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2002.3.17

第1次世界大戦の頃に南極大陸横断を目指して出発したものの、途中で氷に閉じこめられ計画を断念。絶望的な状況にありながら全員奇跡の生還を果たした『エンデュアランス号漂流』を読み終わり、何の気なしにTVをつけたら映画『南極物語』をやっておりました。そうなると小松左京の『復活の日』を読みたくなります。…あれ、南極が出てくるのってちょっとだけなんですけどね。何か。

さて今日はこれから、『ロード・オブ・ザ・リング』を見に行ってきます。それはいいんですが、一つ問題が。一緒に行く妹がワガママでして、20時すぎじゃないと来れないって言うんですよ。仕方ないので20時50分から始まるレイトショーにしました。これが終わるのは24時なんです。ウチの最寄り駅まで帰る電車、切れてるんですよ。途中までは帰れるんですが、そこからウチまで5駅分離れてます。駅と駅の間が近いとはいえ、5駅分だとけっこうあります。今地図見たら6km以上ありそうです。歩けない距離じゃないけど、何が悲しゅうて翌日仕事を控えた真夜中に歩かにゃならんのだ、って距離です。

ですから大人なTo-koさんとしては、タクシーを使えばいいか、と思ってました。ところが妹に状況を説明したときです。「その時間だと○○駅までしか帰ってこれないんだよね」「うん」「だからさ、タ…」「○○駅からだったら、歩いたコトあるよ」「………あ、そ?」「うん、歩ける」。私は通常あまり勝ち負けにこだわる性格じゃないんですが、変なトコロで負けん気が発揮されるときが、あります。ホントに変なトコロで。今回がそうでした。妹が歩けると言っているのに、姉たる私が歩けないとは言えません。私の口から出たのは「…じゃ、歩く?」って言葉でした。ああ。

んなワケで、(1.妹が仕事でめちゃ疲れている)、(2.天候が急変する)の、どちらかにならない限り、真夜中の住宅街をひたすら歩く予定です。都内某所でガツガツ歩くデカい女2人組を見たら、たぶん私たちですので応援よろしく。全く、映画見に行くのに歩きやすい靴選ぶってのもなー、もう。

2002.3.15

三谷幸喜さんの幕末コメディ『彦馬がゆく』を観てきました。三谷さんが東京サンシャインボーイズ時代に書いた脚本のリニューアルだそうで、彼の作品の中では、いくつかの点で異色。三谷さんの舞台では、舞台上と現実の時間の流れがズレるコトってほとんどないんです。暗転したら次の日とか、何年後とかにならないのです。舞台転換もないし、まずほとんど暗転がない。ある場所で2時間ほどの間に起きる事件を、そのまま書く脚本が多いのです。「恩師の葬式で久しぶりに顔を合わせた同級生たちのドタバタ話」とか、「娘が初めて交際相手を連れてきたときのドタバタ話」とか「結婚式直前に初めてお互いの両親が顔を合わせたときのドタバタ話」とか、そんな「ある特定の場所」の「ある特定の時間」にスポットを当てて描いた作品がほとんど。

その点、『彦馬』はちょっと違います。場所こそ浅草の神田写真館から動きませんが、話は7年にも渡ったものです。その写真館に幕末の志士たちが次々に訪れ、写真館の主・神田彦馬(小日向文世)とその家族を巻き込んで、時代を動かしていく話です。ですから三谷さんお得意の、畳み掛けるようなストーリー展開も、誤解が誤解をうんで膨れあがっていく勘違いの一大叙事詩もなく、間々に彦馬の次男・金之介(筒井道隆)が時間の流れを説明する独白を挟みつつ、話を進めていく形になっています。その分、芝居全体の流れは淡々としている感が無きにしも非ず。最初の方は今イチのりにくいかな、と思ったくらい。でもさすがは三谷さんですぐに引き込まれました。さて以下、山ほどネタバレ。気にしない方は反転させて読んでください。

最初は、坂本竜馬(松重豊)がカッコいいなーと思ってました。京都に出る前の竜馬が、この写真館の娘・小豆(酒井美紀)と恋仲で、竜馬は「娘の彼氏」というポジションで写真館に出入りしている、という設定です。私の中では、松重さんはサード・ステージの『トランス』でオカマ役をやったときの印象が強い役者さんでした。大きな体で汗をだらだら流しながら共演男優に迫る松重さんは、迫力で…正直、気持ち悪い程でした。だけど今回の着物姿の松重さんは、さりげなく入り口を塞いで人の行く先を遮ったり、小豆を背中に回して守ったりする松重さんは、すごーく絵になっていました(席が遠めだったので汗も見えなかったし)。カッコよかった。

おまけに普段は人が良さそうな、ぬーぼーとした印象なのに、高杉晋作(本間憲一)や伊藤俊輔(大倉孝二)に対峙するときや、桂小五郎(梶原善)と政治を語るときなんかは、急に鋭さを見せるキャラクターで、そのギャップがツボで。更にその後。竜馬は京都に行く直前に小豆に会いに来て、「メリケンでは年の暮れに贈り物をする風習があるらしいから…メリークリスマシュ」と言って、舶来モノの靴をプレゼントします。それでいい雰囲気になって盛り上がった後で、完璧に出るタイミングを逸した彦馬が2人のすぐ近くにいたことが分かるってシーンがあるのですが、慌てて「お父さん、どこから聞いていたの?」と聞く小豆に、彦馬が「…メリークリスマシュ」と答えたときの竜馬のリアクションが! 畳に突っ伏して大きな体を小さく丸めて恥ずかしがっているその姿が! ああもう! ツボ押しまくり!

だから、竜馬が京都に行った時点で1幕目が終わり、休憩が入ったときには(休憩が入るのも三谷作品では珍しい)、友達と「竜馬カッコいいね。あのリアクション見た?」って話をしていたのです。私は竜馬には特別思い入れはないのだけど、この竜馬はいいなーとホント思ってました。それが2幕目に入ると一変しまして。時代は移って、竜馬が薩長同盟を結ばせた直後。だけど薩長が手を結んだなんて誰も信じないので、桂小五郎と西郷吉之助(温水洋一)が握手をしている写真を撮ろう。その写真を証拠に、幕府を転覆させよう、と2人を連れて竜馬が写真館に戻ってくるって話の展開になるのです。

それなのに、久しぶりに恋人の小豆に会えたと言うのに、どうも竜馬の態度がつれないのです。そこで、その時期竜馬と行動を共にしていた彦馬の長男の陽一郎(伊原剛志)を問い詰めると、竜馬が京都でおりょうさんという新しい恋人を作っているのがわかります。小豆はショックを受けますわな。1幕目で夫婦になる約束をしてるんですもん。口約束だけど。彼女は「私は大丈夫」と気丈に振る舞い、泣きもしないんですが、家族は小豆が自殺するんじゃないかとまで心配します。兄の陽一郎も「歴史を動かすような男に取っちゃ、女なんて誰でもいいんだよ。だけど俺たちは男でさ、やっぱり女が恋しくなるときはあって、そうゆうときはつい手近にいる方を抱いちゃうんだよ。別におりょうさんの胸が三尺で、おまえのが二尺五寸だからじゃないんだよ!」とフォローにならないフォローをしようとして、女性陣から一斉に反撃くらったりします。

この頃になると、小豆に向き合わない竜馬の態度が不誠実に見え、観ている方としては「竜馬、振るなら振るでちゃんと自分の口から話せ!」と思うようになってます。だけど竜馬は写真を撮るので頭がいっぱいで、しかも写真館の場所が江戸は浅草、幕府のお膝元ですから、桂や西郷や自分がいるのがバレちゃ困るワケです。んで幕府側の追っ手が来たり、桂と西郷がケンカを始めたりとドタバタを経て、やっと写真を撮るのに成功するんですが、その途端、また竜馬の態度が変わります。それまでは、心変わりはしたものの出会った時点では小豆が好きだった、って感じなのに、今度は最初から打算で小豆に近づいたのだって話になるのです。志士が出入りする写真館に入り浸っていれば、自然とツテができる。それを狙って小豆を利用したってワケです。それまでは仲間扱いしていた陽一郎も切り捨て、竜馬は神田写真館の一家と決別します。

もうね。さっきまでカッコいいって思ってたのなんかコロッと忘れて、竜馬憎し!です。だって写真館に出入りしたかっただけなら、小豆を利用する必要はなかったのです。ちゃんと理由を話して頼めば、彦馬はほいほい協力してくれたでしょう。…って、これは彦馬一家の人物像がわかってるから、そう思っちゃうのですが。そしてまた時は流れ、江戸に官軍が迫ってきた頃。神田写真館にも砲撃の音が近づいてくる、そんな情勢でのシーン。竜馬との決別以来、歴史の流れから遠ざかっていた神田写真館ですが、やってきた桂から竜馬の死が告げられます。またまたショックを受ける小豆と、彼女を心配する家族。だけど小豆はまた「もう終わったコトだから」と、崩れません。

さあ、やっと最後。長くてごめんなさいね(でも芝居も休憩20分を含めて3時間半もあったんです)。神田写真館には官軍に追われた近藤勇(阿南健治)が逃げ込んできます。彼は新撰組最盛期にも神田写真館を訪れていて、その際、死に場所が見つかったらまた来る、と約束していたのです。彼をかくまったコトが、今や官軍の中心になっている伊藤博文(かつての俊輔)にバれ、神田写真館は砲撃を受けます。写真館から、家族は商売道具を持ち出し、脱出します。そこで第一次神田写真館の時代は終わり、芝居も終わります。その崩れかける家屋から、家族それぞれが持てるだけのものを持って逃げようと右往左往するのですが、最後に残るのが小豆です。早く逃げろと促す彦馬に、小豆は「忘れ物!」と、かがみこんで縁の下から何か持ち出そうとします。その頭上に屋根が!

や、彼女は飛びのいて無傷なのですが。その拍子に縁の下から持ち出そうとしていたモノを、ぽろっと落とすのです。ええ、あれです。すっかり忘れてたあれ。竜馬にもらった靴です。その靴を見た途端、予期しない涙がぶわっと湧きあがってきてしまって。だって油断していたんですよ。状況は深刻だけど基本がコメディなんでドタバタしていたし、家族のしんみり話もあったけど、それも落ちついて、あとは終わるだけって気を抜いたトコロに、来たんです。靴が。もう三谷幸喜の思うツボ。竜馬がカッコいいと思うのも、その後ひどいヤツだと思うのも、靴で泣くのも、全部彼の脚本通りに決まってます。こっちも気持ちよくさせてもらって、楽しんでるんだからイイんだけど、でも何か悔しい。…と毎度毎度、思います。

書き漏らした他の役者。彦馬の妻・神田菊(金松よね子)は、すごーく良かった。歴史の動乱も何もお構いなしで、里芋を美味しく炊くのに命をかけてるお母さん。神田家の柱は実は彼女で、芝居の要所要所も彼女が締めていた気がします。あと陽一郎の恋人・しの(瀬戸カトリーヌ)。着物での勢いよいダンスが素敵。あと、さっき名前は出したけど、桂小五郎役の梶原善。東京サンシャインボーイズ出身だけあって、三谷芝居をよく分かってらっしゃいます。浮き沈みの多い桂を、メリハリつけて演じてて、脇役なんだけどキメてくれました。ホント、三谷舞台の難点は、チケットが取りにくいってコトだけです。

2002.3.14

ホワイトデー前日にかかってきた電話。「もしもし?」「あ、To-ko? ホワイトデーのさ、買ってあるんだけど、どうする?」「え?…あのう……私、バレンタインデーに何もあげてない気がするんですけど…」「や、別にいいよ、気にしないで」「でも確か去年も、何もあげてないのにもらったよね」「うーん、こじつけるなら、去年の暮れに海外旅行のお土産でチョコもらったからさ。そのお返しで」「……そんなムリにこじつけなくっても…」「え?」「ううん、ありがとね」「どういたしまして」…。あ、相手は親戚のお兄ちゃんでございます。なんであんな義理堅いヒトと血が繋がっているのか、謎。私の分の「気配り」が全部あっちに行ったんじゃないでしょうか。

さて今日、とってもびっくりしたコトが。某ミュージカルを知らない人とは共有できない類のびっくりなんですが。ちょっと調べ物があって、Googleで『ラ・マンチャの男』を検索したんですよ。そしたら東宝のサイトが1番に出てきまして。「あ、今年もやるんだ。8月だったら行けるかな。また見に行っちゃおうかな。前売り開始は…」とぼんやり画面を眺めておりましたら、「セルバンテス/松本幸四郎」の文字が現れてきました。うんうん、セルバンテスは松本幸四郎に決まってるよね、他の人にはできないよ…と見ていると、更に新しい文字が浮かび上がってきます。「アルドンサ役に」はいはい、アルドンサ役変わるの? 「松たか子が」…松たか子…? 「初挑戦!」 初…………っ!!

だあああああ!? アルドンサ!? アルドンサってあのアルドンサ!? 松たか子? だあ? ななな何考えてるんだ製作サイド!

アルドンサってのはですね、宿屋の下働きの女なんですよ。その宿の客はラバ追いの荒くれ男どもで、アルドンサは相手お構いなしに客と寝て、小銭を稼ぐような女なんです。したたかで強いあばずれ女のアルドンサが、ドン・キホーテと出会い、彼の理想につられて、体を売るのを拒否する。そのせいでラバ追いの男たちに連れ出され、輪姦されて、ボロくずのように道端に捨てられてしまう、そんな役なんです。そこに現れたドン・キホーテに「あたしはドルシネアじゃない、アルドンサだ。あんたの理想のお姫さまなんかじゃない。金さえもらえば誰にでも足を開くような、そんな女なんだ。そうやって生きてきたのに、あんたの優しさがあたしを変えてしまった。あんたの理想があたしを傷つけたんだ!」と叫び、それでも「姫は辛い目に会ったので錯乱しているだけだ、本当の姫はそんなことを言う人ではない」と言い張るドン・キホーテに「本当のあたしが見たいならこの手に金をよこしな、最後まで見せてやるよ。お願いだから本当のあたしを見て」と歌うのです。

この息詰まる緊張感、盛り上がり、血を吐くように歌うアルドンサの迫力は、ミュージカル以外では味わえない、表現できないもので、何度見ても身震いせずにはいられないほどの、素晴らしいシーンなのですが……。松たか子? できるの? 彼女がそうゆう役やったの見たことないから、演技力は言わないとしても、彼女じゃ線が細すぎる。それに若すぎる。小悪魔的な女じゃないんです。ドスの利いた声で男どもをどやしつける迫力がなくっちゃ。登場シーンで、水桶をひょいひょい運んだり、まとわりつく男どもをあしらったり…できるの? 何か、すっっげー不安なんですが。痛々しいだけになっちゃうんじゃ、ないのかなあ。

『ラ・マンチャ』は見たいけど、でも下手なアルドンサを見たくないし…。でも意外な存在感を松たか子が見せないとも限らないし…。だいたい私は鳳蘭のアルドンサも、あんま好きじゃなかったんだよ、上月晃が良かったんだよ…。映画じゃソフィア・ローレンだぜー。くそう…。ああもう、心が千々に乱れております。…東宝の、ばか。

2002.3.12

どああああぁぁぁぁ! 良かった良かった良かったよおぉぉ! …と、安堵の波に押し流されておりますTo-koです。絵柄にすれば、奥さんの出産が思ってたよりも長引いて不安を募らせている、初めて父親になる男の人が、やっと出てきたお医者さんに「母子共に元気ですよ」って言われて、思わずお医者さんの手を握りしめて滂沱の涙を流している、そんな感じ。

…何があったって、ただ単に初めて読んだ本が面白かったってだけなんですが、でも最近ちょっと不安だったんですよ。だって「これ面白いよ」と言って薦めてもらう本がことごとく今イチで、それも「全然好みじゃない」じゃなくて「うーん、何だかな〜」のレベルばかりだったんです。お気にの本は安心して読めるし、マンガは新作でも楽しめる。だから、私ってば小説…初読の物語を素直に楽しめなくなっちゃった?って不安で。妙な批評癖がついちゃって、ナナメ上方からしか本を読めなくなってるんでは?って。

だってそんな読み方、ツマラナイじゃないですか。「ここの文章はおかしいなー」だの「この展開はこうじゃない方が、物語として締まるんでは」だの「この人物の行動は一貫性がない」だの考えながらってのも、一つの読み方ではあります。それもキライじゃありません。でもベストの読み方じゃないんですよやっぱり。私は、な〜んにも考えずに物語に身をゆだねたいんです。夢中にさせて欲しいんです。ページを繰る間ももどかしいくらいがいいんです。そうゆう本に、3冊…いや5冊に1冊でも当たれば、読書の甲斐もあるもんです。それがここんとこ、ずっとなかったから。あーでも良かった! 単に相性が今イチの本が重なったってだけだったのね! 今回読んだのも、特に心に響いた、とかじゃないんですけど、でも物語にハマりました。

なーにを大げさにって思います? でも本ってとっても大事なんだもの。私の生活必需品の1つですよ。そのジャンルで新作が楽しめなくなるってのは、大問題です。てなワケで、久しぶりに楽しませてくれた貴志祐介さんの『天使の囀り』読了。かなり説明が多いのに、全然説明くさくなくて、展開がスピーディ。登場人物の感情・行動にも違和感なし。さくさく読めるし止められない、気持ち悪い話。最後の方は泣きそうになりながら読んでました。悲しくて、じゃなくて、気持ち悪くて。早いこと忘れないと、夏の風物詩のあれが食べられなくなりそうな、そんな話です。←読んでない人にはわかるまい。ほほ。

2002.3.11

目を覚ますと左手にしっかりと携帯電話が握られていて、ぎょっと飛び起きる月曜日。私は携帯のアラームで起きているので、これはつまり、アラームを無意識に切って、そのままも一度寝てしまったコトを意味する。ギリギリ遅刻せずにすむ時間だったのは救いだったけど。

週末は伊豆に行ってきた。私には見るだけでなぜか嬉しくなる風景が2つある。1つは海とか湖とか大きな川とか要するに水がたくさんあるトコロ、2つ目は富士山である。典型的な日本人でしょ。ふふん。で、伊豆方面はこの2つが両方とも見られる好コース。天気が良かったおかげで、国府津あたりからは富士山がいつも見ているよりずーっと大きなサイズでくっきり見えたし、滞在地からは海の眺めを堪能できた。駅前には早咲きの種類の桜並木があったし、遠くを見れば海と空の境目が霞んで見える。春らしくて心が浮き立つじゃないの。

今回の伊豆訪問は知人のウチの別荘のリニューアル工事に、人工として駆り出されたため。でも工期が遅れているとかで、予定していた作業の半分くらいしか出来る状態ではなく、結局半分は遊びになった。やったのは珪藻土を壁に塗りつける作業。左官業など初めてなので、最初はおっかなびっくりだったが、慣れてくるに従って、更に夕暮れが迫るにしたがって、次第に大胆になっていく。ちょっと鉄腕DUSH !! な気分だったが、あんな素人の大胆作業で大丈夫なんだろうか。仕上がりが楽しみのような怖いような。人の家なんだけど。泊まりにいって「この壁のこの辺は私が塗ったんだー」とかやるのは楽しみ。ああでもそこだけボロボロ落ちてきてたら、どうしよう!

脚立に乗っての体力勝負作業は久しぶりだったので、けっこう疲れた。それは皆いっしょ。だけど集まった仲間たちの中には、こうゆうとき、疲れたからって不機嫌になるようなタイプはいないので、最後まで楽しげに騒ぎながら作業を続ける。でも作業効率は落とさない。彼女たちと何か片付けるたびに、一緒に仕事をしたら楽しいだろうなー、と思う。たまにしか共同作業をしないからボロが出ないって部分もあるけど、でもやっぱ根本的なトコロが合っている気がするのだ。「誰か何とかして」って甘えがなくて、手に余ったら「助けて〜」ってきちんと言えて、自分でやるコト探せて、即戦力になる女たち。彼女たちと一緒にやる仕事は、変なストレスが生まれなくてヤバいくらい楽だ。

んなワケで、先週末のイライラは姿を消し、体は疲れてるけど気持ちは明るい。この勢いで年度末作業を乗り切ろうっと。

2002.3.8

毎月初の恒例日記、仕事の愚痴をさんざん書いたのだけど、我ながら鬱陶しいので消しました。要するに「“A+B-C=D”って作っておいて」と自分でオーダーしておきながら、結果を見て「どうしてここでCを引くんだ?」とか「A+BとC+Dが一致するのは何で!?」とか、毎月毎月毎月毎月聞いてくる上司にうんざりしてるってだけの話。覚えろ。でなかったらせめて新しいコトを聞いてくれ。

なんだか妖しい踊りを踊られて精気が吸い取られてHPもMPも10を切ってる気分。週末でしっかり回復せねばねばどろどろ。

2002.3.4

私が自分を健康的だなーと思うのは、外食や簡単な食事が続くと落ち着かなくなるトコロ。今日も、最近自炊が手抜き気味だったのと、残業で食事が遅れたせいで「まともなモノを食べたーいっ!」発作を起こし、帰りがけにスーパーに寄って食材を買い込んできた。帰宅してから1時間15分後、できあがった食事は、なめこと豆腐のみそ汁・イシモチの塩焼き・菜の花のお浸し・豚バラと大根の煮物。すばらしい。自分で自分に惚れちゃうくらい。(←普段やらないのがバレバレ。)

おまけに料理の合間に洗濯(スイッチ入れて干しただけ)と、風呂場の掃除(雑)も済ませている。うーん、これはかなり手際がいいって言っていいんじゃない? 私ってば働き者だなー(1年のうち200日でもこの状態でいられれば、確かにね)。洗濯物干してるときに、お隣の紅梅の花びらがだいぶ降ってたなー。そう言えばここんとこ、花屋の店先に並ぶ花の色が、だんだん華やかになってきてる。春だなぁ。なーんてとりとめもないコトを考え、ほくほくしながら食事をしていたら、不意に舌先に違和感が。鏡を見たら……魚の小骨がぐっさり突き刺さってました。無理矢理抜いて、流血。痛いよぅ。

魚の骨をのどにってのは聞くけど、舌にってのは聞いた覚えがない。………思うんだけど。「タンスの角に小指」みたいなメジャーなのじゃなくて、あんまり人から聞かない類の失敗をこんなに重ねるのは、どう考えても変じゃないだろうか。要するにみんな、カッコつけて内緒にしてるだけ、ですよね? 誰もいないトコロでは、わさび煎餅食べて悶絶してたりするんですよね? そうだと言って。でなくちゃ私は、やたら粗忽な人間ってコトになるしかないじゃないのよ。ひーん。

2002.3.2

宮部さんはお気に入りじゃない、とか言いつつ、2晩も夜更かしして読んでしまった。頭で連続殺人を被害者&捜査陣の目線で書いておいて、とりあえず一段落ついたトコロで時間を遡り、今度は犯人の目線で同じ事件を。その辺りはちょっと中だるみで、事情はわかっても事件の展開はなく、先を気にさせるのだ。そして一気にラストへ。やっぱ達者だなあ。

読んでて思い出したのだけど、私は宮部さんの問題提議(…でいいのかな)にもけっこう共感を覚えるのだった。共感というか「彼女と同じ箇所で、私もひっかかりを覚える」程度なのだが。例えば『模倣犯』の登場人物の1人が「なぜ男は女を殺すのだろう」と疑問を抱く部分を読めば、映画『カラーパープル』を見た直後のせいもあり、「ホントにどうしてなんだろうなー」と考え込んでしまう。考えすぎだろ、とか、何でそんなコト考えるんだ、とは思わない。『クロスファイア』での「暴力でしか止められない犯罪者を裁くために手段を選ぶ必要はあるのか」って問いかけに対しても、いろいろ考えた。結局結論は出なかったのだけど、そうゆう問いかけをしたくなる心境は、わかるような気がする。

『クロスファイア』と言えば、映画版がTVで放映されたのを見たのだが、あれはヒドかった。原作は「人間の中には、救いようのない evil が存在する。その暴走を止めたい場合、そして法律に従っていてはムリ、或いは時間がかかりすぎる場合は、法の範疇を超えて行動してもいいのではないか」って話でしょ? もちろん evil は出てくるけど、主役は両方とも“正義”の側で、「これ以上の犠牲者を出さないために、法を超えてもいい」と思っちゃう派と、「即効性はないけど、こちらはルールを守るべき。でなくては、こっちも evil と同じになってしまう」と考える派でしょ? evil の行動を阻止し、人々の平和な生活を守ろうとする点では、同じ。手段が違うだけ。その、どちらが正しいとも言い切れないような2派の対比を描いた話でしょ? なのに映画版だと「evil を止めるためならば何でもする」派が、文字どおりの悪徳警官になってるんだもんなー。悪役にしちゃったら意味がないじゃん。どっちも自分が正しいと信じてるってトコロが大事なんじゃん。

あそこまで原作を歪めるのって、どうなんだろう。登場人物が変わるとか、エピソードが削られるとか、逆に付け足されるとかって演出の部分は、表現の媒体が違う以上、仕方のないコトなんだろうなーと思う。2次元を3次元におこすのに違和感を出さない方が難しいし。けど作者が書きたかった真髄は、最低限伝えなくちゃ、と思うのだけど。や、映画に限らず、世の中に原作の意図を無視した作品が多いのはわかっている。ドラマ然りマンガ然りアニメ然り。まったく何度はらわたグツグツいわせたコトか。作者の「これが言いたい」「この雰囲気を伝えたい」って意図を無視しちゃったら、原作もらう意味がないと思うんだけどなー。そこを無視するなら、いっそ新しい物語を作ったほうがいいんじゃないのか。じゃなかったら、いっそパロディにして欲しい。原作を変えるな、とは言わないけど、「原作とは違うけどイイね」って思わせて欲しい。

ふっるい話だけど、映画『ネバー・エンディング・ストーリー』もヒドかった。私は1作目でド頭にきて、続編は見ていないのだが、未だにあのラストは許せない。あれはバスチアンの成長物語でしょ。成長物語ってのもめちゃくちゃ乱暴な要約だけどさ。でも彼自身がファンタージェンのアトレーユに自らを重ねあわせるトコロから始まって、考え、迷い、心を決め、行動し、失敗し、また立ち上がり…って、一歩一歩進んでいく話でしょ。原作ではバスチアンは、ちゃんと強くなるのですよ。なのに映画のラストはありゃ何だ。ファンタージェンの竜フッフールを現実世界に連れ帰り、それに乗って怯えるいじめっ子を追いかけ回して、大喜びするバスチアン。ばかか。そうゆうのをね、「虎の威を借る狐」って言うんだよ。あんたその後どうする気さ。一生フッフールに乗ってるワケにはいかないだろーが。フッフールがいなくなったあと、いじめっ子たちに報復されるだけじゃんよ、ぺっぺーっだ!

はっ…! いかん、つい興奮にしてガラが…。で、でもこれ、公開当時も「映画は映画として評価すべき」って友達とケンカになったんだよね。私だってラストさえなけりゃ、ファンタージェンの映像は好きでしたけどね。「幼ごころの君」は今思い出しても美しかったし。でも原作を離れて考えても、あのラストはロクなもんじゃない。あのフッフールはバスチアンの強くなった心を現す比喩表現なんじゃないか、って評も聞いたが、そう見ようとしても見えないよ。比喩表現のつもりだったにしろ、全然伝わらないなら意味ないんじゃない? だいたい映画のバスチアンは成長してないじゃん。だいたい原作者のエンデが、あのラストを削れと、あれは原作の意図するトコロではないと、訴訟おこしてるんだしさ。

…何で宮部みゆきの話からミヒャエル・エンデの話になってるんだろう…。話がぽんぽん飛ぶのは寝不足で思考が散漫になってる証拠だわ。さっさと寝よう。

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