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2002.2.15

昨日たまたま映画評を見つけたのがきっかけで、さとなおさん「雑談な日常」を読み始めた。これが面白くて、最新からずーっと遡って、今2000年の夏まで読んでいる(月1〜2回の更新なので)。新しく見つけたサイトの過去ログに読みふけるなんて、ずいぶん久しぶりだ。新しく…言っても、まだ個人サイトが珍しい頃からあったサイトだわ、新聞にも連載持ってたわ、本も出してるわ…とずいぶん知名度が高そうな方である。私がネットを始めたときはもう個人サイトが山のようにあったから、いくら有名でも知らないトコロはたくさんあるのだよなー。積極的に新規開拓もしてないし。ま、遅くなっても、面白いサイトに巡り会えるのは嬉しい。よくぞ今まで続けていてくれました!って感じ。もう更新はしないけど面白いログを残してくれてるサイトも、それはそれでありがたいのだけど。

彼のテキストを読んでて思ったのだが、私は年上のステキな人を見るのが好きだ。同年代や年下のステキな人ももちろん好きなんだけど、年上の人は立ち位置がちょっと違う。私は年にはこだわらない、と何度か書いたが、それは「この年ならこのくらいは達成してなくちゃ」みたいな期待っちゅーか重圧ちゅーかを感じたくないからだ。自分で自分にかけてしまう場合も含め。それを考えて「よーし、もっとがんばろう!」と思えりゃいいのだけど、「何で私は同じ年の人がやっているコトができないんだろう」とネガの方向に落ち込んでしまう方が、怖いので。理性じゃそんなの比べられない、意味がないと思うのに。人と比べて、自分が今までやってきたコト、やらなかったコトはを悔やんでもどうしようもないもんね。同年代か年下の魅力的な人に対しては「ステキだなー」と思って好きになるけど、その人と比べてどうこうっては考えない。ようにしてる。

だけど年上の人は違う。年上の魅力的な人ってのは、私がこれから歩いていく道の先に立っているのだ。だから年上のカッコいい人を見るとつい、自分がその人と同じ年になるまであと何年ある、と計算する。その何年…とゆう時間はまだ白紙で、どうにでもできる。こうゆうケースだと素直に「よーし負けないぞー」と思えるのである。勝ち負けって何だ。知らんがとにかくそう思うのだ(…今思ったけど、同年代か年下でも「負けないぞー」って思うコトはあるなぁ。ただ年を計算しないだけ)。「負けない」ってのは、同じ年になったときに同じような人間になりたい、ってのではなく、同じくらい魅力的な人間になってやろう、って意味で。人には持ち味があるからさ。でも持ち味は違っても、自分の先にカッコいい人の背中が見えると、嬉しくないです? 私は嬉しい。これまたちょっと視界が広がる気がする。自分の目の前に横たわる世界は限られてなんかおらず、もっともっとずっと広いじゃないか思う。

さてそこで。今の自分はどうかと言えば。私を見て「ああいう30代ならなってもいいよなー」と思ってくれてる年下のコがいるかと言えば、多分きっとおそらく絶対いないだろう。ダメじゃーん。カッコいい背中になるには、まだまだ修行が足りません。

2002.2.14

結局またTSUTAYAに行って『恋人たちの予感』を借りてきた。久しぶりに見るので、今でも楽しめるかなーと内心思っていたのだが、まだまだ大丈夫。やっぱり頬を緩めながら見てしまった。合間に挿入される何組もの老夫婦がいい雰囲気で。こちらの評には同感する部分多し。あれが友情の終わりだなんて言う人がいる方がびっくりですわ。

以前、友人が「私もう恋愛ドラマは見られなくなっちゃったよ」と言っていたのを思い出す。「なんで?」と聞くと「あの躊躇ったり悩んだりする演技がダメ! 電話をかけようかかけまいか迷ったり、暗い部屋で1人で泣いてみたりさ。一番ダメなのが、切れた電話に向かって『もしもし?…ねえ、切っちゃったの?』とか言うヤツ。ガチャって聞こえたら、切れたのぐらい分かるだろ!って思っちゃうのよねー」と答えられて、「あははーそりゃダメだ」と笑ったものである。確かに私もそうゆう恋愛ドラマはダメだ。切れた電話に「…好き」なんて呟かれた日にゃあ「うひゃー何に向かって演技してるんだこの女は!」と身悶えせずにはいられない。いやドラマだから演技なんだけど。

でも、あまりたくさんはないけど、お気に入りのラブストーリーはある。あ、今対象としてるのはドラマや映画、要するにホントの人間が演じているモノ限定。これが小説やマンガまで広がってしまうと、かなり許容範囲が広がってしまうので。だって現実の人間がやってりゃ恥ずかしい行為でも、マンガの可愛い女のコがやってりゃ愛しく思えてしまうもの。現実の人間が演じていて、ちゃんと楽しめるラブストーリーとそうでないものの差は、私の場合どこだろう。

まず、あんまり恋愛にばっかりかまけている話はダメだ。いや本人がハッピー恋愛ライフを満喫して楽しそうなら、それはそれでOKかも。仲のよいカップルを見るのはキライじゃないし。現実でも。もー好きなだけハッピーオーラを巻き散らかして〜って思う。ただ、もちろんそれじゃドラマにならないからだろうけど、恋愛一直線の人はよく悩む。1日中悩む。人に迷惑をかけるくらい悩む。悩まなくていいコトまで悩む。これがイヤ。好きな人で頭がいっぱいになる気持ちはわからないでもない。ないが、自分の脳内で余計な心配事を作り出してまでウダウダしてられると、アンタ結局悩んでるのが好きなんでしょ? 暇なんじゃん?と思ってしまうのだ。

あと、恋愛の駆け引きの話もダメ。…駆け引き、と言うと違うかな。例えば、他の人に気がある振りをしてワザと嫉妬させて相手の気持ちを確かめる、なんてのがダメ。これは現実でもヤ。相手の気持ちを自分の思うとおりにコントロールしようとしてるみたいで、やらしいと思う。それから、相手のためを思って黙って身を引くってのも、ダメ。これはほとんどの場合、相手のためになってないから。「相手はきっとこう思っている」という物語を自分の中で作ってしまって、ホントに相手が何を考えているのかは知ろうとしていない。「彼にはもっとふさわしい人が…」とか「私とじゃシアワセになれない」とか、1人で勝手に決めるなって感じ。ふむ、こうしてはじくとかなりのラブストーリーがダメになっちゃうワケですな。

マンガは対象外、と書いたくせに、ひかわきょうこさんの『荒野の天使ども』シリーズを例に出す。コメディタッチの西部開拓時代のストーリーで、主人公はミリアムとダグラスって恋人同士。このシリーズにダグラスが殺し屋に狙われる話がある。その対決シーンで殺し屋はつかまえたミリアムにナイフだか銃だかをつきつけて、目の前にいるダグラスに「この女に死なれたくなかったら、自分の喉を自分で掻っ切れ」と迫る。ミリアムはもちろん「そんな要求は聞くな、やめてくれ」と頼むのだけど、それでもダグラスが躊躇しているのを見て、必死になって叫ぶワケです。「ダグラスってば…! あたしの気持ちも考えてよ!」って。私ゃこの台詞が好きでねー。

こうゆう生きるか死ぬかって状況でもないくせに、そういう状況(だと勝手に思い込ん)で、自分の喉を掻っ切っちゃうようなラブストーリーも多いと思う。「愛する人のために自分が我慢すればいいんだ」みたいなの。そりゃ相手を思いやってるんじゃないくて、相手のために耐える私(オレ)に酔っているだけじゃないのか。そうやって相手を想う気持ちが無駄だと言ってるんじゃない。けど、2人の問題なのに、片方が勝手に物語を編み上げているのがガマンできないのだ。現実じゃそう割り切ってばかりもいられないが、作り物の物語の中でくらい気持ちのいい人間関係が見たい。

ラブストーリーに限らず、私はハッピーエンド至上主義だ。感情移入できるようなキャラクターにはシアワセになって欲しい。どんな救いのない話でも、最後に希望を残して欲しい。ほんのちょっとでいいから。人生は思うままにならないのだと突きつけて、それで終わってしまう話でなく、そうゆう中でも人はちゃんと立てるのだ、とゆう話が好き。救いようがない『アメリカンヒストリーX』が好きになれるのも、最後に、ほんの僅かだけど光が見えるから。あのラストシーンの後でも、あのお兄ちゃんは元には戻らないだろう、悲劇は繰り返されないだろう、そうであって欲しい、と思えるから。

…そういや今日はバレンタインデーだった。と、思い出したのは、お昼にお弁当を買いに行ったときに、お店のおばさんに「今日はバレンタインだから」とチョコをもらったから。ホント、ラブストーリーとはほど遠いトコロで生きてるな。ははー。

2002.2.12

ナゼか突然、無性に『恋人たちの予感』が見たくなった。もう10年以上前の映画だけど、妙に好きで何年かに1度は見返したくなる。ちょうどTSUTAYAがレンタル半額をやっていたので、早速借りに行った。吹き替え版以外、ビデオもDVDも全部貸し出し中。あんな古い映画なのに! これもTSUTAYAがレンタル半額なんかやっているからだよ、ばかー!! 自分もそれが目当てで来たんだけど! …でもやっぱり可愛い女のコが幸せになるラブストーリーが見たくて(珍しくも)、恋愛コーナーの棚から適当に2本借りて帰る。ジェニファー・アニストンの『私の愛情の対象』と、メグ・ライアンの『恋におぼれて』。前者は面白くなかった。ジェニファー・アニストンの服も可愛くないので、目にも楽しくない。せっかくキレイな体してるのに。後者はまぁ軽〜く楽しめるかな。TVでやってたら見てもいいレベルで、わざわざビデオを借りる程ではなかったが、メグ・ライアンの目が可愛かったから、まあいいや。

特に用事のない休日。洗濯と掃除を済ませて、1週間ぶり(!)に片付いた部屋でゆったり本を読む。片手にはワイン。(余談だがドラマ『恋ノチカラ』の籐子さんのお酒の飲みっぷりは他人とは思えない。あんな二日酔いはしないけど。)休日としては優雅なハズなのに、全然そう感じないのは部屋が底冷えするせいだ。寒い。「こんなの肌に良くないよぅ絶対!」と思いながらも、ファンヒーターの前にぴったり張り付いて、なのにヒーターの反対側の体は冷えている。ひーん、ちっとも優雅じゃない! おまけに今読んでいる本がぶ厚くて、手が疲れるし。ごろごろと姿勢を変えながら、数時間読書。こんなに続けて本を読めるのは休日くらいだが、さすがにこれだけ続けて読んでいると没頭できる。最近どうも本が読めなくなったのは、こうやってまとまった時間を読書に費やせなくなったからではないのか、と思ってみたり。こりゃ言い訳かしら。

…言い訳かも。没頭するときは例え通勤中の15分と言えども没頭できるもんね。自分が活字離れしてるのかと思うと、ちょっとヤだなぁ。本大好きなのに。

2002.2.10

しつこく続ける。「書き手の責任、読み手の責任」なんてコトを考えるのは、自分の言葉がどこまで通用しているのか分からないせいかも知れない。私が書くのは手紙やメールやこのサイトのテキストくらいだけど、話し言葉も同じだと思う。なかなか意志の疎通ができない相手ってのはいるもんで、そうゆうときは「この人の話って分っかんないんだよなー」とつい思ってしまうのだけど、きっと相手も「To-koの話って全然要領得なくって、何言いたいんだかさっぱり」と思っているんだろう。言っているコトがちゃんと伝わって、それでも好かれないのは仕方ない。けど言いたいコトが伝わっていなかったり、言ってもいないコトを言ったと思われていたり、そうゆうのですれ違っちゃうのは、もったいないと思う。

さて。月末に温泉目当ての1人旅をするコトになり、チャクチャクと用意を進めている。て、宿と足ぐらいしか用意するモノはないのだが。しかし問題はその宿だ。ホテルに泊まるならシングルルームがあるし、観光地にもペンションやら何やらがあるだろう。しかし私の目的は温泉。温泉旅館の1人部屋ってあまり聞かない。「ごめんなさいねー、ウチはお2人からしか受けていないんですよー」だの「お1人さまだと何千円増しになるけど、いいかしら?」だの言われてしまうのだきっと。しかし私は安くあげたい。臨時収入があったとは言え、私の基本は貧乏なのだ。

豪華な温泉旅館も、そりゃまたいい。部屋からの景色がいいとか、温泉が気持ちいいとか、そうゆうのにはとっても惹かれる。でも温泉旅館には普通食事がついている。その旅館の食事は、あんまり気が進まない。もちろん連れがいるならいいのだけど、1人のときは街に出て美味しそうな店を見つける方が好き。どこかに素泊まりできて、温泉ついてる旅館はないだろか。宿に温泉ついてなくても、温泉街にあるなら立ち寄り湯に行くからいいや。…最悪、ビジネスホテルでも…。

そんな風にぼんやり考えながら探していたら、とある旅館のホームページが目についた。素泊まり可で、場所は温泉街の真中。だが写真は玄関部分だけで、中は全然わからない。設備も何も書いてない。メールアドレスさえ書いてない。おい。とりあえず1人で平気かどうか聞いてみようと、電話を入れてみた。「あの、そちらは1人でも泊まれますか?」「あ、1人でもいいですよ、いいんですけどねー」。けど何だ。やっぱ割増料金になるのか? まあ多少なら仕方ないが…。「いつ来られます?」「あ、2月×日でお願いしたいんですが」「大丈夫ですよ。けどねー、えーっと、どちらから?」「東京からです」「東京! あらー東京から来るのー。ええ、大丈夫なんですけどねー」。だから、けど何だ。

私の問いが聞こえたかのように、旅館のおばさんは一気にまくし立てた。「あのね、ウチはね、高台にあって…あんまり建物とかも新しくないのよ。あ、温泉は24時間入ってもらえるのね。それは大丈夫。あとお部屋の暖房代300円頂くんだけど、暖房って言ってもストーブくらいしかなくて。お部屋も新しくないから、女の子に喜んでもらえるような感じじゃないのよー。その、何て言うのかしら。全然ぱっとしたトコロがなくってねー」「………(笑いをこらえている)」「…それでもいいかしら」「はい! もー全然大丈夫です。そうゆうのは気にしませんので」「そうー? じゃあお待ちしてますねー」。

いやぁ、「ぱっとしたトコロがない」のを気にしているのが、何だか可愛らしくって笑えてしまった。これで実際行ってみて多少難があっても、布団さえ湿っていなければ私は許す。1人の割増もナシ。ばっちり狙い通りの旅館を予約できてご満悦です。やっぱり私には旅行の神さまがついている!(行きの指定席券を取れなかったコトはこの際無視。)

2002.2.8

舌の根も乾かないうちに自分の意見を変える変節女To-ko、行きまーす。昨日の日記のまとめ方は、どうも違う気がしてきた。あの書き方だと、明らかに作家側の文章に問題がある場合も「わかる人にはわかる」になっちゃう(森博嗣さんを指して言ってるんじゃありません)。昨日書いた「私が一生持ち得ないであろうセンスや目線を持った人に見えている世界」が存在するのは、間違いないと思う。私にとっては退屈でしかなかった小説に、すごく愛情のこもったレビューがついているのを読んで「うわぁ私って感性が足りないっ」と思うコトも珍しくない。だからと言ってその小説が面白くなるワケではないのだが、しかしそのレビューを書いた人の目を通して、少しだけ新しい視界が開けるときも、ある。

いい例が石牟礼道子さん。彼女の目は鋭くて、私が見逃してしまっている美しいモノも、気付かない優しさも、一つ一つ拾いあげる。見えてしまうからこそ、彼女はそれらが壊れたり傷つけられたりするのに敏感だ。どこまでも優しい彼女の目線を私が持つコトは無いだろう。それでも『草のことづて』『椿の海の記』『天の魚』を読むと、彼女に見えている世界のほんの端っこを覗いた気分になれる。この3冊は何度も読んでいる大事な本だ。しかし、石牟礼さんと私の目線はかなり違うが、だからと言って石牟礼さんの文章が分からないなんてコトはない。彼女の言葉のセンスは抜群で、絶対に私には書けない文章を書くけど、使う言葉は平易で伝えたい内容は明瞭だ。

感性の違いだけでなく、自分がやっていない体験/訪れていない場所/あまり興味のなかった分野などをわかりやすい言葉で語って、新しい世界を見せてくれるような人の文章は、たいてい好きだ。でも言葉が易しければそれでイイってもんでもない。独特の言葉や、難解な文章でしか描き出せない世界もあると思うから。しかしそうゆうのを書く人ってのは、どの程度自分の言葉に自覚的なんだろう。最初から「同じ言葉を話す人」に対象を絞って書いているのか、それともその言葉が万人に通じると信じて疑っていないのか。そして読む側も。「この文章、何が言いたいんだか分かんなーい」ってうちの半分くらいは、ひょっとすると私の側に足りないモノがあるだけなのかも知れない。読解力とか常識とか感受性とか…。その辺が欠けてるのには自信があるし。ホントどこまでが書き手の責任で、どこからが読み手の責任なんだろう。

結末は出ないんだけど、こうゆうの、分かりにくい文章を読んだり、言葉の通じない人と話したりした後でよく考える。…って何だかんだ言っても、結局はぴんとくる本しか読まないし、言葉の通じる人としか付き合えないけどね。だめじゃん。でも受け手としてのキャパは広い方がいいんじゃないかな、とは思っているのだ。ぼんやりと。

2002.2.7

数日前「タイムスリップグリコをお土産に欲しいよぅ」と言ってみたら、律儀にほぼ毎日1個ずつグリコを買ってきてくれる我が妹。もう4つも買ってもらった。ナゼにこうも素直に姉の言うコトを聞くのか不思議である。別に恐怖政治を敷いてるワケではないのだが。だって「ホントは箱を開けないで持ってきて欲しいの」と言うのは遠慮してるもんね。

さて昨日、貸してくれた人に森博嗣さんの本を返した。『すべてがFになる』は面白いとは思わなかったのだが、短編の方はそれなりに読めたので(半分くらいはオチの予測がついたけど)、「まぁ面白かったです」とかなり端折った感想を伝える。しかしやはり正直になるべきであった。たまに無難なコトを言おうとしても、やっぱり上手くいかないモンだ。「でしょ! 初めて森博嗣を読んだときは衝撃的だったね、日本の推理小説もここまできたのかって!」と嬉しそうに言われ、言葉に詰まってしまう。そんなに大したモンなんだろうか。

「…日本の推理小説って、どの辺指してるんです?」「横溝とかー」「ああ、そりゃ…」「赤川次郎とか、あとは西村京太郎とか」「確かにその辺とは違いますよね。なんと言うか、えーっと、変わったセンスしてる人ですよね(←精一杯の湾曲表現)」「そうだよねー。オレこのシリーズ全部持ってるから、また持ってくるね」「えっ…」「あと9冊あるからね、楽しみにしてて」。今更ここで「いいです」とは、私には言えなかった。でもね、ホントは私、横溝の方が断然好きだし、赤川次郎の方が30分で読み飛ばせるから、まだいいのよぅ。ああ変なところで気をつかったばっかりに。

ところで森さんの短編のあとがきは、萩尾望都さんだった。それを読んで「私が森さんの感覚を全然理解できないのは、私の頭に数学が入っていないからなのかも」と初めて気付く。ひょっとして数学的感覚に満ち溢れた人ならば、あの、私にとっては妙な形容詞とか上滑りする描写でしかない文章も、生き生きとした新鮮な情景として像を結ぶのかも知れない。でも多分、その情景は私には決して見るコトができない。数学的センスに限らず、私が一生持ち得ないであろうセンスや目線を持った人に見えている世界を、一度でいいから見てみたいとときどき思う。

2002.2.5

すごく久しぶりに芝居を見に行ってきた。劇団ファントマの『クレオパトラ』。この劇団を見るのは2回目で、最初見たときに「小劇場でしか通用しない芝居」だと感想を書いた覚えがあるが、今回は残念ながらちょっと大きめの劇場を使っていた。ちなみに前述の感想は、決してけなしているワケではない。この劇団は面白い。ただ芝居の種類が違うのだ。観客を巻き込んで一体感を味合わせてくれるような、台詞を噛もうがテンションの高さで押し切るような、そんな芝居。今回の劇場は客席よりも一段高いところに舞台があった。あまり芝居を見ない方や大きな劇場が好きな人はご存知ないかもしれないが、小さな小さな劇場は一番前の客席、桟敷席と同じ高さに舞台がある。ファントマは、見上げるのではなくて、同じ目線で愉しみたい劇団だと、改めて思った。

ここの脚本・演出を手がけ、自らも役者として出演する伊藤えん魔さんのくだらなさって、妙に私のツボにハマる。芝居の途中にえん魔さんが長々と一人芝居をするシーンがあるのだが、そこで彼は観客に声を出すコトを強要する。遊園地のショーで、お姉さんが「さあ、みんな。大きな声で正義の味方を呼びましょう!」とかやる、あの感じだ。私たちは呪文を言わされた。もちろん最初は誰も声を出そうとしない。すると彼は「ここで言ってもらわないと、絶対にこの先には進みません」とご宣託をくだす(←そうゆう口調なのだ)。しかたないので、客は声を出して唱和する。それを「声が小さい」と何度もやらせてから、やっと「ありがとうございました。皆さん、立派な大人です」と締め、客が開放されてホッと気を抜いた瞬間、彼は聞こえるか聞こえないかくらいの声でボソッと呟くのだ。「恥知らずどもめ」と。

その口調! こうゆうのをやるのは難しい。観客を上手くノせられないと寒風が吹きすさび、それをフォローしようとして、どんどん深く墓穴を掘ってゆく。文章だけでは上手く伝えられないのが歯がゆいが、ファントマは関西の劇団のせいか(←関西に対する偏見)、この間合いが抜群に上手い。それと、小劇団ならではの楽しみ、役者の遊び。これも好きだ。例えば台詞を忘れたときのアドリブや、フォロー。これは遊びとは言えないかもしれない。こうゆうハプニングは大舞台でもあるが、大舞台で役者の素がでてしまったら、見ている方は醒めるコトが多い。しかし小劇場だと、うっかり出てしまった役者の素が嬉しかったりもするのだ。台詞に詰まった役者が妙なコトを口走ってしまい、共演者が思わず素で笑っちゃう、とかね。近くで見てて「くそーやったな!」とか「なんてコト言うんだ!」とか「ごめんーでも忘れたんだよー」とか、役者が目で語っているのがわかると、もうおかしくておかしくて。あと、ギャグシーンの前にやたら目がキラキラしてる役者もいて、これも笑ってしまう。

その辺の、表情の細かいトコまで見分けられるのが小劇場の楽しいトコなのだが、これは好みの分かれる部分だろう。そうゆう馴れ合いがイヤな人もいそうだし。でも同じ馴れ合いでも、楽しめるのと楽しめないのがあると私は思う。基準としては「1回目に見にきた人でも笑えるか。ノせられるか」。初めて行った劇団で、「この劇団はおかしいから、今日は笑うためにきたのよーっ」ってノリの常連客が、オチの前で大笑いしてるような雰囲気は、私もあんまり好きじゃない。

ちょっとズレたので、役者の遊びに話を戻そう。これは本筋とはあんまり関係のないシーンで、役者のワンマンショーだったり、何人かのアドリブ合戦だったりする(昨日は千秋楽なのでこの遊びが長かった!)。この遊びが上手い劇団は概して面白い。てかストーリーの流れを一度ぶった切るワケだから、面白くないとやる価値のないものだ。下手すると内輪ウケになってしまうだけ。ファントマはこれも上手い。そうゆうシーンで活躍するのは、えん魔さんであり、看板女優の美津乃あわさんである。

美津乃さんは不思議な迫力を持った役者さんだ。今回はクレオパトラを演じていたが、彼女の顔は、えー、その、絶世の美女とは言いがたいお顔である。もちろん美女しか舞台に立てないワケではない。けど下手な役者さんが美女を演じる場合、顔が良ければ何となくごまかせても、そうでない場合は「えーっ美女って設定なのにー。雰囲気でないよ!」と、最初っから舞台上の世界に入れなかったりしちゃうのだ。美津乃さんは違う。まず登場から「私は美女なのよ!文句があるならかかっておいで!」ってオーラを全身にまとっている。その迫力と貫禄には「その通りあなたがエジプトの女王さまですええもう誰が見てもいえ何も文句はございません」とひれ伏すしかない。あとでパンフレットの写真を見たが、美津乃さんは舞台上の方がずっとずっと美しい。ステキな役者さんなのである。

で、今回気づいたのだが、私はお下劣な女優さんが好きみたい。劇団カムカムミニキーナの藤田記子さんも大好きなのだが、あの人にも美津乃さんにも、恥じらいというモノがない。少なくとも舞台上では。藤田さんはパンツまで見せて大立ち回りを演じていたし、美津乃さんも今回下ネタばっかり連発していた。クレオパトラなのに。それでいて2人ともカラッとしているので、見てて恥ずかしくなるような雰囲気ではない。もちろんキレイな女優さんも好きだ。泣き顔も怒った顔も美しい女優さんにも、見とれてしまう。だけどどっちを取るかと言われれば、美津乃さん藤田さんを迷わずに取る。だって美津乃さんたちは美しい役もできるけど、美しい女優さんたちに美津乃さんたちの芸当ができるとは思えない。

ああ、あと今回は元・劇団ピスタチオの保村大和さんが客演していて嬉しかったとか、彼と劇団の看板男優の浅野彰一さんとはタイプが似ていて、2人とも肉体派のいい男なので2人並ぶと迫力あるとか、殺陣がカッコよかったとか、謎の暗殺集団を率いていた女剣士が立ち回りをするときに、長くまっすぐな黒髪が乱れて色っぽかったとか、主役級と脇役級の役者の力量に差がありすぎるとか、まだいろいろ書きたいコトはあるのだけどキリがないのでこの辺で。興味のある人はぜひ一度見てみてください。あーでもあんまり大きくなって欲しくないのよねー。ジレンマ。……自分のマンガ話もいい加減長いと思ったけど、芝居話も負けてないわ。愛が溢れてタレ流されて醗酵してます。

2002.2.1

自分が音痴であるとゆうコトはもうすでに何回も書いているが、更に加えるなら、私は聞き間違えも多い。要するに耳が悪いのだろうか。聴力テストで引っかかったコトはないから、変換機能が壊れているのかも知れない。ちょっと考えただけでも、旅行先で妹が晴れ上がった空を見上げて「おお! 紺碧の空!」と言ったときに、「え? 完璧な皿?」と返してしまった例が思い浮かぶ。

そんなだから当然、歌詞なんか聞き取れるハズもない。あんまり文脈に関係なく単語が出てくるし、英語になったり日本語になったり忙しいし、早口だったりするし、もう散々である。ずっと昔ある歌を聞いていたら「洋服とナスのステーキ」という歌詞が出てきて、「何でこんな脈絡でナスのステーキが出てくるんだろう…」と不思議に思ったものである。正解は「洋服とダンスのステップ」であった。

さて、私には最近気になっている歌がある。それは某青春ドラマの予告で流れている。私はこの有名ドラマは見ていない。主演をやっている髪の長いおじさんが、好きではないからだ(←たいへん控えめな表現)。だから、多分番組の主題歌であるその歌を、通して聴いたコトはない。ないのだが、私に聞こえる歌詞が正しくないってのは、わかる。なぜなら「毛ガニが〜〜、毛ガニが〜〜♪」という歌が、青春ドラマにふさわしいとは思えないから。「〜〜」の部分にも歌詞はあるのだが、聞き取れない。ああ気になる。毛ガニが一体どうしたと言うのだろう。誰か知っていたら教えてください。

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