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1992年当時、私は今よりずっと貧乏でした。でも長期の旅行に出ることは、ずいぶん前から決めていたのです。いろんな国に行ってみたい→でもその度に仕事は休めないし、毎回飛行機のチケットを買ってたら、いくらあっても足りない→じゃあ1回で全部済まそう、と安易に決心。これ以前の海外旅行は、高校生の時行ったニュージーランドだけで不安もありましたし、治安とか1回で多くの国を巡るという条件を考えて、行き先はヨーロッパにしました。更に面倒くさいので“ビザのいらない国”、それだけで行き先を決め、結果、小さな国も含めて16の国を訪れました。同行者は妹。いわゆるバックパック旅行でした。

エーゲに死す

ギリシア! 碧いエーゲの海、突きぬけるような青い空、それに映える白壁の町並み、オリーブ…!

確かに、独創的なイメージじゃないのは認める。だがガイドブックの表紙には大抵こういう写真が載っているのだ。期待したのも無理ないだろう。でも。今現在の私のギリシアのイメージは“信用できない国”である。いつかもう一度行かねばならない。そして当初のイメージを取り返すのだ。今度行くときは、夏。観光客がウヨウヨいる時期にする。そして金を使う。ボリやがる、なんてケチなことは言わないで使う。そうすれば、きっと楽しめる。楽しんでやる。くっそー。

日記を読み返してみると、当時の私はかなり勢いで行動していたようだ。ギリシアに入国したのは11月も終わり。もうかなり寒かったはず。旅も終わりに近かったし、かなり消耗してきていたのかもしれない。そんな弱った私に、ギリシアは手強すぎた。

1992年11月22日、私はイタリア半島の踵の辺りに位置するブリンディシから、アドリア海を船で渡ってギリシアのパトラスに入った。…こう書くと優雅な旅行っぽいが、違う。順を追って書こう。ギリシアに行く前日の11月21日は完璧な移動日で、10時から17時半まで電車に乗りっぱなし。その途中で、そのまま移動を続けてギリシアに行くことを決めたらしい。我ながら思いつきだけで行動している。船は夜の出発。夏場なら安いチケットは先の先まで売れているらしいが、オフシーズンなので当日でも手に入った。買ったのは椅子席。一番安いのはデッキクラスなのだが、さすがに甲板で夜を明かすのはのはキツすぎる。が、椅子席ってのもプライベートスペースが全然なくて、これもキツかった。顔の濃さはイタリアと通じるものがありながら、お腹のぽっこりした背の低い陽気なオヤジたちを多く見かけるようになったのは、この船からではなかったか。彼らの体臭もはキツさの一要因。

結局ほとんど眠れず、次の日、22日もぐでぐでして時を過ごす。船旅を楽しむには寒かったのだ。現地時間の18時(イタリア時間の17時)にパトラス着。ギリシアの土を踏んですぐに、バスのチケットを買ってアテネに向かう。現地通貨はDr(ドラクマ)。1Dr=0.61円くらいだった。バスは19時発で22時にアテネ着。ホント移動続きで、今から見るとかなり無茶している。時間も遅かったので「地球の歩き方」からホテルを選んで宿泊。私は「歩き方」とはあまり相性がよくなくて、この時も失敗だった。

移動続きで疲れてたし寝不足でもあったのに、ホテルが寒くてまたもや眠れなく、23日、ふらふらの1日を始める。そんな状態でアテネからクレタ島→ロドス島→トルコと移動する手配をしたので、当然の結果を招いてしまった。夏には島を巡るツアーが各種あるらしいが、この時期は船の本数も極端に減る。まずはツーリストインフォーメーションに行くも、欲しい情報は手に入らない。どうもクレタからロドスに行く船がない…というか、その情報がないらしいのだ。旅行代理店なら情報を持っているかも、と思ってバックパッカー向けの旅行代理店が建ち並ぶ通りに行ってみる。そこで忘れもしない“KFツアー”って会社の客引きにつかまってしまった。

道で客を引く会社にロクな会社がないのは分かっていた。今まで客引きに付いていって、成功した経験はない。だがこの時の私は寝不足で思考力が低下していた。しかも早くチケットを押さえたかったし、他のところで「ない」と言われていたので、ついフラフラと事務所に連れこまれてしまったのである。そこで提示されたのは“夜アテネ発。次の日早朝にクレタ着。その日と2日目をクレタで過ごし、夜またロドスに向けて出発。3日目早朝にロドス着。ロドスで2泊。最後の日は日中の移動で、朝出発、夕方トルコ着”というもの。船も頻繁にはないのだし、2つの島で2日ずつ過ごせるので、日程的には妥協できる。が、問題は値段である。宿泊費も含まれているとのことだが、それでも調べてきたよりもかなり高い。「ホテルじゃなくてユースとか、安いのでいいんだけど…」と言ってみるが、夏に営業しているホテルは少ない、特にペンションは夏しかやってないと言われる。怪しい。「他の代理店も回ってから、ここが安かったらまた来る」と出ようとすると、何故か旅行代金がどんどん下がる。多分ぶっつけで島に行ってしまっても、何かしら安宿があるとは思った。が、私は疲れていた。疲れすぎてハイになって気が大きくなっていた。まだ値段は高めだったが、まぁいいかと申し込んでしまった…。思考力が低下した状態で行動すると、こういう結果になるのである。

船が出るのは11/26で、まだ間があるので、先にアポロンの神殿のあるデルフィへと向かう。アテネからバスで3時間弱。なぜそこに行ったのか、今になると思い出せない場所ってけっこうあるのだけれど、ここもその一つ。マリオン・ジマー・ブラッドリーの小説の舞台になってたっけ? そうだとすれば「ファイアーブランド・シリーズ」だけど、定かでない。思い入れの強い場所ってのは行った時も楽しいし、今でも記憶に残っているのだけれど、ガイドブックとかの記事に惹かれて行った場所はダメだ。記憶にも残らないし、ガイドブックの切り抜きでも持って行かない限り、“何でここに来たかったんだっけ?”と思ってしまうほど。デルフィで覚えているのは、夕食を食べに行ったレストランでやたら注目されたことぐらいだ。日本人観光客など、もはやどこに行っても珍しくなくなったと思っていたのに、ここではなぜか珍しがられた。メニューを決めかねていると「あれが美味い、これがいい」と次々声をかけてくる。すすめられた料理はどれも当たりだった。

24日、同じ宿に泊っていたアメリカ人女性にアテネでの宿を紹介してもらう。こういう口コミが一番信用できる。後は遺跡を見て博物館を見てアテネに戻る。25日と26日はアテネ観光。ゼウス神殿、民芸博物館、アクロポリス、リカヴィトスの丘…としっかり観光したのだが、もうボンヤリとしか覚えていない。残念。26日の午後に、船の出る港町ピレウスへと向かう。船の名前は「ミノス王」。出航まで時間があったので、港を見下ろすカステラの丘に登った。すぐに高いところに登りたがる私。今回も夜の移動で、しかもギリシアに来るときに乗ったのと同じような椅子席だった。でも今度の方が全体的に少しずつ上等だ。船の中でも言語学者だというドイツ人の女性に日本語の仕組みを根掘り葉掘り聞かれて、いい時間つぶしができた。彼女はクレタ島在住だそうで、フェストス遺跡を勧めてくれた。おまけに夕食に自宅へもご招待してくれる。ラッキー。クレタではクノッソス宮殿に行くことしか決めていなかったので、1日目にクノッソス、2日目にフェストスに行くことにする。

予定よりちょっと遅れて、27日の7時にクレタ島に到着。迎えなんかないので、自力でホテルに向かう。途中で朝食。ここからロドス島への船のチケットは仮のものしかもらっていなかったので、この島でまた代理店に行き、本チケットと取り替えてもらわなくてはいけない。荷物を置いてからまずは代理店に向かったが、まだ開いていない。仕方がないので観光を先にしてクノッソス宮殿へと向かう。

ここの遺跡はよかった。イタリアやギリシアを旅していると、遺跡なんてものは食傷するくらいになるのだが、ここは建物のかなりの部分が残っていて、在りし日を想像しやすい。ガイドブックに載っている遺跡の写真は上手に周囲を切り取ってあるので神秘的に見えるが、行ってみると周りにビルが林立していてがっかりなんてこともよくある。しかしここは違う。周りに何もない。敷地も広いので、一度入ってしまえば、周りに気を取られないで済む。地下の薄暗い通路など不気味でいいし、壁画の色も鮮やかに残っている。ただ、やっぱり予習は必要だ。『ミノタウロス伝説』ぐらいは知っている。しかしそれ以外で、例えば同じ建物を見るのにも、そこが何に使われていた場所なのか分かっていた方が楽しめる。ここはその点でもついていて、ちょうど日本人観光客の団体がやってきたので、金魚のフンになって一緒にガイドの説明を聞かせてもらえた。

次に行く前に、旅行代理店へチケットを受け取りに行く。ここで時間を確認して…はぁ? ちょっと待て。クレタ出発は、翌日の夜のはずだ。なのになんで6時出航と書いてあるのだ? 間違いかと思ったが、願ったが、間違いではなかった。しかもそれを逃したら、次は1週間後…。これに乗るしかない。クレタ滞在を1週間も伸ばす気はない。予定が全部狂うので、ロドス島のホテルの予約も取り直してもらう。トルコ行きのチケットは、またまたロドス島の代理店で交渉しなくちゃいけないらしい。ここまででも私は相当怒っていたのだが「出航の時間からすると朝の5時にはホテルを出なくちゃいけない。じゃ、約束されてた朝食は?」って話になった辺りから、キレた。

この手違いのせいで、クレタの滞在時間はほぼ1日短くなってしまった。フェストスにも行けそうもない。前日に船で知り合った女性のお宅に行くのも、ダメになる。それやこれやで怒っていたのだが、私がいくら怒鳴っても船の時間を変えられる訳ない。だから「私たちの責任じゃない」「船はこれしかないんだから、予定を変えるしかない」って相手の言葉をじっと我慢して聞いていたのである。だが朝食の話は違う。ここで向こうからも譲歩を引き出さなけりゃ負けっぱなしではないか。「どうすることもできないわ」「何とかしてくれなきゃ困る。朝食が食べられないならその分の料金を返してくれ」「ホテル料金は食事込みなんだから分けられないのよ」「じゃ何とかして朝食を出して」「うちに言われても…。KFツアーに直接言って?」「アテネに行けって言うのか? この島のホテルでこの島にいるのはあんたたちなんだから、何とかして」「今朝船がついてからすぐにホテルに行ったら、その分の朝食が食べられたのに。なんで食べなかったの?」…。

押し問答が続くが、埒があかない。ここで私はある旅行のHowto本に書かれていたテクニックを使うことにした。いわく“怒っている時に不慣れな英語を使っても交渉は進展しません。要は相手に怒りを伝えればいいのです。日本語でいいから思いっきり捲し立てましょう。” 私はどちらかと言うと静かに怒るタイプであって、あまり怒鳴ったりはしないのだが、この場合仕方がない。やるしかない。私は日本語に切り替えて思いっきり怒鳴った。相手は静かに聞いていた。勝利か? しばらくして、息を切らして口をつぐんだ私に、相手は冷静にこう言った。「ごめんなさい。中国語で言われても分からないわ。」 …慣れないことはするもんじゃない。勢いを削がれて「いや、中国語じゃなくて日本語なんだけど…」と丁寧に訂正を入れる自分がちょっと悲しいだけだった。

粘った挙句やっとホテルに連絡を入れさせて、朝食を4時に出してもらうところまでこぎつける。電話1本入れれば済むのに、まず客にあきらめさせようとする辺り、日本とは感覚が違う。怒りは続いていたがここではもうどうしようもないので、アテネに戻るまで棚上げすることにする。この日はあと考古学博物館にだけ行って、早寝。翌28日は3時半起床。受付に行ったら朝食の話は聞いてないと言う。寝る前にちゃんと確認したのに、引継ぎって知らないのか? もう意地だ。また交渉して朝食を出してもらう。お茶だけを飲んで、パンやチーズはサンドイッチにしてお弁当にする。朝の4時から入るかよ(←自分で出せって言ったくせに)。後は船に乗りこみ、ロドスへと向かうだけ。今度のはあまりいい船じゃない。さらにまた、14時半着と聞いていたのに、実際にロドスに着いたのは17時半だった。

結果から言うと、このロドス島の代理店が一番しっかりしていた。電話連絡も入れてくれるし、トルコ行きの船の予約変更もしてくれてたし、約束した時間にはちゃんと来てくれた。ホテルの部屋も朝食も、ロドス島のは問題なかった。が、悲しいことにこの頃の私は疑心暗鬼の塊になっていたので、何をするにもシツコイくらい確認せずにはいられなく心が落ち着かなかった。ロドス島は、たぶん青池保子さんのマンガの影響(十字軍ネタの奴)で行った島なんだが、やっぱりこの頃にはマンガの内容も忘れてしまっていて、目的が今ひとつはっきりしなかった。が、その割には雰囲気を楽しんだようではある。2泊して11/30、トルコに船出。

イスタンブールに1週間ほど滞在し、12/7の午後にアテネに戻ってきた私には、しなくてはいけないことがあった。KFツアーの再訪だ。午後しか時間がなかったので勇んで行くが、事務のおねえちゃんしかいない。その人は「権限がないから金は返せない」の一点張りだったが、船の値段をゴマかしたのも分かっていたので、以前書いてもらった料金の内訳と船の正規運賃の差額に話を絞り「今責任者がいないから、お金を返す訳にはいかないが、確かに料金間違いのようだから、この分の料金は後で日本に送る」という約束までこぎつける。

まぁ十中八九、返ってこないのは分かっていたが、おねえちゃん相手にこれ以上続けても進展があるとは思えない。目的(=直接文句を言う)も一応は果たしたことだし、そこで引く。その日はアテネに泊り、次の日電車でオリンピアへ。1泊してまた飽きるほど遺跡を見、12/9夜にパトラス発の船に乗って、イタリアへと戻る。

KFツアーにボラれた以外、別にギリシアに文句はなかった。ただオフシーズンなので美味しげなレストランが閉まっていたり、街が閑散としていた印象は否めない。アテネはそうでもなかったが、島やオリンピアはそうだった。さして期待もしていなかったが、日本に帰国した後もKFツアーからの送金はなかった。さらに、ギリシアは目に見えないもう1つの罠を仕掛けていたのだが、当時の私たちにはそれを知る術はなかった。その罠は、帰国直前にイタリアにおいて明らかになるのである…。


トルコに落とした純情

さてギリシアから船でトルコに渡ってきた私たちであるが、この国に関する知識はほとんどなかった。旅の予定をたてるのが大好きな私にしては珍しいが何のこたぁない。日本を発つときには、トルコが予定に入っていなかっただけである。なのに旅行中に知り合ったバックパッカーたちが口を揃えて「ギリシアまで行くならトルコにも足を伸ばすべきだ」と言うので、急遽予定を変えたのだ。とは言っても帰国を延ばしたくなかったし他の予定地も削りたくなかったので、トルコに割けたのはたったの1週間だった。この頃にはあくせく旅するのがイヤになっていたから首都のイスタンブールだけに絞ったのだが、イスタンブールで会った旅人たちは「田舎の方がいいのに」と言っていた。ちっ。今度お金ができたらぜひ行ってみたいと思っている。

11/30にギリシアのロドス島からトルコのマルマリスに移動。たった2時間の船旅だったがかなり揺れて怖かった。現地通貨はTL(トルコ・リラ)で1TL=0.015円。ケーキと紅茶2人分で28,000TLと聞くとびっくりだが、日本円にすれば420円くらいなのだ。両替をし、長距離バスの席を確保していきなりイスタンブールへと向かう。13時間の長旅だ。バスの中では一人一人乗客の手に香水が振り掛けるサービス(?)があった。匂いがバス中に充満してキツイ。バスの料金には飲み物や朝食の料金も含まれていたし座席も立派だった。朝食休憩をしたサービスエリアのトイレは便器のない(というか床全体が便器の)例の奴。最初に南仏でお目にかかった時はびっくりしたが、もう大丈夫。慌てず騒がず用を足せる。翌12/1、イスタンブールに到着し、12/6までそこに留まる。

最初に言っておくがトルコにはもう一度行きたいと思っている。一泊だけしたY.H.には閉口したが割と居心地のいいホテルも見つかった。食事は美味しい。日本人の口に合うと思う。特筆すべきはお菓子。ゲロ甘なのだがハマるのだ。ギリシアでも見た目は同じ菓子があったが、そっちは甘いだけでダメだった。蜂蜜の甘さと砂糖の甘さの違いって感じ。町を歩いていて客引きや自称ガイドにつかまるのはモロッコと同じなのだが、こちらは身の危険を感じる程ではない。一人でカフェに入ったりもできる。モスクや博物館も見ごたえがあって面白い。特にヨーロッパをうろつき回った後では、違う文化の香りは新鮮だった。有名なグランバザールの客引きは中途半端な日本語を使ってウザいけど、そことは別に香料のバザールってのがあって、そっちはゆっくり見て回れる。香料や蜂蜜やお菓子や各種の食材が店頭にずらっと並んでいて、見て歩くだけで楽しい。ホントだ。

と、これだけ褒めればもういいだろう。本題に入る。本題とはトルコ式風呂である。私はぜひこのお風呂を体験してみたかった。なんせ12月頭のイスタンブールは寒かった。骨まで凍えるとはこのことか、と言うくらい寒かった。それとどうせお風呂に行くならトルコ式のマッサージも試してみたかった。青池保子さんの作品に『アルカサル−王城−』というスペイン王ドン・ペドロを描いたマンガがあるのだが、その中でドン・ペドロがトルコ人のマッサージ師を雇っていたような覚えがあったからである。マンガの中のマッサージは骨をバキバキ鳴らすようなハードなものだった。なんかマンガや小説の影響でばっかり行動しているようだが、その通りである。

観光をしたり町をぶらついているうちに、トルコ式風呂は見つけていた。だが私はしばらく迷った。なんとなく怪しいのである。入口のところには中の様子の写真が貼りつけられた看板が立っている。写真の中には大理石の台みたいなのに寝そべってマッサージを受けているおじさんもいる。見た感じマンガのイメージどおりのバキバキマッサージだ。だがその下に書かれた文字がいけない。観光客が立ち寄る場所には何ヶ国語かで説明文が添えられているのが常で、ここの説明文には日本語も混じっていた。ぎこちない筆跡でそこには“トルコ式風呂…もう貴方はスルタンです”と書かれていたのだ。…怪しい。あまりにも怪しすぎる。こんな遠い異国の地でスルタンになってどうしろというのだ。いやその前にスルタンって…。私の心は千々に乱れた。しかしここでビビってしまっては帰国してから後悔するのが目に見えている。やらぬ後悔よりやった後悔の方がいいと言うではないか。トルコ滞在最終日、私は心を決めて風呂屋に向かった。こんな一大決心をして行った先は風呂屋。

看板といい店構えといい、その風呂屋は観光客をメインターゲットにしているのでは…と思われたのだったが、中に入った私を迎えたのは地元のおじさんたちだった。モロッコやトルコの、イスラム教圏の町で見かけるのは圧倒的に男性が多い。女性はどこに隠したんだってくらいだ。しかもカフェとか広場とかでたむろしてただダラダラと時を過ごしているように見える。この店も入ったところがロビーのようになっていて、男性客が複数おしゃべりを楽しんでいたのだった。その中には従業員もいたのだが、看板の割には言葉が通じない。それでも何とか、私は風呂に入りたいと思っていることを、向こうは女性用の風呂は別の場所にあるということをお互いに分からせるのに成功した。彼に案内されて辿りついたのは男性用と比べると明らかに小さい建物だった。モスクに行っても祈祷する場所が男女で分かれているくらいだから、お風呂の建物が別なのも当然か。それにしても男性用のは表通りに面していたのに、女性用のは裏道にひっそりと建っているのが文化の違いとはいえちょっと悲しい。

さてマッサージをお願いして入った風呂であるが、小ぶりとは言ってもなかなか美しい建物だった。男風呂は混んでいたのに、こっちはほぼ貸切状態だ。夕方から風呂に行くような暇人は男だけなのだろうか。中は天井が高く、月と星をかたどって色ガラスをはめ込んだ天窓もある。いい気分になった頃、マッサージのおばさんが入ってきた。ここからが…ああ。後で聞いた話によると、マッサージ用の個室があったり水着で入れたりする風呂屋もあるらしい。しかしここのはそんな優しくはなかった。

マッサージは気持ちいいのだ。期待していたバキバキマッサージではなかったが、石鹸の泡で全身を優しく揉みほぐしてもらえる。しかし場所が悪い。浴場のど真中で他の人からどのような形ででも隔離されずに行われるのだ。うつ伏せになっているときはまだいい。こっちも周りに人がいないフリができる。そうして背中とか腕を揉んでもらうのは本当に気持ちよかった。だが一通り済むとおばさんは仰向けになれと言ったのである。想像してみてほしい。日本の銭湯でいい。他の人はみな湯にのんびり浸かっている。そこで一人だけ洗い場の中央に寝そべってマッサージを受けることを。仰向けで。なけなしの情けで腰に小さなタオルはかけてもらえる。しかしそれだけだ。相当恥ずかしくはないだろうか。私はめちゃくちゃ恥ずかしかった!

周りにそう大勢はいない。それが救いだ。しかし見られるよりも何よりも、このマッサージおばさんはどうすればいいのだ。泡泡した手でももから胸から遠慮なく揉んでくれる。あっうそ、そんなところまで…うっきゃーお願い勘弁して私は恥も慎みもある大和撫子なのよぅ! 必死になにか他のことを考えて気をそらそうとするのだが、頭に浮かぶのは「もうひき返せない」とか「一線を越える」とか「初体験」とかいったロクでもない言葉ばかり。たかがマッサージで大げさなと思われそうだが、そのくらい凄かったんですってば! そのくせ頭のどこかは冷静に「なるほど、以前風俗産業がこの国の名前を使っていて怒られたけど、あれはこのマッサージ方法から命名されたのか」と考えている。そうして、ひたすら硬直してやり過ごした時間、やたら長く感じられた時間が終わり、やっと解放されたときにはなぜか、マッサージ後だと言うのにぐったりと疲れ果てていたのだった。……完璧に、負けたのだ。

あの時、あの遠い国で、私は確実に何かを失った。(<嘘) 見てろよトルコ! 次は雪辱戦だ!


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