世の中に、子供の訴えをちゃんと聞こうとしない(てか何を訴えられているのか理解できない)親がいるのを聞いてしまった今では。だけど私はラッキーだったから、「親と言っても完成された人間ではない」と思えるようになったのです。
私が年齢で区切りをつけるのが好きじゃないのとも、これは通じますね。人は、いくつになっても望みさえすれば変わりうると信じているのです。関係だって変えるコトができます。現実に煮詰まっている人がいるのも知ってますが、たぶんそれは視界が狭くなっているだけなのです。たいてい道は複数あるものです。…と、なんか話がズレてきた。戻します。『千と千尋〜』で千尋は少し成長しました。だけど両親が「千尋とまっすぐ目を合わせない」ままだとすると、多分、娘の変化に気付かないと思うのです。そしてそれはとてももったいない、哀しいコトに思えます。
…だってさ、異世界から帰ってきたとき、車に落ち葉が積もっていたじゃないですか! てコトは現実世界でも時間は経っているのですよね。どのくらいかは分からないけど。で、もしあの別世界と同じ時間が流れているとしたら、少なくとも数日間、彼らは「神隠し」にあっていたのですよ。そしたらどうなる? まず引っ越し業者が連絡とろうとしますよね。夜になれば「新居どうだい?」と祖父母が電話をかけてくるかも知れない。月曜になって父親が仕事先に顔を出さなければ、会社から連絡がゆくでしょう。つまりどっかで「神隠し」は知られてしまって、大騒ぎになってると予測されます。例え現実世界で数時間しか経っていなくても、後で時計を見れば「謎の数時間」があったのは分かると思います。
何せ一度しか見ていないので、千尋が最後に別世界で過ごした記憶を持ったままだったかどうか忘れてしまったんですが…。もし覚えてて「実は別世界に行って〜」という話をしても、あのままの親だったら「バカ言いなさい!」で終わっちゃうと思うのですよねー。あと親が何かの拍子におぼろげな記憶を蘇らせても、夢で片づけてしまって、何も学ばないと思うのです。んで私はやっぱりフィクションでくらい希望を見せて欲しい。ほのかなのでイイから。(←てかね! それは現実に不可能じゃないのですよ。大人になっても固まってない人はいるのです。)「忘れちゃったけど、でも何となく上手くいきそうだよね」って感想が持てたら、嬉しかったなぁと思ったのでした。あの時。
今日はダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』を読んでます。…すげぇです。何がってヒロインの妄想っぷりが。私もいい加減妄想女王の自覚はありますが、物語の語り手の“わたし”には敵いません。てか妄想の方向性が違います。はっきり言って、病気なんじゃないかと思うくらいです。今のところ「貧しくて平凡な“わたし”が避暑地で金持ちの中年男に見初められて後妻に入ったものの、前妻の“レベッカ”の影に苦しめられて…」って物語なのですが、彼女の語り口にはクラクラしっぱなしです。
もう下巻の中盤なのですが、最初っから今まで彼女は妄想しっぱなしです。彼と別れそうになったら“手紙でしかコミュニケーションができず、しかもすぐに忘れられてしまう自分”を妄想しますし、結婚を申し込まれたら“彼にひたすら愛される自分。使用人にも周囲の人にも温かく受け入れられ、「なんてお優しい奥さまでしょう」と囁かれる自分”を妄想し、彼とケンカした後には“彼は最初から私を愛していなかった”妄想に耽ります。彼や使用人の一挙手一投足に目を配って“私をバカにしてる”サインを受け取ります。おいおい、大丈夫か>“わたし”。
「人が自分をどう思っているのか」を異常なほど気にするのが、15、6の思春期ならまだイイんです。“わたし”は一応21歳です。「人が自分をどう思ってるか」を考えちゃうのは仕方ないと思います。私もけっこう気にするし。だけど、そのくらいの歳になったら現実も見ようよ! 自分に何ができて何ができないのか知ろうよ! 現実と妄想の区別はつけようよ! ちゃんと相手と向き合おうよ! そうしないとナゼ彼(=マキシム)が“わたし”を再婚相手に選んだのかが理解できません。今のままじゃ“わたし”はただの世間知らずの自信の持てない小娘だし。……って、もしかして、そこがイイんでしょうか?(御しやすそうで?)
まだこの先、急展開があるみたいですし、ある意味楽しんで読んではいます。しかし…本の背表紙に書いてあった「ひたすらに愛を捧げようとする、若く純粋な女性の繊細微妙な心理を追求した〜」 って…違わない? てか私が男だったら、こんな愛は熨斗つけて返したいと思います。
ああ…なんで私の巡回するサイトの管理人さんたちは、こんなにも本を読むのでしょう。毎日どこかで面白そうな本が紹介されてるから、「読みたい本リスト」が長くなるばっかりじゃないですか! 今月は読書の波に乗っているので、毎日ほぼ1冊ずつ消化してるのに、全然減らない。読んだ本の中で違う本に言及してあるとそっちも読みたくなるし。嬉しいような、焦るような。ちなみに現在のリストは80冊くらい。マンガを含めるともっと長〜くなります。
それで先日は『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』という本を読んでいたんですが、分かった! 分かりましたよ! 何がって複雑なパレスチナ問題じゃなくて(そっちは分かったような気になりました)、私が世界情勢を全然覚えられない理由が。今までだって「興味ないもーん」ってスタンスじゃなかったのに、本に出てくる事件はほとんど初耳じゃないのに、まとめて読むと「おお、そうゆうコトだったのか!」って初めて聞くような気分になっちゃう理由が。私が固有名詞を覚えられないから、私が地理が苦手だからでした!
だって成人するまで独眼竜政宗は山陰の人だとか、室戸岬は北海道にあるとか思い込んでた人間なんですもん。歴史小説はけっこう読んでたのに、系統だてて覚えられないんです。たぶん私の脳のどこかにはかなりの量の知識が細切れで眠っているハズなんです。なのに、それがちゃんとリンクされてない。必要なときに出てこない。ホントに眠っているだけで、それなら無いのとほとんど変わりません。うー悔しいなぁ。聞けば「それは何となく聞いたコトある気がする…」となるので、ぽろぽろ落としているんじゃぁないと思います。
とにかく本を読みながら愕然としました。自分の物覚えの悪さに。すごく分かりやすく書いてあるのに、「えーっとレバノンってのは国だっけ、都市だっけ」だの「んでそこに住んでるのはどうゆう立場の人間だったっけ」だの「ナセルがエジプトの大統領?…アラブの大統領じゃなかったっけ?」だの、ほんの数ページ前に書いてあるのをいちいち確認しながらじゃないと読めないのですよ! ひーん、今でこれなら年とったらどうなっちゃうんだろう…。
それでも読まないよりマシなのは、具体的な地名やら人名やらは忘れても「お互い言い分がある」ってのだけは、イヤってほど叩き込まれるからでしょうか。だから読んだコトのほとんどを思い出せなくても、読まなかったのと“全く同じ”にはならないのです。…て、ホントは覚えられるもんなら覚えたいやい!
昨日の続き。坂田靖子さんのサイトについては、以前にも書いたコトがありますが、そのときのリンク先のテキストはもう削除されてしまっています。ナゼかってぇと、坂田さんは日記(?)コーナーに置く文章を「雑談」するように書いていて、雑談というものはきっちり記録しておくものではないからだそうです。だから古いものから順次削除されてしまいます。だけどあのテキストはとっても興味深いものだったので、ダウンロードしておかなかったコトを私は今激しく後悔しています。くうぅ…。
リンク先が消えてしまうと、私が前に書いた文章は何について話してるかはっきりしませんね。ちょっと思い出したコトがあるので、重複する点もあるけど改めて説明します。坂田靖子さんの『バジル氏の優雅な生活』とゆうマンガの、『ウィッシュ・ボーン』と副題のついたエピソードについての話です。いつもの如く怪しい記憶に頼って書きますんで、細かい点は違うかも。マンガの舞台は19世紀のロンドン、主人公のバジル氏は女性大好きの有閑貴族です。「早く結婚しろ」とせっつくお節介なおばさん連中を尻目に、あっちのご婦人やそっちのご令嬢と仲良く遊んでいます。他にも興味の対象は尽きず、いろいろと面白そうなコトに首を突っ込んでまわってます。
そんなバジル氏がある日出会ったのが、レディ・ビクトリア。いい年(当時としては)なのに、未だ独身の変わり者の娘さんです。彼女の「今は独身じゃなきゃできない事をしてしまうの」の台詞に、「それが済んだらおとなしく結婚の座に座るわけか」とバジル氏が聞き返すと、ビクトリアはきょとんとして答えます。「何言ってるの、結婚しなきゃできない事を始めるのよ!」 この彼女のバイタリティーには流石のバジル氏も振り回され、やがて惚れたかな?と思うようになります。
が、ビクトリアはその頃、別の男友達(幼なじみ)の家出に手を貸すコトになります。その男友達は貴族の次男坊で考古学にのめり込んでいたのですが、考古学者になりたいと言い出したところ、「貴族が趣味で考古学をやるのは構わんが、学者になるなんて!」と家族から猛反対を受け、軟禁までされて一度は夢を諦めてしまいます。一番手強いのが彼の兄のチャールズ。やっぱりビクトリアの幼なじみで、バジル氏の友人でもあります。チャールズとビクトリアは弟の件で大喧嘩をしますが、結局ビクトリアは彼の目を盗んで弟を家出させてしまうワケです。
弟の家出を知ったチャールズが激怒するかと思ったら、あらびっくり。彼はビクトリアに「君には僕の殻を壊して欲しい」とか言って結婚を申し込みます。要するに理解はできないながら、憧れていたワケですね。ビクトリアはこれを受けます。その決定を彼女から聞いたバジルは「僕が申し込むつもりだった」と口にします。ビクトリアはそれを聞いて「あなたは友人には最高だけど、夫には向かない人よ。いい夫を持つ女は多いけど、いい男友達を持っている女は少ないわ。あなたには親友でいて欲しいの」と答えるのです。で、その後2人は実際にいい友達になって、ビクトリアは旦那を置いてバジル氏とエジプトに旅行に行ったりもするんですが、まぁそれは別の話。
さて、坂田さんが書いていたのは、バジルとチャールズの女性観について(チャールズは女性を守らなくちゃいけない存在だと思っているけど、バジルはもっと対等な関係を結べる相手として認識していて、だから2人の会話は噛み合う筈がないのだって話)とか、ビクトリアの台詞に対する予想外の反響について(自分が意識して書いて反響が大きかったなら成功だけど、意図せずに書いたことに対して反響が大きいというのは、その反応を読めなかったという意味で作り手として失格だって話)とかでした。それがかなり深く突っ込んで語られてて、面白かったのです。
その反響のあったやり取りについてですが、坂田さんは「要するにあからさまに言ってしまうと、バジルは『チャールズと結婚した後、自分と肉体関係を持つ気があるかどうか』と尋ねていて、ビクトリアは『それを抜きにしても自分と友人関係を続ける気があるか』と尋ね返しているワケです」と説明していました。この説明、私ちょっと驚きまして。だってマンガ読んだときには、ビクトリアの答えはともかく、バジルのその誘いかけには全然気付かなかったんですもの。でもそれは読み飛ばしてしまったからかなーと思って、実家に帰ったときにこの話を注意して読んでみたんです。
……やっぱり、分からない。バジルの表現が控えめすぎるのか、私が鈍すぎるのか、彼の真意は私には伝わりません。うーむ。他の読者には伝わっているのかなぁ。その点、ちょっと気になっていたのでした。もしご存知の方いたら教えてくれませんか。あとビクトリアがバジルに向かって「あなたには運なんていらないわ。運以上に友達を持っているもの。友達を持っている人は何もいらないのよ!」と言うシーンがあります。好きな台詞です。ストーリーのどの部分に入っていたのか忘れちゃったけど、フラれた後だったとすると、言われたバジルはちょっぴり寂しい気持ちになったでしょうなー。
それにしても結婚後に異性の親友を持ちつづけるというのは、現実的には難しかろうとか。ならやっぱり結婚は親友(候補)とするべきだなーとか。じゃあ世のご夫婦は皆親友なのかっつーと、そんなコトはなさそうだなーとか。じゃあ何がかすがいになっているのかしらんとか。まあ親友でもケンカ別れするコトもあるもんなーとか。この話、反響が大きかったのはよく分かります。
坂田靖子さんのサイトで、詩人の立原道造という方に関しての文章を読んで、うーん、と考え込んでしまった。彼女のサイトには1年ほど前から足しげく通っているので今更なのだが、彼女の“好きなものを語る文章”にはホントに毎度やられてしまう。くらくら。難しい言葉を使っているワケじゃないのに、彼女の“好きパワー”には力がある。こんな風な、対象を知らない人間にも「読んでみたい」と思わせられる文章を書けるようになりたいなーと、いっつも自分の力不足を思い知らされてしまう。
批評じゃなく、自分の好きなものを素直に好きと言って、それで誰かが興味を持ってくれたら嬉しいなぁ、と前から思っている。私は愛のある文章って読んでるだけでシアワセになれるし、だから私の文章でほんわかしてくれる人がいたら、シアワセだなぁとも。て、そのワリには文句ばっかり言ってる気がするが、そこはそれ、年増の深情けというか…あれ? 醜女の深情けだっけ? どっちにしろ使い方間違ってるかしら。とにかくほら、期待を裏切られるとつい恨み言の一つも言いたくなるってゆーか。ツッコむのがある意味楽しいところもあるし。リンク張った坂田さんの文章にある森鴎外や石川啄木に対するツッコミ方なんか、いいじゃない? ね? ね?
坂田さんの作品って雑誌で言うと「刺身のツマ」のポジションで(確かご本人もそんなコトを書いていた)、ないと寂しくてもメインにはならない。作風はちょっぴりブラックが入っていたりもするけど、大体がふんわりのんびりした感じで、サイトに通うようになるまで、数点のシリーズを除きあまり熱心に読んではいなかった。だけど…サイトの文章を読んでみると、彼女の創作に対する考え方とか、人の作品に対する分析とか、すごく面白いのですよ。長年プロで活動してられる方に失礼だけど、正直びっくりした。読み流さない人には、彼女がいろんなトコロからパロってるのも分かって楽しいだろうな。坂田さんの好きなものを並べたというおたのしみ箱には宝物にしたいような文章がいっぱい。ただ時々壁紙がうるさくてテキストが読みづらいのは難点です。
『世界まる見え! テレビ特捜部』で世界一過酷と言われるヨットレースのドキュメンタリー番組を紹介していた。普通10人くらいで操縦する艇にたった1人で乗って、フランスから出発し南極を一周して戻ってくる、4万キロのレース。スタートからゴールまで3ヶ月以上かかるそうだが、その間外部からの援助はいっさい禁止。もちろん寄港も禁止である。すすすごい。この番組、もともとは30分? 1時間? ピックアップじゃなくって全部見たい。もし日本で途中経過を放送してくれたら、私はテレビにくぎ付けになる。これは危険な映像を見てハラハラしたいなんて理由じゃない。誓って違う。
ユーコンクエストのドキュメントを見たときも思ったんだけど、私こうゆうの大好きだ。好きというより尊敬する。ホントに。例えば高い山に登りたがったり、深い海に潜りたがったり、そういう衝動はどこからくるのだろう。高く高く深く深く、まだ人の到達したコトのないところまで。到達してしまったら、今度はあえて困難な方法で。時間を区切って、道具を捨てて、単独で。別にそれをやらないと死んでしまうワケじゃないのに。しなくても生きていけるのに。なぜそこまで挑もうとするのだろう。人間以外にこんなバカなことをやる生き物っているんだろうか。
そしてそのバカどもは、どうしてああもカッコいいのだろう。私は人間の、そんなバカさ加減を愛さずにはいられない。強く強く憧れる。こうゆうときばっかりは、人間って素晴らしい!って気分になる程に。
・・・・
でも考えてみれば同じく「限界に挑戦する」んでも、私が憧れるのは自然を相手にしている人だけだなぁ。ボディービルダーなんかちっともカッコいいと思わないし。人によっては痛々しいだけだし。他のスポーツでもそこまで感情をかき立てられたりしないや。
さてさて、観劇記録。まだ上演中なので、例によってネタバレ部分は隠して書きます。あと例によって長いです。お覚悟のほどを。観に行ったのは『アテルイ』。2000年8月に上演された『阿修羅城の瞳』に続く、中島かずき脚本・いのうえひでのり演出の松竹プロデュース作品第二弾。『阿修羅〜』の詳しい感想を書いたような気がして探してみましたが、2000年8月ってまだサイトを開く前でした。作・演出のお二人は劇団☆新感線の人で、劇団☆新感線といえば派手で長くてロックでうるさい。今イチ私の好みから外れるんだけど、役者とたまの大当たりを期待してつい観にいってしまう劇団です。3月に観た『天保十二年のシェイクスピア』(感想コチラ)も彼の演出ですな。が『阿修羅〜』と『アテルイ』は、もう少し一般受けしやすい作りになっています。どっちも3時間以上と長いのは変わらないけど。今回の感想とも繋がるので、まずは前作の感想をさらっと。
『阿修羅〜』は主演が市川染五郎と富田靖子。魔を狩る男と魔物の頂点に立つ女が、相手の正体を知らずに出会い、惹かれあい、やがて刃を向け合うようになる…といったストーリーで、意外なコトに(失礼!)市川染五郎がよかったです。クライマックスシーンで刀を構えた2人が対峙するシーンなんか「突き立ててぇんだよ!おまえの中に。俺の情のありったけをな!」だの「きっちりイかせてやるから安心して成仏しろよ」なんて台詞連発で、視線を絡ませあいながら相手の隙をうかがい間を詰める緊迫したシーンの濃密で美しかったコト!
さすがに染五郎の着物姿は決まっていて、ぱっと裾を掴んで花道を去っていく姿が色っぽくて、ドラマに出てる彼って好きじゃなかったんだけど、これで私はずいぶん彼を見直しました。一度ホントのホームグラウンドにいるところも見てみたくなった程。富田靖子は可愛らしかったけど、染五郎が立っていただけに、ちょっと力不足。貫禄があったのは、江波杏子。ただずっと一本調子なので最後の方は飽きてしまったのが残念でした。あと渡辺いっけい。二役をやっていて、その二役ががらっと違うキャラクターになっていて、二役目の刀鍛冶なんか間が絶妙で大笑いさせてもらいました。
で、こっから今回の『アテルイ』の感想。チケットの金額に怯みつつも、市川染五郎・堤真一・水野美紀らの豪華キャストにふらふらと財布の紐がゆるんでしまいました。今回のは、ロックも歌もなし。ダンスはちょっとしたアクセントくらい(でもカッコいい)。ギャグは入るけど脱線まではしない。ストーリーはしっかりしてる。好みとしてはもう少し短くまとめて、クライマックスに入ったら世界に浸りきらせて欲しいんですけど、その辺は隙がありました。ぐーっと盛り上がりかけたところに、ちょっとしたギャグシーンが入ってしまうので、熱が醒めてしまうのです。それでも全体的には充分楽しめる出来でしたね。前回の『阿修羅〜』よりも。なぜなら……堤真一がめちゃくちゃカッコよかったんですものー!!!
主役は蝦夷(えみし)の長、阿弖流為(アテルイ)。寡聞にして知らなかったけど、古代東北の英雄だそうです。また今年は彼の死後1200年目にあたり、この舞台以外でも盛り上がってるとか。これが市川染五郎。で、蝦夷征伐を行う征夷大将軍・坂上田村麻呂が堤真一。お互いの力を認め合いつつ敵対する男二人を中心に、物語は進んでいきます…。が、今回衣装が着物じゃないのです。前回は舞台設定が江戸時代だったから着物でしたけど、今回は古代。そして着物じゃないと…市川染五郎より堤真一が絵になるのです。や、単独で見れば市川染五郎もカッコいいんですよ。殺陣も決まってる。衣装も似合う。けど、なんせ宿命のライバル同士、何度か直接対決するのです。そうするとついつい堤真一に目が行ってしまうのですよねー。
あと、市川染五郎の演技がちょっと真面目すぎました。前回は女に弱いおちゃらけ男で、それがいい感じに出てたんですけど、今回は神に呪われ蝦夷の運命を背負い、苦悩しまくります。その演技がストレート過ぎちゃって…。対する堤真一は軽い、けどしっかり芯の通った男。戦いに赴くときの余裕が違うのですよね。例えば北の地でアテルイと田村麻呂が刃を交わすシーンがあります。他にその場にいるのは田村麻呂をひたすら守る釼明丸(水野美紀)と、アテルイと共に闘う烏帽子(西牟田恵)。二人の女は、隙を見て手助けしようとするのですけど、そのとき田村麻呂が刀を使わず烏帽子を下がらせるのですよ。
ここで、堤真一は笑うのです。その顔を見て、烏帽子が思わず一歩さがる。それが不自然に感じられないくらい彼の表情は迫力があり、ちょうどその顔が私の席からは真正面で見えて、思わず惚れちゃいました。マジで。だって普通あそこで笑わないですもん。あとクライマックスで自分がした約束を踏みにじられたのに、帝に歯向かって逆賊になる覚悟も決められず、迷うシーン。このときは真面目に苦悩してるんですけど、その表情が押さえ気味なだけに切ない。もう乙女心くすぐられまくります。それに何より立ち姿が美しくて。大柄で手足のバランスがよくて、殺陣も隙がない。長髪が似合うし。堤真一を舞台役者として認識したのって最近なんですけど、こんなにカッコいい役者さんだったとは…。ファンになりそう。
アテルイの役も好き。ラストで田村麻呂にわざと自分を斬らせ「これ以上北の地に手を出すなら、俺はアラハバキ(蝦夷の地を守っていた神)と共に災いの戦神(いくさがみ)となって、都を呪おうぞ」と言いながら死ぬシーンでは泣きました。直前、アテルイに斬られる飛連通(粟根まこと)の死に様も好き。アテルイの盟友・母礼(モレ)も笑えて泣けます。余談だけど芝居見てて、感情移入して悲しくなったり同情したりってワケじゃないのに、気がついたらだーっと涙が出てて「あれ私なんで泣いてるの?」ってときがあります。空気が濃すぎて思わず泣ける…って感じ。今回はそれでした。
他の役者さんでは今回も渡辺いっけい。この人って千の仮面を持ってるんでしょうか? 言われなくちゃ彼だってわからなかったです。役柄によって全然違う、いい役者さんなんですねぇ。西牟田恵は安定した演技で、流石!って感じだったし、水野美紀も初舞台にしてはガンバってました。あと御霊御前(みたまごぜん)役の金久美子。彼女も前回の江波杏子ばりの迫力で、さらには演技にメリハリがあってすごく良かったです。悪役のもう片割れ、紀布留部(きのふるべ)役の植本潤も好き好き。佐渡馬黒縄(さどまのくろなわ)の橋本じゅんも良かったし…。今回役者さんは外れがなかったです。プロの舞台とはいえ、こうゆうのは貴重ですね。あと着ぐるみの皆さんには笑いましたし、ねぶたの跳人の掛け声にはワクワクしました。あのリズムにはなぜか血が騒ぎます。結果、掛け値なしにいい時間を過ごせました。いやー芝居ってほんっとにイイですね!
ひゃー。ゆきさんとのデートは木曜じゃなくて水曜じゃん。一回「昨日」と書いたのを、日付が変わっていたからワザワザ直したのに。こっそり修正しとこ。なんだか今週は曜日の感覚が狂っていて、会社でも火曜日に「なんで皆、書類を出してくれないんですか! 今日締め切りって言ってたじゃないですか!」と怒っていたら、実は締め切りは木曜日で(しかも私が決めた)「すみません勘違いでした」メールを出す羽目に。羽目に…って自業自得ですけど。ああもうみんなこの異常な暑さが悪いのよう!
ホントの木曜日には新橋演舞場八月公演『アテルイ』を観てきました。書きたいコトが山のようにあるので、一両日中に改めて。なんかちょっと前に「更新頻度落ちる」とか書いたような気がしますが、次の日には忘れていたようです。みんな暑さが…(以下略)。『アテルイ』について一つだけ。面白かったんだけど、チケットが1万超すのはツライなぁ。7〜8千円なら納得して喜んで出すのに。もー最近の芝居、料金が高すぎ。かと言って席種を落とすと、迫力も一緒にすとんと落ちちゃうし。ああ。
お金と言えば。自力で運動不足を解消する甲斐性がないので、以前から習ってみたかったコトを始めようかと思ってます。が、始めるとなると月謝が1万円はかかる。最近ゆるみっぱなしの財布を引き締めなければ、毎月1万の出費はキツイ。でもやりたいので、締めればなんとかなるんだろうか…と、久しぶりに真面目にお金の計算に勤しんでみました。結果は思わしくなかったです。何でこんな趣味ばっかり増えるのでしょう。1つでも止めればずいぶん楽になるのは分かっているのに。と、ここで止めるコトを考えずに、宝くじが当たらないかと妄想に耽る辺り、だてに長いことキリギリス人生送ってるワケじゃありません。私って意外と趣味にうつつを抜かしてダンナの稼ぎを食いつぶす有閑マダムが似合うのじゃないでしょうか…って、意外じゃないか。ちっとも。
水曜日は羊飼いの唄のゆきさんと初デート。またもや予測どおり可愛らしい人で舞い上がってしまう。18:30に待ち合わせて、居酒屋へ。いろいろ話してそこを出たのが20:40。で、適当に静かそうなバーに入って、またいろいろ話す。気がついたら他の客がいなくなっていて、店の人に「時間大丈夫ですか?」と聞かれる。「何時ですか?」「12時15分ですね」「……ええっ!!」 せいぜい23時くらいだと思っていたのに。5時間以上喋ってたのかオレ? 何とか終電には間に合い、家に辿り着く。寝過ごしかけたけど。話に夢中になると時間を忘れるのは困ったものだ。今度からアラームかけとかないと。何はともあれ、マニアックな話がいっぱいできて、ホントに楽しかったです。
その後、最寄駅から自宅に向かってふらふら歩いていると、いきなり「英語喋れる?」と声をかけられた。暗くてよく見えなかったけど、インド系っぽい2人組。「喋れるよー」「どこ行くの?」「家に帰るとこ」「時間あったらお茶飲まない?」「飲まない」「そうかー、じゃあね」「ばいばーい」と極めて友好的(?)なやり取りを交わす。こうゆう場合、酔っ払っている方がスムーズに反応できるなぁ。文法考えようとか、上手に話そうとか思わないせいかしら。だいたい「喋れるよー」てのが図々しい。でも考えてみると、外国に滞在してるときはこんな風に条件反射みたいにして話していた気がする。君は日本人なのになぜ文法ができないのだ、とよく怒られたもんです(←遠い目)。
声をかけてきた人は、すごく聞き取りやすい英語で喋ってたし、久しぶりに錆付いた英語を磨く努力をしても良かったかも知れない。時間が夜中の1時じゃなくて、相手が車じゃなかったら、ね。
ニュース番組とかワイドショーとか(特に後者)の、リポーターの誘導尋問ぶりが腹に据えかねるときがある。手に入ったホンの少しの情報から、ありきたりな「わかりやすい物語」を組み立てて、そっちの方向に導こう導こうとする。言葉の使い方にあまりこだわらない人なんか「じゃあ、〜ってコトですね?」と言われたら、例え微妙な差異があったとしても「そうです」って言っちゃうじゃないか。それにその誘導っぷりが余りにもあからさまで、見え見えで、うんざり。
「わかりやすい物語」は人を安心させるのかも知れない。けど、ホントは分類できっこないモノを枠に押し込めてわかったような気になっちゃうってのは、危険だと思う。だいたい、彼らの紡ごうとする物語は陳腐。陳腐なんだよ。想像力を持ち合わせていないんじゃないのか。…って、別に想像力を駆使して陳腐じゃない物語を“作って”欲しいワケじゃないですよ。いや創作活動でならやってもらってもイイんだけど、そうでないなら下手な演出は止めて欲しいだけ。どう受け取るかはこっちが決める。
手土産を持って友人宅の最寄駅で降りたら、ちょうど町内盆踊りをやっているトコロだった。炭鉱節音頭に誘われて、ちょっとだけ覗きにいく。揃いの浴衣を着て踊っているおばさんたちを眺めつつ、そう言えば私は小さい頃このおばさんたちになりたかったんだよなぁと、ぼんやり思い出す。あの頃、盆踊りにやってきて揃いの浴衣でぴしっと踊るおばさんたちはプロの踊り手で、日本中のあの町この町の盆踊りに出かけて踊るのを生業としていると思い込んでいたのだ。んー、もしそんな職業があるんなら、今考えてもけっこういいかも。各地の盆踊り会場が仕事場。仕事の後にはあんず飴。ステキ。
そのまま友人宅になだれ込み、楽しかったダイビング話などを聞きつつ(くそぅ)、もてなしを受ける。一泊して日曜夜にウチに帰った5分後に、激しい雷雨。外にいなくて良かった。雷が鳴ったくらいできゃーきゃー言うキャラじゃないんだけど、あの凄まじい音には流石に半分本気で怯えた。だって隣に落ちたよ?って言われても信じそうなくらいの、すんごい音がしたんだもの。1階からじゃ空がぴかぴか光っているのぐらいしか見えないけど、高いマンションに住んでたらどかどか伸びる稲妻がはっきり見えただろうなぁ。羨ましい。あの光景は好き。自分が安全な部屋にいる限りは、だけど。
田舎では雷を雷(らい)さまと言っていて、その言葉の響きが好きだった。校庭で遊んでいて空が暗くなると「あ、雷さま雲だ。早く帰ろう」とか言って家に急いだ。なぜか東京だと「雷さま」って感じがしないのは残念だ。それに雷雨が去ってもろくに涼しくもならない。残念どころかムカつく。エアコンのない私の部屋は毎日毎夜蒸し風呂のようで、寒さより暑さが好きな私も半分とろけかけている。今更だけど東京の暑さは人間の許容範囲を超えるよ。文章をまとめようという気にもならない。てなワケで、更新頻度、落ちるかも知れません。いや落ちます。もうだるだるでだるだるで。
仲間たちはダイビングを楽しんでいると言うのに、私はウツウツと鼻風船を膨らませている快晴の土曜日。久しぶりにお菓子でも作ってみるかとスーパーに出かけても、探すモノが見つからなくて気分が晴れません。オレンジヨーグルトケーキを作るつもりなのに、台にするスポンジがないってどうゆうコト? それでもスーパー? そう、台から作れって言うのね? いいわよ、その気なら作るわよ。ふん。は? 無塩バターがない? なんてこと! …あったけど、このおフランスの高級バターを使えと? あなた何様? んでコアントローが大瓶しかないって何だよ!
要するに、自分が不甲斐ないんですけどさ。ああ、耳管検査なんか冬にやっときゃ良かったよぅ。海行きたいよぅ。と、自分を哀れみながら卵を泡立てていると、何となく落ち着いてきました。しばらくやってなかったけど、お菓子づくりは嫌いじゃないんです。高校生の頃は手作りのケーキやらパンやらを日曜市で売って小遣い稼ぎをしていたくらいです。自分好みに味の調整できるんで、下手なお店で買うより美味しくできるし。さあ、最後の仕上げだ!……ケアレスミスでプチ失敗。…いいもん。これ持ってって、仲間たちに合流だー。少しくらい大目に見ろぃ!
今、冷蔵庫でケーキが固まるの待ってるんですが、なんか無駄なテンション使ってる気になってきました。独りエキサイトは自重した方が良さそうです。ちなみに上記の鼻風船とは文字通りの代物です。私が鼓膜を痛めたのは、ダイビングの耳抜きというテクニックが上手くできなかったからで、その訓練のために医者から渡されたものが、鼻風船。…正式名称はオトヴェントとか言うんだけど。でもどう見ても鼻風船。マジメな顔で鼻息で風船を膨らませていると、ばかみたいな気持ちになってきます。ふん。ふんふん。(←鼻息)
最近ちょっとお酒に弱くなったかなーと思ってたけど、人と一緒なら、まだまだイケルみたい。楽しく飲めた。「すごいなぁ」と思える経験や知識や感性を持った人たちと話すのは、すごく刺激になって面白い。そうゆう機会を持てる自分はシアワセ者だと思う。
ふと思い立って小泉節子(小泉八雲の妻)の『思い出の記』を読む。上手く言葉が見つからないんだけど、すごく好き。なんかすごく素直で、嘘がない感じ。ぐっと来まくり。青空文庫のココから読めるし、短いのでぜひ。オススメ。プリントアウトして紙ベースにして竹林に囲まれた日本家屋の縁側に座ってゆっくり読みたい文章。それはムリでも横書きでは読んじゃだめ!って感じ。<どんなんだ。
何となくの流れで最近、心の病気の本を続けて読んでいるのだけど、そうすると症状のいくつかは当てはまるような気になってくる。特に「何となく気力が湧かないって人は、まず部屋を片付けて決まった時間に起きなさい」という記述は耳に痛かった。いや全然心の病気とは関係ないな、コレは。部屋が汚いだけだ。んで、そう言われるとすぐにその気になる私は早速部屋を片付けてみた。んーサッパリ。狭い部屋なんだから、やり始めればすぐに終わるのだ。なのにナゼきれいな状態をキープできないのだろう。気がつくと手紙やら本やら服やらが転がっているんだもの。寝てる間に何かしてくれる小人さんが居るんだったら、真っ先に掃除をお願いしたい。片付いた空間は好きさ。
さて、昨日の補足。「現状維持がツマラナイ」というのは、常に変わっていかなくちゃいけないってコトじゃないです。変化を怖がりたくない、という事。自分と違うものにもオープンでありたい、という事。選択肢は常にたくさんあるのだと忘れたくない、という事。欲しいものがあったときに、自分で自分に言い訳をして諦めて「すっぱい葡萄だったんじゃーん」と信じ込むようになりたくないって事。
ところで『きつね物語』ってご存知ですか? 子供の頃に愛読してた本で、人間語を話せるきつねが主人公です。その中のエピソードに、人間のお父さんが子供にイソップの「すっぱいぶどう」を話して聞かせているのを、きつねが立ち聞きするってのがあります。きつねはその後すぐに、ぶどう棚を見つけます。んで「俺は物語のきつねみたいにバカじゃないぞ」と納屋から梯子を持ち出して、首尾よくぶどうを手に入れ、大喜びでぶどうを口に運びます。……ええ、すっぱいんです、そのぶどう。「あ、あれは教訓話じゃなくて、ホントだったんだ!」ってのがオチ。いい話だったなー。
…なんとなく、私もこのきつねの轍を踏みそうな気がしないでもなくもないような。