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2002.3.30

今月はナゼかけっこう本を読めた。これだけ読めると波に乗ってるようで、嬉しい。で、スティーヴン・キングの『ローズ・マダー』を終えて、読みたくなった本がある。けどタイトルも作者も覚えていない。日本人じゃなかったとは思うのだけど…。「目が覚めたら自分がどこの誰だかさっぱり覚えていない、要するに記憶喪失になっていた。夫と名乗る人が迎えに来て身元も判明し、彼と一緒に家に帰るのだけど、次第に夫が教えてくれる“かつての自分”と、今の自分とに違和感を感じだす。かつて好んで着ていたという服が、どうしても自分の趣味だとは思えないとか。必死になって失った記憶を取り戻そうとするのだが、どうも夫は記憶を取り戻して欲しくないみたいだ。やがて…」っていう話。ご存じの方、いらっしゃったら教えてくれると嬉しいです。ああもう、もっと前から読書の記録つけときゃ良かった。

2002.3.28

ふと思い出したコトがある。また海外で語学学校に通っていたときの思い出話なんだけど。私がしばらく通った学校には、環境団体に属している(或いはその活動に賛同している)先生が何人かいた。中でもマイクはとある運動の中心的人物で、ときどき新聞にその活動が報じられたりもしていた。そのマイクの授業で、私たちはディベートを行ったことがある。お題はそのとき彼が取り組んでいた運動の1つで「その学校のある町の外れの、鉱山の開発をするべきか否か」だった。

鉱山の開発をすれば町は潤う。しかし山は切り崩され、川は汚染される。私たちのクラスの8人は、開発賛成派3名と反対派3名、それに中立派2名に分けられた。私は賛成派に入れられたのだが、実際は反対派に共感していたので主張に熱がこもらず、非常にやりにくかった。ちゃんと問題を勉強してたらもう少し話せたかも知れないが、これはディベートの練習ではなくて、あくまで英語の授業の一環だったのだ。だから私たちの議論は「開発をすれば自然が壊れる!いいことなんかない!すぐ止めろ!」「いや、開発をすれば働き口も増えるし、出稼ぎに来た人が町にお金を落としてくれる。町が賑やかになっていいじゃないか!」程度のものだった。

しかし、今私が書きたいのはその議論、そのものではない。中立派のコトである。このクラスに、スイスのタニアがいた。見ていると「はあ…世の中には天然の役者ってのがいるんだなー」と感心してしまうくらい、彼女は芝居っ気のある人だった。その彼女が振られたのが中立派…いや「無関心派」だった。私なんかが無関心派を振られたら、多分ずーっと黙っていて、意見を求められたときだけ「どっちでもいいんじゃん?」と言うくらいしか、出来なかったと思う。タニアは違った。彼女ともう1人のエレンは、もっと積極的に無関心派を演じたのである。

タニアとエレンは最初から最後まで喋り続けた。開発とは全っ然関係のない話を。賛成派・反対派が「一度壊した自然は元にはもどらないんだ、分かってんのか!」「今は技術も進んでいるし、そんな汚染は起こらない。利益を考えろ!」とかやってる脇で、芸能人の噂話をするのである。「トラックが走り回るようになるから、危ない」「警備員を配置するから大丈夫だ」「そんなよそ者信用できない! 子供が轢かれたらどうするんだ!」という話になったので、「あなた達はどう思うの?」と直接問いかけても、「えー、私子供いないから、関係ないしぃー」と言うだけで、すぐにもう片方が「あら、その髪型いいわね。どこで切ったの?」と話しかけ、話題を逸らしてしまうのである。

だんだん私達もその2人を無視できなくなってゆき、反対派の男のコは「自分の町なんだから、ちゃんと考えろ!」と矛先をそちらに向けた。するとタニアは「私、頭が悪いからわかんなーい。そうゆう難しいコトは頭のいい人が決めてぇ」と答えておいて、傍らのエレンに「ねえ、あの反対派の彼、キュートだと思わない? これ終わったら、彼、私を誘うわよ。ほら、こっち見ている!」と囁くのである。もうこの辺になると、そのあまりの上手さに全員笑ってしまって。授業が終わったときのマイクの判定でも、ぶっちぎりで無関心派の勝利であった。

…何が言いたいかって「無関心派は強い」ってコト。私はそれをこの授業で痛感した。もちろんタニアの演技力は大きかったんだけど、彼女が賛成派か反対派だったら、これほど活躍できたとは思わない。何を言っても「えーわかんなーい、どっちでもイイよー」って言う人には、絶対に敵わないと思う。相手は問題を理解しようとする努力も放棄しているんだから。だからといってホントに何でもいいワケじゃなく、結果が直接自分に影響してくると文句を言うのだ。「頭のいい人がちゃんと決めてくれると思ってたのにぃ」って。

私は、こうゆう立場には立ちたくない。知らないうちに無関心派になってしまっているのは、イヤだ。だからなるべく多くを知りたい。世の中は複雑で、双方の事情を斟酌すれば答えを見失ってしまうような複雑な問題には事欠かないけれども、そして結果的にどちらにも組せないコトもあるけど、その「中立」は「無関心」とは違う。ちゃんと考えて選んだ中立の立場なら、最後に誰かのせいにするような真似だけは、少なくてもしないで済むと思うのだ。(ホントに関心ないこともあるんだけどね。芸能人の恋愛沙汰とかケンカ沙汰とか…。それは話が違うか。)

2002.3.27

安定した生活(精神状態も含め)は、まず食事から!ってコトで、アサリのお吸い物・三つ葉とジャコのオムレツ、大根おろし添え・フキみそ・ご飯で朝食。やっぱ人間食っててなんぼ。「食事をするのが面倒。必要栄養素だけ錠剤で取れればいいのに」って人とは、一緒に暮らせないなー。作るのが面倒なときはあるけどね。ときどきウジウジ考え込みもするけれど、食べ物が美味しい限り「私は大丈夫」だろう。お手軽でいいな。もし飢餓に耐えなきゃならないような情況になったら…どうなるかしら。願わくばそんな状況を知らずに済みますように。

『指輪物語』再読完了。詳しい感想はあとで「ドロ沼」に書くけど、やー、映画の続きが楽しみだわぁ。スペクタクルなシーンが次から次へとが繰り広げられるんだろうなー。エントのシーンや、ロヒリムのシーンや、アラゴルンの見せ場のあのシーン。うーん、待ちきれない。前にも書いたように不安はゴクリの話し言葉だけど、そんなの脳内変換だ!…と思っていたら、吹き替え版は瀬田訳に配慮してるそうですね? なかなかイイ出来らしいし、2回目は吹き替え版にチャレンジしてみようかしら。私はあんま気にならなかったんだけど、字幕版の評判はえらく悪いし、比べてみるのも面白そう。それにしても『指輪物語』を読んだ後で他の文庫本を開くと、妙に行間が広くて字が大きい…。

2002.3.26

今日はちょっと立ち直ろう。火曜だから。←なんか気に入ったわ、このフレーズ。

続き。私は今現在、昨日書いたような、どうにも突破口が見つからない状況に置かれてはいません。そうゆう状況にある友人の話を長々と聞いていたので、「自分ならどうするだろう」と考えてしまっただけなのです。似たような経験もないワケじゃないので。そのときの相手とは袂を分かってしまったのだけど、どうしても手を離せない、離したくない相手だったらどうしただろう、何ができるだろう、と。まあ結局、なってみないと分からないんですけどね。相手にもよるし。それが頭では分かっていながら、ついつい考えてしまうのが私の性かも。碌な性じゃないなー。

とにかく今の私に大事なのは友人の方なので、彼女があんまり消耗しないように、そのドロドロばかりを考えすぎないように、息抜きできるように、ときどきツツいてみようと思います。しっかし考えてみると、私は「黙って見守る」ってのがホントに苦手みたい。黙って放っておいてくれるのが一番ありがたいような時もあるのに、人にいろいろ助けてもらってる自覚があるから、逆の場合、何かしたくなっちゃうのだな。えー、ウザいときは言ってね? 改めますよん(誰に向かって言ってるんだ)。

2ヶ月前から同じ職場で働いている女が、どうしてもどうしても(て、努力もしてないけど)好きになれなくて。一度キライになっちゃうと、顔もスタイルも喋り方も歩き方も苗字も、何もかもが我慢できなくて。直接何か言われたとか何かされたとかじゃないのに、視線を合わせるコトもしたくないくらい人を嫌い、その気持ちを隠せない自分があまりにも情けなくて。1日何回かは必ず顔を合わせるので、そのたびにムカついて、どうも落ち着きません。考えなくていいコトをウジウジ考えてしまうのは、こんな精神状態のとき。ああ何でこんなにキライになっちゃったんだろう…。

2002.3.25

今日は弱音を吐きます。月曜だから。

知人がシアワセとは程遠い場所にいて、傍から見ていればそれはその彼/彼女のやり方がマズイせいでもあるのはアリアリで…やり方がマズイと言うか、彼/彼女が自分の倫理観に縛られちゃっていたり、人のコトを考えすぎて我慢しちゃってたりって意味なんだけど、そこで「その倫理観はそこまでして守らなければいけないものなのかい?」とか「あなたのその思いやりは、この場合何の役にもたってないよ」と言うのは、自分の価値観の押し付けみたいで出来ず、だって私は神でも教祖でもないので「こうすれば絶対にシアワセになれる」なんて断言できるハズもなくて。

それでもそのまま放っておいて彼/彼女の状況が好転するとはとても思えず、案の定実際に事態は悪化の一途を辿っていて、せめて、せめて自分の立っている位置くらいは気付いて欲しくて、「あなたの足元はぐらぐらしていて、そこじゃふんばれないのに、こっちに来てくれなくてもいいから、どこか堅い地面を見つけてそっちに逃げちゃいなよ、それはあなたが思っているような卑怯な行動じゃないのだから」と言っても、私の言葉は彼/彼女の耳には届かなくて、ハラハラするしかできなくて。

…似たようなコトを何度か書いてる気がするが、未だに答えは見つからない。ホントこうゆう場合、どうするべきなんでしょうかね。彼/彼女がそう親しくもない人だったら、根が冷たい私は「人間が他の人を救うなんて出来ないしさ。結局あの人って悩んでる状態が好きなんじゃないのー? 私ゃ自分が大事だから不幸には付き合ってられないよ!」と分かったようなコトを言ってサヨナラしてしまうだけなんだけど。それで相手を傷つけても「まーそうゆう巡りあわせもあるさ。次は失敗しないようにしよう!」と勝手な言い分でひゅらひゅらしてるんだけど。

これが、自分の大事な人が相手だと、途端にどうしたらいいのか分からなくなる。いったい何が出来るんだろう。黙って見ていて、相手がSOSを出してくれるのを待ってるしかないのかなー。だいたい私がいて、いつでも手を貸す気でいるコトは伝わっているのだろうか。言葉が届いていないのだから、それすら怪しいもんだ。相手のシアワセを願う気持ちもあるのだけど、何よりその人がシアワセでないと、自分も落ち着かないからやっているのだ。だから迷惑なんて考えなくていいのに。

ああ無力だな。何かできるかも、と思うのがおこがましいのかしら。でも私はホントにいろんな人にいろんな形で助けられているのに。与えられているのに。私の方は、誰かに何かを与えているんだろうか。そもそも与えられるんだろうか。ときどき、自分はズルをしている気がする。もらってばかりで。

2002.3.23

ふと気付くと、唯一マジメに見ていたドラマ、『恋ノチカラ』の最後の2回を見逃しちゃっていた。まったく何のために見てたんだか。

氷室冴子さんのエッセイ集、『ホンの幸せ』で紹介されていた、『サーロインステーキ症候群』(著:小野博通)を読んだ。副題に「医学的に楽しくやせる本」とある通り、これはお医者さんの書いたダイエット本である。ジャンルから言って、自発的に手にとるコトはまずない本だったが、これがかる〜く面白かった。ダイエットに役立つという意味ではない。初版も1986年と古いし、お医者さんが書いたといっても、今でも通用する本なのかは分からない。が、実用的な知識が得られる本としてではなく、ただ単に読み物として楽しめるのだ。

タイトルのサーロインステーキ症候群とは、筋肉が弱り、脂肪がその中に入り込んで、あたかも霜降り肉のようになってしまった状態のコトである(体脂肪とはまた違うのかしら?)。この本は、筋肉は赤身なのが正常なのだから、がんばって運動して赤身にしましょう、と語る部分と、実際にアメリカでこの症状を克服した親子(てか父親がその症候群で、娘がそれを治した)のエピソードの部分との、2つのパートで構成されている。前者は、章のタイトルに「デブ−この醜悪な脂肪のかたまり」とつけてあったり、「80歳以上の老人は例外なく痩せている。減量に失敗したデブはみんな死んでしまったからである」という記述があったり、おいおい、これホントに医者が書いたのか?って書きっぷりである。「頭のわるい人は減量できない」って記述もあった。病気で太ってる人が読んだら怒るぞ。

そして後者は。著者がアメリカでインゲ(サーロインステーキ症候群の父を持つ娘)と出会うところから始まるのだが、なんかムードがハードボイルドというか、芝居くさいというか…。なんたって会話が「インゲって可愛い子猫ちゃんがいっしょにいるから寒くなんかないぜ」と来たもんだ。「俺は何とかだぜ」タッチのくせに、やっているのはダイエット。なんか笑える。しかし油断してはいけない。こっちのエピソードのクライマックスでは、私はほろりときてしまいましたぜ。まさかダイエット本を読んで涙しようとは。不覚。普通読まないジャンルの本にも、面白いのは転がっているもんなんですね。

私はがんがん歩く方だし、サーロインステーキ症候群ではないだろう…と思いつつも、ついチェックテストをやってしまいました。はは。しっかり毒されてるや。

2002.3.21

父親が車で上京してきたときの恒例行事で、1時間ほど路上教習に連れ出されてきた。…どーっと疲れた。久しぶりにしては、まぁまぁだったと思うけど、環七に合流するときはおっかなびっくり。休日で車が少ないのはせめても、であった。環七も走っているだけなら、住宅地を走るよりは楽だ。しかし取り締まりをやっている警官の数が異様に多くて、制限速度を20kmも超えて走っている私はびくびくだ。ホントならきっちり制限速度で走りたいくらいだが、それではさすがに車の流れを乱してしまう。20kmオーバーでも他の車にはがんがん抜かれるのだから。

白バイを見るたび、警官を見るたび(全部で10回は見た。捕まってる人も2人いたし)、「ねえ、追いかけてきてない? 追いかけてきてない?」と父親に確認を求める小心者っぷりを遺憾なく発揮し、「警官が多いからヤだ」と帰りの運転は代わってもらった。旅行に行くときの足が欲しくて免許を取ったハズだが、それが実現するのはいつの日か。今日みたいにちょっとだけでも、せめて週1ぐらいで練習しないとムリだろうなー。ま、ホントのペーパーにはならないように、ぼちぼちやろうっと。

路上教習の目的地は、私が10才まで育った町。何年ぶりかで会う幼馴染みの家に行ってきた。幼馴染みのTと、彼女の母親のUさんと、父と私でしばらく喋っていたのだが、そのうち共通の知人の話になった。話題になったのは私たちの世代の女のコO。「Oはどうしてるんだ?」「あぁ何かちっちゃな事務所やってるみたいよ」「結婚は?」「ダメダメ、あれは結婚はしないねー」。ちなみに私もまだだし、Tも独身である。そこで父がため息をついて言った。「何で俺らの周りのは結婚しないのばっかなのかなー」。思わず「ちょっと待ってよ、私は絶対結婚しないなんて言ってないよ(昔は言ってたけど)!」と抗弁したのだが、なんと父はしらっとして「あ、代わりに俺が言いふらしているから。あれは結婚できないって」と言うではないか。おい!

普通、逆ではないのか。本人が結婚する気がなくても、親が諦めきれずにしつこくするモンではないのか。そういや、こないだ帰省したときも何かの話の流れで、「私には色気がないからさー」と冗談っぽく言ったら、そばにいた母親に妙にしみじみと「ホントにそうなんだよねー」と納得されてしまって、言葉に詰まったコトが。これだけ生きてりゃ自分がモテないのは重々承知しているが、それでも親に言われると何だか悔しいもんである。くそう。見返してやる!と言えないトコロがまた悔しい。

2002.3.20

『天保十二年のシェイクスピア』を観てきた。演出・いのうえひでのりってコトで、芝居の作りはもろ劇団☆新感線。新感線ってのはロックと芝居を融合させた舞台が売り…なのかな? 何回も観ている割によく知らない。とにかく頭が痛くなるくらいの大音量で生演奏が入って、歌詞もよく聞き取れない歌がたくさん入って、衣装が派手で、やたら長い芝居をする劇団だ。私の好きなタイプの芝居とはちょっとズレているのだけど、それでも何度か観に行ったのは、その長〜い中にたいてい何度か、めちゃくちゃ笑えるシーンが入っているから。それに舞台の作りから演出からとにかく派手なので、上手くハマるとはったりがきいて、すごくいいシーンが出来上がったりもする。つまり、全体を通して面白い!ってのではないけど、ところどころに飛びぬけて面白いシーンがある劇団なのだ。

しかし今回は新感線の公演ではなく、「(社)日本劇団協議会10周年記念・2002東京都民芸術フェスティバル(東京都助成)参加」のためのプロデュース公演だった。観終わってまずの感想は「…マジメだったね」「…うん」。派手だし、ロックはがんがんに入っているし、ギャグシーンもあるんだけど、でも突き抜けて面白いシーンってのは、なかった。やっぱ自分の劇団じゃないから、思い切って遊べなかったのか、それぞれ色の違う役者ばかりが集まりすぎて、新しい1つの色を作り上げるまで至らなかったのか。どうもチグハグでまとまりきらない印象。

私は全くの白紙状態で観にいったのだが、井上ひさし作のこの脚本、ちゃんと上演すると4時間半もあるらしい。それを今回は2時間45分に縮めての(でも長いよ!)再演だそうだ。もともとの脚本にはシェイクスピア37作品全部が入っていたらしいのだが、今回は…何作品入っていたんだろ。私には『リア王』『ハムレット』『マクベス』『十三夜』『リチャード3世』ほかいくつかの、有名ドコロしか分からなかった。1幕目はとにかく人が次から次へと出てきて、話も細切れで、どうやってまとめるんだろう…と不安に思っていたんだが、とにかく2幕目では人が死ぬ死ぬ。余分な登場人物は全部殺して、残った人でなんとかオチをつける形になってて笑った。いや、それなりに盛り上がったんだけどさ。

誰が主役なんだかもよく分からない力の分散具合だったのだけど、多分お光・おさち役の沢口靖子と佐渡の三世次役の上川隆也だったんだろう。前に観たときもも思ったけど、沢口靖子は舞台に通用する声を持っていない。マイクで拾っているから聞こえなくはないんだが、それでもあの細い声では迫力が全然でないのだ。代官の妻のおさちはともかく、賭場でケンカするお光に迫力がないのは、ちと説得力ないって。それに比べて上川隆也はよかった。めちゃくちゃ醜い男って設定で、登場したばかりの頃はホントに小さく見えるのに、彼が自分の口先だけでのし上がり権力を手に入れ、自信をつけてゆくに従って、どんどん大きく見えてくる。それと一緒に色気も増すんだなー。これはさすが舞台の人でした。…と、まぁそれなりには楽しんだんだけど、しばらく新幹線はいいや。

さて、明日はしばらくぶりの運転です。東京で運転するのって…去年の6月以来! 今からドキドキ。今度は捕まらないといいなぁ。それより何より、事故らないようにしなくっちゃ。おう。

2002.3.19

最近の外国映画の、邦題のつけ方ってつまらなくないですか? あまり映画に詳しくはないのですが、耳に入るのは原題をカタカナ表記したものばかりな気がします。確かに昔の映画には「この邦題ってどうなのよ」「なんであの題がこうなるかなー」ってのも、たくさんありました。でもそれはそれである意味、楽しめます。逆に、つい「上手い!」って言っちゃうような、名訳もたくさんあったと思うのです。カタカナ表記にしちゃうのって無難だけど、味がない。もうちょい考えてつけて欲しいなーと、ホント思います。映画じゃないですけど、アガサ・クリスティの作品の邦題は、いいのが多い印象があります。

…って何で急にそんなコト書いてるかって言うと、『ロード・オブ・ザ・リング』! 原題は『The Lord of the Rings』です(どわあ、今まで私「Lord」を「Load」と書き間違えてたわ。失礼しました。指輪の重荷って…あ、それはそれでいいかも)。別にね、本にあわせて『指輪物語』としろとは、言いません。ほかに味のある邦題つけてもらってもいいんです。ただこのカタカナ表記で問題なのは…「s」! 指輪は1つじゃないんですよ。RingじゃなくてRingsなんです。日本語では単数だろうが複数だろうが指輪でいいんですけど、だから『ザ・ロード・オブ・ザ・リングズ』なんて座りの悪いものにしろってんじゃないんですけど、物語の中心が1つの指輪ってのも分かってるんですけど……でも気持ち悪いんですよぅ! 日本語なのに変に中途半端に原題に近いから、かえって妙な印象になるんですってばー。

三つの指輪は、空の下なるエルフの王に、
七つの指輪は、岩の館のドワーフの君に、
九つは、死すべき運命の人の子に、
一つは、暗き御座の冥王のため、
影横たわるモルドールの国に。
一つの指輪は、すべてを統べ、
一つの指輪は、すべてを見つけ、
一つの指輪は、すべてを捕らえて、
くらやみのなかにつなぎとめる。
影横たわるモルドールの国に。
(J・R・R・トールキン『指輪物語』より)

なんですよー。ほら、映画にも出てきたでしょ? 種族ごとに指輪を受け取るシーンが。全ての指輪を統べなきゃならんのですよ。けっこう大事だと思うんだけどなぁ。どーせどーせ原作ファン以外にはどうでもいい話でしょうけど。いいんだけどさ。…と卑屈になるのは、やっぱ日本では今まで『指輪物語』があんまり広まっていなかったせい。『指輪物語』に影響を受けたR.P.G.の世界観なんかは広く受け入れられているのにな。ぶちぶち。

そういや映画のロケ地ニュージーランドに、ルートバーントラックってトレッキングルートがあります。数年前、私は2泊3日でここを歩くツアーに参加しました。山歩きとは言っても、食事の用意も寝床の準備も全部やってもらえる贅沢ツアーで、夕暮れに宿泊小屋に辿り着いてから寝るまで、かなりの自由時間がありました。そのとき私が持っていったのが、『ホビットの冒険』(『指輪物語』の前章にあたる、ビルボが指輪を手に入れる顛末を描いた冒険物語)でした。その本を持っていったのは、ホント偶然でした。そのとき私は文字に飢えていて、話を知っている『ホビット』なら英語でも読めるんではないかと思って、買ったみただけだったのです。

ところがそれが大正解で。そのルートバーンはやたら雨が多い地域にあって、私が歩いたときも霧がかかっているコトが多かったんですが、それでもその森の雰囲気はもろ、『ホビットの冒険』の世界だったんです。深くて、幻想的で、ホントに美しい森でした。ホビット庄というよりも、エルフの森のよう。それともエントたちか。で、2日目だったかな。1人で歩いていた私に、イギリスからツアーに参加していた人が「昨日『ホビット』読んでいたよね。いいの選んできたね! この森は本当にあの作品そのままだ」と声をかけてきて。その日の夜は彼と、その話に乗ってきた数人とで、『指輪物語』で盛り上がったのでした。そのとき「ああ、ホントこっちでは『指輪物語』が浸透してるんだなー」と嬉しくなって。

そうゆう経過があるもので、今回映画のロケ地がニュージーランドと聞いたときには、「ぴったり!!」とすぐに情景が思い浮かびました。映画3部作全部観たら、また行きたいな、と思います。

2002.3.18

『The Lord of the Rings』観てきました。もうねーもうねー言うコトないです! いや、ちょっとはあるけど、その文句を上回る出来で、ひたすら「ありがとーっ」って感じ。ああシアワセだよお。昨日は妹と2人でぽやーんっとしちゃって、そのうちどっちかが「あそこのシーンがさー」とにんまりしながら話し始めて…みたいな、あまり他人さまにはお見せできない状態に陥ってしまってました。次の日が仕事ってのが、ホントいやだった。1日はそのまま指輪の世界に浸っていたかったです。で話してたんだけど、感想が面白い映画を観たときの、いつもの気持ちとは違います。「良かったよねー」じゃなくて、「そうなんだよ、そうなんだよねーっ」としか言えないの。そうゆう、原作にかなりの思い入れを持ってる者の、感想です。

設定や話の流れが頭に入っている身としては、映画を観てても「なんでココでこうなるの?」「この人はどうゆう立場の人なの?」っていう疑問は一切感じませんでした。原作知らなかったらって、考えるのは、ムリです。言葉足らずの部分はぜーんぶ脳内補完。映画ではほとんど出てこない、のんびりしたシーンや、それぞれの感情の移り変わりもぜーんぶ脳内補完。それを自動的にやりながら観てたので、終わった直後は「なんでこれが分かりにくいのさ。説明不足のシーンなんてないじゃん」と思っちゃったくらいです。終わるときにしろ、私は「三部作ってコトは原作と同じ構成なんだろうから、あの辺で終わるなー」って思ってて、だから後ろの席で「え、これで終わり?」と呟いていた人に「いいんだよ、コレで! 他のどこで終われってゆうのさ」とついツッコミそうになりました。

でもちょっと落ち着いて考えてみれば、説明されてないコトは山ほどあって。なぜサムがフロドにあそこまで忠誠を誓っているのか。なぜメリーとピピンはついてきたのか(映画じゃ単なる成り行きですわね)。裂け谷の会議のメンバーはどうやって召集されたのか。ボロミアとアラゴルンはどうゆう関係なのか。ギムリやレゴラスはそれぞれの種族の中でどうゆうポジションにいるのか。風早彦グワイヒヤ(サルマンのもとからガンダルフを助け出したあの大鷲です)も、いきなり出てきましたしねー。『ホビットの冒険』の内容も、中途半端に話題の端々に出てくるし。だいたいあの血縁関係は、本読んでてもこんがらがるのに、一切の説明なしですもんね。そりゃ分からないわ。

(なんか原作読んでる優越感ありありですね。読んでない方ごめんなさい。あんまりにも嬉しくて。観終わった後の感想がまず「あー原作好きで良かったーっ」だったんですもの。好きな話が映像になって、しかもこれだけイメージと合致してるって滅多にないものだから、舞い上がってるの。許して。)

イメージが違うと言えば、始まる前は「フロドがなー。若すぎるし、顔よすぎ」と思ってましたが、でもこれはすぐに慣れました。若フロド、いいです。あとは映像でイメージ崩れたってのは、ほとんどありません。すごい! フロドが指輪をはめたときに見える風景なんか、もろイメージ通り。黒の乗り手たちなんか、イメージ超えてましたね。それにレゴラス。美しすぎ。モリアの坑道に入ったばかりのとき、ドワーフの死体から矢を引き抜き、「オークだ」と言って身構えるシーンではあんまり絵的に美しくて悲鳴あげそうになりました。モリアのシーンは全体的に素晴らしかったです。アラゴルンもカッコよくて大満足。あと、説明はされないんだけど映像には出てる要素がいくつかあって。雪山でレゴラスだけが雪に埋もれずに歩いている、とか、ロスロリエンを出たあと、全員がお揃いのマントをお揃いのブローチで留めている、とか、その辺ちゃんと押さえてくれているのが、ホント嬉しくなりました。

それから私は瀬田貞二さんの訳で読み込んでいるので、言葉がいくつか引っかかりました。アラゴルンの通り名は韋駄天じゃなくて馳夫がいいなーとか、フロドがビルボから譲り受ける剣は「つらぬき丸」って呼んでくれなきゃ、とか、ああそうだ、一番大きいのはゴクリ(ゴラム)の話し言葉ですね。「愛しい宝物」じゃなくて「いとしいしと」と言って欲しかったです。第2部、第3部に向けての不安もそこ、ゴクリの話し方だけ。「いとしいしと…シーッシーッ」とか「しどいよ、しどいホビットさんたちだよ、かわいそうなスメアゴルいじめるよ」とか言ってくれれば、もうそれだけで私大喜びです。ムリかなー。

トム・ボンバディルが削られてしまったのは、そりゃ残念です。でも全部丸ごと削られてしまったのは、まだ諦めがつく。それよりも、中途半端に削られてしまったシーンが心残りで。例えばギムリとレゴラス。この2人のお互いに対する感情の移り変わり、関係の変化とか。あとは森の奥方ガラドリエルに会ったギムリが、それまで「エルフの魔女」なんて言ってたくせに、ぽーっとなって心酔しちゃうところとか。あとはガラドリエルから旅の仲間それぞれへの贈り物。これはぜひ入れて欲しかった。エルフの食べ物とかエルフのロープとか、この後けっこう出てくるハズだし。あ、でもコチラ(eiga.com)によると、DVD版だとこの辺の不満はなくなるみたい。絶対買おう。

とにかく原作にある、ほっと一息つくシーンがほぼ削られてるせいで、3時間ほぼずっと興奮しっぱなしで。最後の方のシーンになったときには「うそ、これが来るってコトはもう終わり?」ってくらい、時間の経つのが早かったです。今度、実家にある原作を送ってもらって読み返してから、もう1度観に行きます。忘れてる部分も多いので、記憶を新たにしたら、楽しめるシーンがもっと増えると思うんですよね。ああ楽しみ。第2部、第3部も待ちきれません。

おまけ。昨日は結局5駅歩かずにすみました。理由は(3.エンド・ロールをブッチして駅まで全力疾走)で、ギリギリ最寄駅まで行く最終電車に乗ったので。これも疲れましたが6km歩くよりはマシでしょう。ただ、エンド・ロールの後にゴクリが2人の後をつけてるシーンが入ってたりしなかったかなーってのが、心残りですが…いいんだ。も1度観に行くときにちゃんと確かめようっと。

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