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2003.6.13

年に二回だけ(私の誕生日と妹の誕生日)高い料理を楽しもう!ってコトで、誕生日から10日ほど遅れましたが、妹に寿司を奢ってもらっちゃいました。もちろん妹のときは私が奢るのです。よく考えると虚しいような気がするので、考えちゃダメです。とにかく寿司です。寿司寿司。回らない寿司。恵比寿の小奇麗な店でカウンター席に案内され、「ご希望はありますか?」と聞かれましたが、コースで頼んでいたし場慣れもしていないし好き嫌いはないし、全てお任せするコトにしました。後から思えばこれが失敗でした。せめて品数を聞くべきでした。

「それでは先にお料理をお出しして、あとで握りにしますね」と愛想よく言われ、(ああ、変な頑固オヤジが出てこなくてよかった)と内心安堵しながら、出された料理をパクつきます。さすがに美味しいです。普段高級品を食べなれない舌は、突然のご馳走でびっくりしてます。刺身も歯ごたえが違うし、料理はどれも小技が効いています。特に穴子! 穴子って特に好物ではないのですが、昨日食べたのは美味しかった。細かく包丁を入れて花のように開かせて上に梅のソースをかけて…。うーん、もう一度食べたい。海老も美味しかった〜。身は刺身にして、頭と尻尾はさっと揚げて塩だけで食べる。最高! あと百合の根のふかひれスープがけ……。

おっと、いちいち書いていたらいつまで経っても終わらない。とにかくどれも美味でした。喜んでぱくぱくぱくぱく食べていたのですが……だいぶ経って、ふと気付きました。おなかがくちくなりかけているコトに。(ちょ、ちょっと待って。最後に握りと言ってなかったか。このお料理はいつ止まるのか?)。不安になった私は、カウンターの中で次から次へと料理を用意している兄ちゃんに聞きました。「大丈夫ですよ、そろそろ握りにしようと思ってましたから」。ああ良かった。でも握り…。これから飯が食えるのか? とっても不安でしたが、出された握りは小さめで、やっぱりどれも美味しくて、そして私の食い意地は張っていました。途中で「もうダメかも〜」と思いながらも、最後までがんばってしまったのです。

……恥ずかしながら、あとでリバースしちゃいました。とりあえず「美味しかったです、ご馳走さまでした」と言って店は出たんですが、歩いているうちに限界突破。ああもったいない。妹は「味わえたんだからいいじゃん」と慰めてくれたけど、でも食べ物は肉になってナンボです。他の生物を食べて生きるコトに罪悪感は感じなくても、そこからエネルギーを得ないコトには罪悪感があるぞー。無駄死にはさせちゃいけません。今度あのお店に行くときは「料理は半分にしてください」と言わなくちゃ。

しかしさー、食べ盛りのピークはとっくに過ぎたとは言え、今でもけっして小食ではありません、私は。その私がいっぱいいっぱいなんだから、あのコースを食べきれる人が多数派だとは思えない。思い出せるだけでも、握りの前に15品の料理が出てきたんですよ! 1品にボリュームがなくても、15品もあったら…ねえ。自分の食欲が落ちたと認めるのは何となく悔しいので、「あれは私のせいじゃないんだ、料理の量が半端じゃなかったんだ」とぶつぶつ呟きたくなるのでした。それにしても、ああホントにもったいなかった…。

2003.6.12

昨日みたいなコトは、悪徳商法に引っかかった人のニュースを聞いたりしたときにも、考えます。んー、ちゃんと説明できるか難しいんですが、被害者を責めたいワケじゃないんです。本人が自力で反省しているのなら、他人が断罪すべきじゃないと思う。いや、本人が反省してなくたって、何の迷惑も蒙っていない第三者があれこれ言うのは、どうかと思います。ただ、カード破産や詐欺商法の被害ってのは、本人が気をつければ避けられる場合が多いんじゃないか…と思っているので、「私は騙されただけ」的発言をしている被害者を見ると、「も少し考えた方がええんじゃない?」と言いたくなる……あ、結局第三者があれこれ言うコトになっちゃうか。

なのに、『火車』の弁護士さんの言い分を読んだり、現実に被害者の救済をしている人の話をTVとかで聞いたりすると、「私は実態を知らないから、甘いのかなー。今まではたまたまそうゆう悪人に遭遇するコトなく生きてきただけで、私だってプロに狙われたらあっさり騙されちゃうのかしら」と分かんなくなっちゃうのです。多分、弁護士さんたちの言い分の柱は「被害者に反省すべきトコロはない」ではなくて、「今現在、悪質な取り立てや高額のローン返済に苦しんでいる人がいる。それをまず救済すべきだ」だと思うんだけど、話を聞いているとどっちが柱だか分かんなくなってきて、「ホントに誰の身にも起こりえる、避けようのない厄災」であるかのように聞こえてきちゃう。そうなの? そうなの? ほんとーに? ……違う気が、やっぱりしちゃうんだけど、これは根強い偏見なのかなー。

話は変わりますが。流れはあるけど、変わりますが。ずーっと前に、ある交通事故のニュースをTVでやっていました。一緒にいた家族がちょっと目を話した隙に、小さな子供が車にはねられて亡くなってしまったというニュースでした。事故現場の中継が終わって、カメラがスタジオにかえってきたとき、コメンテーターが言ったのです。「なんで目を離しちゃったんでしょうねぇ。気をつけていれば事故はおきなかったのに」って。確かにそうでした。ニュースを聞く限り、家族の行動には不注意がありました。車も別に暴走していたワケではなかったので、避けられたかもしれない事故でした。でも、コメンテーターのその台詞を聞いた瞬間、めっちゃくちゃ腹が立ったんですよね。

どうして目を離しちゃったんだろうなんて、そんなの一緒にいた家族が一番考えてるに決まってる。そう考えて考えて自分を責めて責めて、可愛がっていた子供も失って、下手をすると家族の他のメンバーにも詰られて、そのうえ赤の他人にまで「どうして目を離しちゃったんでしょうねぇ」などと言われなきゃいけないの? もしその言葉が本人の耳に入ったら、どんな気がすると思ってるの? 何の資格があってそんな残酷なコトを口にできるんだ!…と思ったんです。ムカついて堪りませんでした。

でもなー、あとから、そうゆう情報も必要なのかもしれない、と思ってしまったんですよね。本人に言っちゃいけない言葉だったって意識は、今も変わっていません。ああいう状況で、ただでさえ自分を責めてる人に追い討ちをかける言葉は、口にしちゃいけないんです。だけど、事故の再発防止という意味でなら。こうゆう状況ではこうゆう事故が起こりえるんですよ、こうゆう時、こうゆう場所ではこうゆうコトに気をつけなきゃいけませんよ、という情報を、同じような状況に置かれるかもしれない人に向けて流すという意味でなら、それは必要なのかもしれないと。

まー、あのコメンテーターがそこまで考えて言ったとは思えないんだけど、でももし考えたとして、事故の当事者を責めるコトなく、他人に注意を促すコトが果たしてできるもんだろーか、と、しばらく悩んでしまいました。結局自分の中でも結論はでませんでしたが、でもどちらかを切り捨てるしか方法はないのだと諦めてしまうのは、それもやっぱり悲しい話ですよねぇ…。

2003.6.11

ちょっと前に読み終わった宮部みゆきさんの『火車』に、自己破産の話が出てきた。出てきたっつーか、物語のかなり重要な要素なんだけど。ま、で、物語の語り手である中年の刑事が「自己破産なんてするのは、だらしない、生活の崩れた女に違いない」と言う。すると、自己破産手続きによって多重債務者の救済をしてる弁護士ってのも出てきて、「自己破産にまで追い込まれてしまう人間ってのは、マジメで融通のきかないタイプが多い。債務者も被害者である。人の弱みに付け込む業者と、融資についてちゃんと教育しない社会が悪い」と言う。

それを読んでから、うーむ、と考え込んでいるところに、タイムリーにもTVで「自己破産者急増中」の特集をやっているのを見た。何人かの債務者を追いかけて、どのくらい債務があるのか、どうして債務を作ってしまったのか、今どうゆう生活をしているのか、自己破産によって債務が帳消しになったらどうやって生活を立て直すつもりなのか…などを取材するって内容で、見たあとやっぱり、うーむむむ、と考え込んでしまった。人それぞれに事情があって、十把一からげに断罪するべきではないってのには、賛成する。けど、例えば『火車』の女性がカード破産した理由なんかを聞くと、どうしても「甘いんじゃないの?」と思ってしまうのは……傲慢、なんだろうか。

自分は決して多重債務者にはならないだろうか、と考えてみると、「決して」とは言えないなあと思う。今はしない。他にも頼るトコロがあるから。けど、自分が年を取って、家族もいなくて、親も死んじゃって、仕事だってなくなって、貯金も食いつぶしちゃって、病気をして…そうなったら、返せないのを承知で借りるかもしれない(←そんな人にも貸してくれるんだろーか?)。けど、借金は最後の手段だなぁ、とも思う。他に何の方法もなくなって、生きるか死ぬかって状態にならなきゃ、借金はしない。収入が減ったら支出を切り詰める。今までと同じ生活をキープするために、金は借りない。

『火車』で自己破産しちゃう女性の言い分は、「カードでお金をつかっていると、錯覚に浸っていられた。どうしてこうなっちゃったんだろう。私はただ幸せになりたかっただけなのに」だった。うーむむむむ。やっぱ「甘い」と思っちゃって同情できないんだよなー。傲慢かなあ。自分がそうゆう状況に追い込まれたコトがないから、分からないだけなのかしら。「キャッシングは借金である。借りるとどうなるのか、利子はどうつくのか、そうゆう教育をしっかりするべきだ」と言うのには賛成だけど、悪質な業者がいるのはもちろん問題だけど、貸すときだけ調子がよくてリスクを説明しない金貸しも悪いけど。でも、そんな安易に「幸せ」になれると思っちゃうのは、甘く、ないのかしら。

確かに、いっくら事前にシビアに検討して返済計画をきっちりと作ったとしても、返済が滞っちゃうコトはあるだろう。そうして作ってしまった借金を何とか返そうとするような人こそ、追い込んじゃいけないと思う。それに例えどんな甘い理由で借りたにしろ、悪徳業者の強引な取り立てを正当化するものではない、と思う。それは決して。けどけどけど…。分からない。考えてると頭がぐちゃぐちゃになってくる。私が傲慢で、人の立場を思いやれないだけなのかなあ…。うーん。

2003.6.10

土曜日に部屋の模様替えをした。狭い部屋で、大きなパーツの置き場所はもう固定されてしまっていて、ここ何年も変化がなかったので、さすがに飽きてきたのだ。が、やはり棚やテレビを動かすのは大変だし、一人でできるとも思わなかったから、手っ取り早く壁に布でもかけてみるコトにする。簡単簡単…と思って作業を始めたのだけど、これがなかなか時間を食った。

壁を空けるのはすぐに済んだ。今までかかっていたコルクボードを、他の壁に移動させるだけだ。布を選ぶのもすぐに終わった。数年前にオーストラリアで買ってきたアボリジニ・アート(もどき)のカメ柄の布だ。他にカンガルー柄のもあったのだけれど、付け鴨居の上には海洋生物フィギュアが並んでいるので、馴染まないだろう。買ったきり仕舞いこんでいた布を久々に広げてみると、深緑の地にオレンジと茶でカメが描いてあって、なかなかヨイ(自分で選んだくせに忘れていた)。大きさは畳より一回り二回り大きい。かけると壁がほとんど隠れてしまいそうだった。

コルクボードの整理をして、壁をキレイにして、ついでにフィギュアの埃もはらって、最後に布を……んー、何か変だ。バランスが悪い。高さを変えてみよう。よし、キレイに貼れた…けど、なんか部屋が狭くなった気がする。なんせ大判で色が濃いので、ボリュームがありすぎるのだ。困った。腕を組んで壁を睨むコトしばし。解決策が思いつかないので、道具の散乱した部屋をまず片付けるコトにする。私は一度店を開いてからじゃないと片付けられないタイプなので、フィギュアや大工道具やコルクボードから外したカード類で足の踏み場もない状態。

片付けが終わって掃除機をかけたら、いつの間にかすっかり日が暮れてしまっていた。おかしい。他にもいろいろやってはいたが、一日ってこんなに短かったか。仕方なく夕食の準備にかかり、TVを見て、お風呂に入って…うーん、やっぱり圧迫されている。どうしよう…。寝る間際、ふいに解決策が浮かんだ。布の縦と横を逆にすればいいんだ! そしたらバランスがとれる気がする。早速試してみたかったが、時計を見るとすでに夜中の1時をまわっていて、トンカンやるワケにはいかない。…のに、どうしても変えたくて、しばらく金槌と布を手に、釘を口にくわえてうろうろする。

結局、良識が勝った。作業は日曜まで持ち越し。日曜なのに朝寝もせず、さっさと起きて布をかけ直す。おお、なかなかいい感じ。部屋も狭くならないし、柄もかえって映えるみたい。出来上がりに満足して、さらに勢いに乗って台所のタイルを磨いたり、風呂場の壁を洗ったりしてしまった。そう汚れてないと思っていたのに、はっきり色が変わるトコロが何とも。しかし有意義な朝である。洗濯したり図書館行ったりもしたのに、まだ午前中。早起きってイイなあ。

……その後に昼寝をしなければ、有意義なままだったんだけどなぁ。(←お約束。)

2003.6.9

映画と舞台の『CHICAGO』を比べながら、なぜ私は舞台が好きなんだろう…とつらつら考えておりました。いろいろ思いつくんですが、答えはやはり「舞台はナマ物だから」に尽きるんじゃないかって気がします。あと、観客も舞台づくりに参加できるから、かな。映画はもう既に出来上がっていますよね。完成形が、そこにある。体調や精神状態によって、受け取り方は多少変わるかも知れないけど、でも上映される回によって俳優の演技が変わったりはしません。

でも舞台は違う。同じ芝居を何度も観に行くと、その回その回で出来が違うのが分かります。台詞や段取りが同じでも、微妙に変化するのです。役者自身のテンションの差/出来不出来ってのもあるし、観客のノリによって変化するものもあります。いい回に当たると、ホントに舞台と客席が一体になった感じがします。そのときの濃度の高い空気がクセになるんですよねー。舞台好きってのは、舞台が提供してくれる波に呑まれに来てる気がします。映画を観るときほど受け身じゃないの。だからその欲求に上手く答えてくれる芝居に出会うと、全員が大喜びで巻き込まれてゆくんじゃないでしょうか。逆に、ツマラナイ芝居が客をノせそこなうと、悲惨ですけど。ツマラナイ映画の比じゃなくツマラナイから。

私はときどき、舞台慣れしていない客の態度についてボヤくことがあります。それはこの一体感をぶち壊すからです。舞台と客席がお互いに影響を与え合ってるのに、綱引きしてるのに気付かないから。役者のリズムを壊す拍手をしたり、私語を交わして役者や隣席の客の気を散らしたりするから。波にノった拍手や笑いは役者をノせるんだけどねぇ…。舞台慣れ、とは言ったけど、この感覚が分かる人と分からない人って、どこが違うんでしょう。舞台を観るのが初めてでも、場の空気にすんなり馴染めちゃう人もいれば、何度観ても分からない人もいるんですよねえ。

あと、本来あまりあるべきじゃないんでしょうが、舞台上のトラブルや台詞のトチリもけっこう好きです。トチったり段取りが狂ったときに、役者のテンションががくっと下がるのはダメですよ? それだと客も冷めてしまって、「もっと練習しろよ」と思うだけです。誰かがトチったとき、台詞をすっ飛ばしたときに、テンションががんっと上がる舞台が好き。出ている役者が「どうにかしなきゃ」と思って必死になってくれなきゃダメです。人が必死になってる姿っておっかしいんですもん。おかしいし、「がんばれ!」と思うし、本筋に無事に戻れたら拍手したくなる。そんなのが好きなんです。

大きな劇団になるほど失敗は少なくなるんですが(練習量とか、役者の技量の違いででしょうかね?)、でもやはりナマ物ですから、なくなるワケじゃありません。今でも思い出すと笑っちゃうのは、三谷幸喜さんの芝居の『君となら〜Nobody Else But You』のハプニングです。「紹介したい人がいるの」と言って娘の連れてきたのが、還暦をすぎた年上すぎる恋人で…という設定で巻き起こるドタバタコメディなんですが、その中でバスケットボールをするシーンがあります。娘の父親が「一発でゴールを決められたら、結婚を許そう」と言って、娘の婚約者にボールを渡します(ちょっと記憶が不確かなんで違ったらゴメンなさい)。もちろん決まっちゃいけないんです。

……それが、決まっちゃったんですよねー。ゴールにボールが吸い込まれた瞬間、役者全員が「…あっ」と思ったのが分かりました。舞台上で流れが止まったのは、時間にすれば0.5秒くらいなんですが、ああいうときって分かるんですよ。で、次の瞬間、全員のテンションがガッと音をたててあがりました。このゴールを認めてしまえば芝居はめちゃめちゃになってしまいます。だから反対をしてる人たちは「今、この線から足が出ていたから無効だ!」と難癖をつけます。が、賛成派の人は、例えそれが舞台の流れであろうと、ゴール無効をあっさり認めるワケにはいきません。なんとか結婚を許してもらいたい、という役どころなんだから。それで「そんなのズルい! 入れたんだから認めるべきだ!」と反論します。その反論を、反対派は何とかしてねじ伏せなきゃいけない。

もちろん全部アドリブです。それがホントにホントにおっかしかった。笑いすぎて呼吸ができなくなるくらいでした。出ている役者が力のある人ばかりだったので、アドリブもぽんぽん出てきて、応答も面白くて、ハプニングのあるべき姿とはこうだ!みたいなハプニングでしたねー。観てる客も納得させなきゃいけないから、ホントに大変だとは思うんだけど…。

ま、こんな感じで舞台はナマ物なんです。ナマなんでまだ青かったり、熟しすぎていたりするときだってあります。それでも、ぴたっと「今、このとき!」という瞬間に巡り合うときがある。その味を知ってしまったら、もう止められない止まらない、の世界なのでした。ちゃんちゃん。

2003.6.8

『CHICAGO』の来日公演を観に、赤坂ACTシアターまで行ってまいりました。うひょー、やっぱり生はイイねえ。映画ではオープニングの『All That Jazz』のナンバーで「おおっやるじゃん!」と思ったけど、舞台では鳥肌たったもの。生の音楽に生の声に生の体! 興奮度が全然違います。キャストも演出も映画の方がいいけど、でも舞台の魅力がマイナス分をカバーして余りあるんですよねぇ…。でもね、冷房効かせすぎ!>ACTシアター。熱くなりたがっている客を冷やしてどうするんだか。

もう少し詳しくいきます。ヴェルマ役は、絶対に映画の方がいいです。映画のヴェルマは見た目だけでもスターだと思わせる迫力ですが、舞台のは…正直言って、脇役ダンサーの方が美しかったです。ただ、舞台のヴェルマは1人でスターになるだけの力量がないってポジションだったから、ロキシーを主役としてたたせるのには妥当なのかも。ロキシー役は美人でしたが…これも、映画の方がよかった。レニー・ゼルウィガーがハマっていたので。でも舞台の女優さんに不満はないです。白いインカム(?)がこめかみの血管みたいに見えて、常に青筋たてて怒っているように見えた以外には。…黒にした方が、よかったんじゃない?

弁護士とママ・モートン役は、いい勝負。どちらにも、それぞれの魅力があります。舞台の方が断然良かったのは、ロキシーの夫のエイモス役。お人よしでロキシーにベタ惚れで、いいように利用され尽くす彼が歌う『Mister Cellophane』ってナンバーがあります。「誰も僕に気付かない。ミスター・セロファンに改名した方がいいんじゃないか」って内容の曲。映画のエイモスは、哀しみの印象が勝っていました。でも舞台のエイモスは…哀しいんだけど、コミカルで、可愛らしいの! この舞台で、“演技”で一番多くの拍手をもらったのは、彼だったと思います。

映画はナンバーをいくつかカットして、その分説明のシーンを入れて、わかりやすくしたんですね。舞台だけなら分かりづらかったかも。字幕は出るんですけど、視線を舞台上から外すのがもったいないんですよ。陪審員6人を1人で演じてたりするし。だからって耳だけじゃ到底わからないので、映画を先に観にいったのは正解でした。刑務所内で6人の女囚人たちが踊る『Cell Block Tango』や、看守のママ・モートンが歌う『When You're Good to Mama』は、映画の演出のが派手でよかったです。舞台は全般的に、地味。…シック、といってもいいけど。あ、でも弁護士がロキシーを腹話術のように操る『We Both Reached for the Gun』は、舞台のシンプルさが逆に効いてました。

あと、久しぶりにダンサーの体を見まして。こんなにも美しいものだったか…とクラクラきちゃいました。欧米のダンサーってズルいです。体はしっかりダンサーなのに、胸だけはあるんだもの。同じ人間じゃねえよ。あと男性ダンサーのお尻のカッコいいこと! つい見とれてしまいました。こうゆうお尻が間近で見られるなら、ストリップショーに行ってもいい!と思わせられます。いや別に脱いで欲しいワケじゃ……。えっと、当たり前だけど全員体が柔らかくてしなやかで、めっちゃ色っぽかったです。

ああ、書いてるうちにまた曲が聞きたくなってきた。DVDを買っちゃおうかなー。『All That Jazz』を越える盛り上がりのナンバーが後半にあったら、迷わず買うんだけど…。頭でガツン!とやってくれるのはイイんですが、頭が一番聞き応え&見応えがあるってのは、ちょと残念です。

2003.6.7

果実酒を仕込んでから1ヶ月がたった。どうなっただろうか…。冷暗所で保管するといいらしいので、押入れの奥深くに押し込んだガラス瓶を、苦労して取り出す。ああ広い家が欲しい、と切実に思う瞬間。くこ酒は1年間放っておけるから、残りの3つだけをチェックする。

仕込んで1ヶ月の果実酒たちだいぶ色がついてまいりました。セロリ酒は1〜2ヶ月目から飲み始められるそうだけど、味見したらまだちょっと若い感じがしたので、も少し置いておくコトにする。ローズマリー酒は本に載ってた写真より色が濃い。買い込んだローズマリーが多すぎて、つい分量より余計に使っちゃったせいか? 味も少し苦い感じ。ローズマリーを引き上げて、あと2ヶ月熟成させるそうなので、その間に丸くなってくれるとイイなー。あまり入れっぱなしにしておくと苦味がでちゃうという、にんにく酒のレモンも取り出す。

仕込んで1ヶ月の果実酒たち2取り出したトコロ。にんにく酒の匂いがすごい。効果は疲労回復だったかしらん? 効きそうだけど、人に会う前には飲めないです。しかしどれもキツい…って、当たり前か。35度のホワイトリカー使ってるんだから。今月半ばには、ここ2年ほど行ってなかったけど実は恒例の、梅もぎに行く予定。梅酒用の、大き目の瓶を忘れずに買ってこなくっちゃ。りんご酢に漬けてみたり、ジャムにしたりもイイなあ。ふっふっふっ。

2003.6.6

会社のパソコンがウィルスに感染してしまった。深刻なダメージは受けなかったが、ウィルス騒動がおきるたびに、なんでウチの会社の人間はこんなにもウィルス大好きなんだろう、と不思議になる。「誰々のマシンで出たって!」という声があがると、すぐさま数人が飛んでいって「ああでもない、こうでもない」と喧喧諤諤している。うーむ、仕事してるときと違って、イキイキしてるよなあ…。

昨日も、感染ファイルは隔離されててもう悪さはできないハズなのに、妙なエラーメッセージが止まらない、という状況を報告したら、2、3人がすぐさま集まってきて「ほんとだ! ○○さんのと同じ症状だ!」といって嬉しそうにモニタを眺めている。すぐさまウィルス情報をチェックして「××に影響及ぼすらしいよ!」と大声で周囲に報告している人もいる。眺めて遊んでいるだけの人もいなくはないのだけど、何かカチャカチャやって「このファイルが怪しい!」だの「見つけた!」だのと、対処法を突き止めようとしてる人もいる。まあどちらにしろ楽しそうなんだけど。

発生したのが夕方で、騒いでいるうちに定時になってしまった。たまたま用事はあったし、どうせ分からないし、楽しみを取り上げたら可哀相だし、「じゃ、あとはヨロシク」とお任せして帰る。月初の至急の仕事が終わったばかりだったので、心の咎めを感じる必要もない。しかし今朝出勤したら、ウィルスは片付けられていたが、今度はサーバに繋がらない原因不明の不調。メールと共有サーバに繋げないと、ほとんど仕事ができないんですけど…。さすがに今日は一日遊んでるワケにはいかない。

しかし今度も個人でできるコトは何もないらしく、自分のパソコンだけでやれる仕事はさっさと終わってしまったので、お茶を飲みつつぼーっとする。そんなとき、たまたま目が合った人(←同じ部、違う課。仕事も全然違う)に「パソ使えないから暇で〜」とボヤいたら、きらきらした目で「えっ、今なんて言いました?」と飛びついてきた。「…暇…って」「じゃあ頼んでいいですか!」という、畳み掛けるような勢いにイヤと言えるハズもなく…。

てか、暇をつぶすのにも丁度よかったので、午前中は久しぶりに自筆で書類仕事。11時ごろネットワークが復活した直後、タイミングよく頼まれ仕事も終わった。持っていって「ちょうどパソも復帰しましたから」と言うと、相手は「復帰しちゃったんですか…」と残念そうで、吹き出しそうになってしまう。書類仕事に追われて毎日残業しててる、でも有能そうな彼女には好意を持っているので、手伝いたいのは山々なんだけど、ごめんね、私は字が汚いのよ。

昨日と今朝、あわせて4時間くらいのロス。このくらいなら、そしてめちゃくちゃ忙しくない時期なら、ちょっと気分が変わっていいかもしれない。……あっそうか! だから皆ウィルスが大好きなのか! それならちょっと、分からないでもない。(実害がなかったから言えるコトだけど。エラーメッセージもウィルスの悪あがきだったらしいし)。

2003.6.5

先週、カムカムミニキーナの『孤独なパイロット』を観に行った。新宿のシアターアプルでの公演だったので、カムカムのようなタイプの劇団は大きな劇場向きではない、と信じている私たちは不安を感じながら開演を待ったのだが、前から2列目中央寄りという席のおかげで、何とか楽しむコトができた(…とはいえ、もっと小さなスペースの方がカムカムの魅力を発揮できるという意見は変わらないが)。

それにしても2時間半は長いよ、松村さん(演出・脚本)! あれを2時間以内に収めてくれたら、もっともっと楽しめた思う。途中で飽きちゃったもの。言葉遊びが好きなのはイイんだけど、もうちょっと上手く盛り上げてくれないかしら。楽しいやり取りがだらだらと続くだけじゃ、気分の盛り上げようがない。クライマックスに向けての大波に、上手く乗せてくれて欲しいんだよー。あとダンスが相変わらず下手くそ。体が動く人はいっぱいいるんだから、振り付けが悪いんだと思うな。

カムカムの感想は毎回こんな感じなんだけど、それでも続けて観に行っちゃうのは、突き抜けて面白いシーンが必ずあるからだ。1回か2回は涙を流して笑ってしまう。今回は久しぶりに八嶋智人さんが活躍してくれた(最近はTVの仕事が忙しいのか、中心人物を演ってくれないのだ)。八嶋さんがTOKIOを歌い踊ってくれただけで、劇場まで足を運んだ意義がある。それに藤田記子さんは、相変わらずの肉弾派。馬車を素手で止める役があんなに似合う女優っていないよ。個人的には女を捨てて政治家を志す前のシーンの方が、女を捨ててたと思いますが…?

次回はもっと小さな劇場使って欲しいけど、アプルの席が埋まってたからムリだろうなあ。こうやって面白い劇団がどんどん大劇場に進出しちゃうのは、ホントにホントに残念だ。

2003.6.4

なんかの話の流れで「倦怠期の夫婦じゃあるまいし」と言ったら、友人がとっても怪訝な顔をして「カーネルおじさんって奥さんいるの?」と返してした。今度はこっちが混乱する番である。「…へ? 何で?」「だって今、ケンタッキーの夫婦って…」「倦怠期! ケンタッキーじゃなくて倦怠期! 知らないよ、カーネルおじさんの家族構成なんて!」。と、こんなおばかな会話をしたせいか、やけにケンタの油ぎとぎとチキンが食べたくなって、実際食べてしまった。いずれ体重に跳ね返ってくるのはわかっちゃいるのだが、悪いのは私の滑舌の悪さと友人の飛躍した聞き違いだもーん。

さて、おじさんといえば(←強引)、週末やってたイベントの会場に、とっても礼儀正しいおじさんが来た。特筆しちゃうくらい珍しいコトだ。フレンドリーなおじさんは、ときどきいる。それももちろん感じがよく、ステキな性質だと思う。けどイベントのスタッフにまで礼儀正しいおじさんって、そうはいない。主催とはにこやかに話していても、スタッフはぞんざいに扱ったりする人も多い(特別不愉快な言動がなければ怒ったりはしないが)。だからスタッフにも敬語で話し掛け、しかも決しておどおどしているワケではない彼の振る舞いは、目立った。品のいい、という言葉がぴったり。

こういう人って、周りをいい雰囲気にするだけでなく、本人も得できると思う。つい余分なサービスをしてあげたくなるもの。20も30も年下の小娘(彼らから見れば)に威張り散らして、なにほどの満足感が得られるのかしらないが、そんな人はこっちからも必要最低限のサービスしか期待できない。それでもっと大事にしろ、と怒る。ばっかじゃなかろか。そんなコトしてて楽しいのか。ちょっとした気遣いの言葉、「ありがとう」とか「すみませんが」とかを言うのがそんなに億劫なんだろーか。それともひょっとして、礼儀正しい態度が恥ずかしいと思ってるんだろーか。

「こっちは金を払っているんだから」と偉そうに振舞うのって、傍から見ているとホントにみっともない。「客が金を払っている」というのは、接客する側が肝に銘じておくコトであって、客が威張っていいって免罪符じゃない。もちろん、サービスが悪かったら怒ってもいいと思う。だけど、いくら仕事とはいっても、相手は人間じゃないか。丁寧に頼まれるのと、居丈高に命令されるのとでは、全然気分が違うだろう。「どんな客にも分け隔てなく」というのは立派だけど、目に見えない微妙なトコロで差が出てしまっても仕方ない気がする。そうゆう微妙な差をつくるのは金じゃないんだ。

ホントにねぇ、ちょっと一言付け加えるだけで、相手の受ける印象がずいぶん変わるのに。「ありがとう」「いえいえ」とにっこりしあうだけで、ちょっといい気分になれるのに。こんな些細な労力惜しんでる人に、「世間が冷たい」とか言われても困るよ、まったく。

2003.6.3

日付が変わった瞬間の携帯メールを皮切りに、1時間の間に3件ものハッピーバースデーメールをもらう。嬉しい。01時を過ぎて帰ってきた妹から『フレンズ III』のDVDセットをもらう。こりゃ今年は幸先いいかも、とシアワセな気分で眠りにつく。…が、仕事から帰ってきて留守電を聞いたら「誕生日、おめでとーーーっ! ご愁傷様〜〜っ」って脳天気なメッセージが入っていた。父親の声で。「遠くの親より近くの他人」ってこうゆうコトだろうか。(…ちょと違う気が)。

さて。いつもの行動範囲から外れた街に通っていた週末、また出会ってしまったのだった。手足がひょろんと長くて、離れた目と大きな口が魅力的な、抱き心地のいいカエルの縫いぐるみ。こうゆうのってその場で買わないとなくなってしまうから、もちろんすぐさま購入し、その足でイベント会場に持っていって見せびらかした。ウケた。主催が「飾っておいていいよ」と言ってくれたので、会場に飾った。イベント終了後は、鞄から顔と手を覗かせた状態で持って帰った。

部屋に戻って「どこに置こうかなー」と場所を探していたら、友人が「あの鞄から顔と手を出してるの、可愛かったよ」と言ってくれた。が、「………でもさあ…。毎日鞄に縫いぐるみ詰めて持ち歩くのって、一線を越えちゃう気がしてヤだ」という私の答えを聞いて、「あはは、確かに」と笑うのはどうよ。その後新入りの縫いぐるみは居場所を見つけたが、そろそろかなりのカエルグッズが揃ってきたので、置き場所には気を遣う。カエルは好きなんだけど、カエルカエルした部屋はパスしたい。言われてみればけっこうあるよね、ぐらいがイイんだが(←先日『探偵! ナイトスクープ』でカエルにハマってる人たちを見たせいで、ちょっと慎重になってみた)。

2003.6.2

金曜日から日曜日まで某イベントの手伝いに駆りだされた上、お手伝いメンバー2人が期間中泊まりにきていたので、へとへと。でも楽しかった。イベントも楽しかったし、手伝いも楽しかったし、3夜連続で友人と語り明かすのも楽しかった。特に2日目の土曜日の夜は3人が揃ったので(1人は金・土、もう1人は土・日泊まり)、ボルテージが上がりっぱなし。お土産にもらった日本酒を飲みながら、最初のうちはイベントについて話していたのに、いつの間にかすんごいテンションで人生について語っていた。ふと気付くと時計は01:58分。ヤバい。まだ誰もお風呂に入っていない。

興奮していたので全然眠くなかったし、まだまだいけそうだったが、次の日使い物にならないようでは怒られてしまう。「ねえ、私ら朝までコース驀進中なんだけど!」と声をかけ、1人ずつお風呂に入って寝る態勢に入る。それでも結局寝られたのは04:00頃。うひゃー。しかも朝食を作るつもりだったので、他の2人より30分以上早く起きたし、もう日曜はへろへろ。そこをテンションでのり切る。だから週明けの今日は、かろうじて人間の形を保ってるだけって気分だ。気を抜いたらしまっちゃうおじさんに仕舞われてしまいそうなくらい。会社よりイベント優先の姿勢がモロ見え。

まあとにかくシアワセにならなきゃね。ならなきゃ!って焦って不幸になったりせず、楽しめるものを思いきり楽しんで、面白そうなコトに対するアンテナを伸ばして、イヤと感じる時間を少しずつ減らして。欲張りに、でものんびりと、お気楽に。今? 今ももちろんシアワセに決まってる。基本的には。(←つまりはこうゆう話で盛り上がっていたのです、ずーっと)。

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