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2001.8.11

鴻上尚史さんの『プロパガンダ・デイドリーム』読了。前にも書いたかも知れないけど、鴻上さんは戯曲作家として天才だと思う。もともと戯曲は演じるためのもので、読むためのものではないと思っている。実際に鴻上さんの作品も、舞台で見なくちゃその本質は伝わらない。いや、伝わるかもしれないが、色あせる。今回の話も、舞台を見ていたから頭の中で舞台を再構築しながら読んだ。だから純粋な観客であったときと比べてもちろん、のめり込み方は浅い。それでもラストの

どうして、私は小説を書いたのか。今なら分かります。私はただ、人間を信用したかったのだと思います。あらゆる暗号を出し続け、離れ離れになった人々の心の奥底に触れ、その反応を見たかった。−鴻上尚史『プロパガンダ・デイドリーム』−

にたどり着いたとき不意に涙が溢れそうになって、外だったので押さえるのが大変だった。面白い脚本を書く人は他にいくらもいるし、きれいな舞台を作る人もたくさんいるが、鴻上さんのような方法で観客の感情を揺り動かす物語を書く人を、私は他に知らない。7,000円以上のチケット代を払っても損はしないだろうと安心できる脚本家には、他に三谷幸喜さんがいる。だけど三谷さんの作品は非常にわかりやすいものだ。どちらがいいと言うのではない。三谷さんの才能もスゴイと思し、簡単に真似できるものではない。だが三谷さんの話は、面白いシーンで笑わせ、怖いシーンで怖がらせるという、とってもストレートなものだ。それが普通だと思う。だけど鴻上さんは違う。

鴻上さんの作る芝居を見るのは、どこに行くかわからないジェットコースターに乗っているようなものだ。スピードに興奮し見える景色に見惚れているうちに、いつの間にか見知らぬ、でもどこか良く知っている場所に連れて行かれる感じ。普通芝居を見たあとは「あの役者さんが良かった、あのシーンは面白かった」って感想になる。鴻上さんのを見たあとは、芝居とは関係のない自分自身の体験を語りたくなる。彼が揺り動かすのは、どうしようもなく寂しいとか、ワケもなく泣きたくて仕方ないとか、怒りとか、もどかしさとか、そんなときのホントに嬉しかった誰かの一言とか、かすかに見える光とか、そんなはっきり語れない、でも覚えのある感情だ。そういった感情を持った瞬間を語りたくなる。

鴻上さんがどうやって物語を作るのか、私は知らない。見当もつかない。最後の台詞がすとんと心に届くように、彼は物語を紡いでゆく。その模様は複雑で、できあがるまでは何が紡がれているのかちっともわからない。でもできあがってみれば、そこには誰もが…少なくとも多くの人が知っている何かがある。彼を支持する多くの人が私と同じような感情を持っているかどうかはわからない。でも少なくとも私にとって、彼は天才だ。彼の作る芝居に出会ってからずっと、その感覚は揺るがない。

さて、しばらく留守にします。田舎でまた父に運転を強要されてきます。時間が余ったら、この間から読み返したかった坂田靖子さんの『バジル氏の優雅な生活』にハマる予定です。戻りは16日になりますので、しばしのお別れ。ごきげんよう。

2001.8.9

セガミさんの日記(8/7)を読んでまたまたマンガ話。好きだなー私も。

少女マンガにありがちなストーリーに「人気者の男のコに憧れる、ぐずでちょっとおばかだけど心優しい女のコ。でも彼には頭もよく美人でお似合いの彼女がいる。うじうじ。だけど全部勘違いで、彼は目立たない女のコの優しいところをちゃーんと見ていてくれたの。いきなり憧れの彼に告白されて、きゃあ幸せ」ってのがある。うわあ書いてて恥ずかしい。今どきそんな分かりやすいストーリーはない? いや、枝葉末節を取り払えば結局それしか残らない作品は、今でもちゃんとまかり通っている。悪いというのではない。マンガはその枝葉末節の部分が大事なんだと思うし、たった一点が納得できさえすれば、私はその物語を受け入れる。その一点とは「人気者の男のコが冴えない女のコを好きになる理由」である。

例えば、大人しくて自分の意見もちゃんと言えなくて人に何か言われるとすぐはいはいときいてしまう女のコ。これを「優しい」と、私は思わない。もちろんそのタイプの中に優しいコがいないと言っているワケではない。人を思いやって無理な頼みをついきいてしまうコもいるだろう。しかし中には、ただただ人に逆らえないだけで、内心では恨みつらみが渦巻き家に帰れば呪いの人形を持ち出すコもいるかもしれない。彼女が何を考えているのか、何をしたいのか、そして相手役の男のコはどこで彼女の良さに気付いたのか、その辺を無視して「人の頼みを聞いているから、優しいコ」で好き、と言われても納得するのは難しい。

要するに、「ぐずで何の取柄もない女のコ」が実際に何の取柄もない女のコなのか、それとも自分でそう思い込んでいるだけで実はちゃんと美点があるのか、そこをきちんと描いてくれなきゃイヤなのだ。私は、これもまた逆の黄金パターンではあるのだけれど、つい強がってしまう不器用なコとか自分の行きたい方向にしゃにむに突き進むコの方が好みなので、ホントに「取柄のないコ」がヒロインだとライバルの美人に味方したくなってしまう。何で選り取り見取りの男のコが、あえて「な〜んもいいところがないコ」を選ぶのさ。結局は冴えてる方の彼女を相手にするだけの度量がなくて、自分がコントロールしやすい女を選んだだけなんじゃないの?…とイジワルの一つも言いたくなってしまう。

そこらが上手いと思うのは、ひかわきょうこさん。彼女の作品はいかにも少女マンガらしい少女マンガが多く、特に昔の作品は「ぐずな女のコと、そのコを見守るちょっと不器用な、でもカッコいい男のコ」のパターンばかりなのだけど、私はそのぐずな女のコたちが大好きなのだ。可愛いと思う。彼女のと下手なマンガ作品との差は、どこにあるのかはっきりわからないくらい微妙な差なんだけど、それこそが印象を左右するのだと私は思う。どこにそうゆう差を感じるかは個人差があるだろうが、その微妙な差がわからない、感じない人とは、話が通じないような気がする。(←マンガ読む人限定で)

『ラブひな』って読んでないんだけど、セガミさんの書きっぷりからして、上に書いた「少女マンガ黄金パターン失敗版」の性別逆バージョンなのかな、と思って書いてみました。

2001.8.8

またもやお知らせ。というよりお詫び。途切れていた間のメールが旧アドレスに一気に届きました。ですので、一昨日お願いしたメールの再送は必要ないです。6日付けのメールが先に届いていたから、てっきり途中のは無くなってしまったのだと思ったのに、どういう仕組みになっているんでしょ。とにかくお騒がせして申し訳ありませんでした。

さて。日記を書き始めてから半年になるが、あまり自分の失敗談ばかり書くのは気がひける。自分が聡明であるなぞと自惚れてはいないにしろ、それほど頭が悪くもないんじゃないかと自負している身としては「あたしってバカだしぃー」的なにおいのする文章を書き綴るのは本意ではない。本意ではないが。

C.S.ルイスのナルニア国物語の、たしか『朝びらき丸 東の海へ』だったと思う。とある島に住む魔法使いが、召使たちの愚かさを並べ立て「彼らは食後に楽をするためだと言って、食事前に皿洗いをしようとする」と文句を言う場面がある。私も似たようなコトを考えてしまうときがある。自室で何か作業をしていて待ち時間ができたときに「あ、今のうちに布団を敷いておこうかな」とか。しかし私の部屋は狭いので、作業が終わらない限り布団を敷くのはムリなのだ。だから一瞬後に「ダメじゃん」と自分でつっこまねばならない。あるいはサラダを作るときに、一度火を通さなくちゃいけない野菜をゆでようとお湯が沸くのを待っていて「あ、この待ち時間にに冷やしとけば」と考えてしまったり。だから火を通してからじゃないと冷やせないんだってば!

今、仕事で山のような写真やスライドをスキャニングする作業をしている。単純作業だが、写っているのは植物なので数字とにらめっこしているよりは面白い。プラタナスの並木や桜の蕾やバラの花壇や、それに名も知らない草花の数々。モミジだけでも枝についているところ、散っているところ、地面に敷きつめられたところ…いろんなパターンがある。中に、モミジをアップで、葉の裏側から撮っているスライドがあった。スライドなのでモニタに画像が出てくるまで、何が写っているのか分からない。それが楽しい。そのモミジ葉の裏側の絵がモニタいっぱいに現れた直後、私はセットしてあったスライドホルダを外して確かめ、黙って元通りにセットしなおした。

スライドの裏表を逆にセットしちゃった(本来はモミジ葉の表側が写ってた)のではないか、と考えてしまったとは誰にも言えない、と思った。

2001.8.7

うーむ。マンガ話を書こうと思ったのに、ちっともまとまらない。少年マンガにも好きなのはあるし、少女マンガでも受け入れられないのもあるし、この「読める・読めない」の差はどこにあるんだろ。「こんな女(男)いるか!」ってキャラクターでも、作品によっては受け入れちゃうしなぁ。私がダメなのは“世界観がわからない話”と“登場人物の誰にも感情移入できない話”。作品世界のルールが現実のと違うぶんには、全然気になりません。以前「ファンタジーなんて絶対にありえない話だから読む気にならない」と言っていたファンタジー嫌いと話したコトがあるんだけど、こうゆう感覚は私にはない。だってそんなコト言ったらスパイ物も探偵物も恋愛物も、どこまでならありえるの? 特にSFなんかどうなるんだろ。起こりえる話として受け入れられるのかなぁ。でもそれなら、宇宙で他の知的生命体に会う話は? それが竜や妖精の形をしていたら? 現実世界を舞台にしていようが、結局どれも作り話じゃない? ある意味全部ファンタジー。

でも私も、フィクションだから何でもいいってワケではないので、要はどこまでなら許せるかって個人差の話になる。そしてそれは慣れの部分が大きいのかも。例えば「学園の王子様」までは私は許せる。日本人なのに金髪で1年生なのに生徒会長で中学生なのに長髪でお金持ちで白い邸宅に住んでいて執事が送り迎えをしていて全校の女子の憧れの的で頭が良くて優しくてスポーツ万能で…も受け入れられる。まあ年齢相応に「めちゃくちゃ魅力的な青年実業家」とかでもいいけど、とにかくそれを許せるのは「こんな男が現実にいたらいいなー」的な憧れではなくて、「この世界ではこのタイプがカッコいいって約束になっている」という認識ができればそれでいいからだ。自分が「カッコいい」と思う必要はない。そしてその王子様の心情が理解不可能ではなく共感できるものなら、たとえどんなに現実にはありえないキャラクターでも「いい話だなー」になるだろう。しかしたいてい、このタイプの王子様は何を考えてるのかわからないので、そうならない場合の方が多いのだが。

ひーん。話がどんどんズレまくってしまって、もうどう修正していいんだか。ヒロタシさんの日記(8/4)に呼応して書きたかったのに、全然ポイントの違う話になっちゃった。えーっと男性向けのエロマンガも理解不可能だけど、女性の描いているレディースコミックも何がいいんだか全然わかりません。それらと比べたら(比べるな?)少年マンガには理解できる作品があります。少女マンガに関しては、多少不自然な点があっても“慣れ”で「これはそうゆうモノ」と受け入れやすくなっているのかもしれません。あと「目をつぶっていることを自覚」していると言うよりは、「見ているものがイリュージョンであると自覚」していると言った方が私の感覚には近いかなー、と。上手いイリュージョンには見入ってしまいますし「キレイだったな、良かったな」って感覚も残りますが、現実ではありません。当たり前。関係ありませんが、今読んでみたいのは『愛と誠』です。あれって何マンガ?

2001.8.6

まずお知らせ。メールアドレスを変えました。以前から使っていた無料のアドレスにはいろいろ文句がたまっていたのですけど、今月に入ってから何日かぷっつりメールが途絶え、それについての障害報告も何もありません。昨日から届くようにはなりましたが、何通かは行方不明になったようですし、もう見限るコトにしました。新しいメールアドレスはpurax2s@adam.ne.jpになります。もしアドレス帳に前のアドレスを乗せている方がいらっしゃいましたら、変更をお願いします。それから8/1から5日の間に私にメールをくださった方。お手数かけて申し訳ありませんが、再送していただけると嬉しいです。

日曜日に『千と千尋の神隠し』を見に行ってきました。いやーすごい人出。さすがに夏休みです。最後の回だったので予想通り子連れは少なかったですが、その代わりの客は山ほどいました。1時間半以上前に映画館に行ったのに「今すぐ並ばないと座れなくなります」と脅され、クーラーのききすぎた寒い階段で立ちん坊です。腰が痛くなりました。これで立ち見だと耐えられそうもなかったので「もう場所を選ばずに座ろうね!」と入ってすぐに前寄りの席を確保。始まってから気付いたのですけど、前の席って仰向き加減で見るコトになるのですね。終わったら首の後ろが痛くなっていました。

内容? 面白かったです! 見ている最中は首が痛いのなんか全然気がつかないくらい、夢中になって見入ってしまいました。かなりいろいろと曖昧なまま説明もなく終わってますけど、ああいう世界の話はそれでいいんじゃないのかなー。境目にある世界に関しては、すべてを理路整然と説明しちゃいけない気がします。宮崎アニメはあの、森の奥の世界が好き。全部は見てないのだけど、ナウシカにもラピュタにももののけ姫にも出てきましたよね。現実の森でも奥深くにはどこか違う世界に通じていそうな場所があって、そういう場所は怖いけど心惹かれます。映画館を出たあとアジア料理の店で食事をしたのですが、偶然その店構えがちょっとトンネルの向こうの世界を思わせる感じで、扉を開けるのに一瞬躊躇してしまいました。

私は映画によく出てくる“やたら説明を求める女”がキライです。ほら、よくいるでしょ? パニック映画とかで助かるために何かしなくちゃいけないときに「どうしてなのよ! 何が起こっているの? あれはいったい何なの? 誰々はどこにいったの? どうする気なの?」と叫ぶだけで何の役にも立たずに殺されちゃったり、他の人の足を引っ張る女。それを見るたび「いいから黙って言われたとおりにしなよー、今は説明してる暇なんかないんだよ」とイライラするのです。でもそれは外からの視点で冷静に見ているから言えるコトで、もしもそういう場面に居合わせてしまったら、そのイヤな女になっちゃいそうな気がします。「理由がわからないのにできないよ!」とか言っちゃいそう。いや『千と千尋〜』でとっても素直な千尋ちゃんを見ていて思ったのですが。しかしあの両親にはちょっと問題があるんじゃないかと心配になります。2人とも人の話聞かないし。がんばれよー千尋。

ヒロタシさんちあきさんのところのマンガ話を受けてなにか書きたいのですが、長くなってしまったのでまた今度。

2001.8.3

『回復!スパスパ人間学』を見ていて思い出した。私にもあったなぁ、身長コンプレックス。

私は小学生のときはそう飛びぬけてデカくはなかったのに、中学に入ったらにょきにょき身長が伸びだして、あっという間にクラスで一番の大女になってしまった。一番伸びたのは中学1年のときで、1年間に13cmも伸びたのだ。男の子は高校生くらいで伸びる子が多いから、ほとんどが私よりも低かった。体育の授業でフォークダンスをすれば、たいてい男の子の役をさせられた。男子の方が人数少なかったから。その頃に仲良くしていた女の子は小柄な可愛らしい子で、彼女と並んで歩くとき、私はいつも猫背になった。自分の身長がほんとにイヤだった。どんな点でも、皆と同じようでありたかった。

それがなくなったのは、高校生のときにジャズダンスを習い始めたからだ。そこの先生は全国レベルの技術はもっていたのに(何かの賞を取っていた)、小柄なせいですごく損をしていた。だから、私が初めてクラスに参加したとき「背が高くていいねー、俺の身長がそれだけあったら人生変わってたよ!」と羨ましそうに言った。レッスンでも「せっかくの長い手足を使わなくちゃもったいない」と何度も何度も言ってくれた。そこでは“背が高い=カッコいい”で、照れくさかったけどすごく嬉しかった。猫背は何度も注意されているうちに、いつの間にか直ってくれた。

高校時代につるんでいた子たちも身長の低い子が多かった。てか彼女たちが平均で、私がデカかった。だけどだんだん気にならなくなった。今だって私の身長は高いし、ヒールを履けば見下ろすコトになる男性も多い。…履かなくても、かな。小柄な女の子への憧れはまだあるけど、背が高いのにもお得な点はある。高いところのものが取れるし、満員電車でも空気が吸えるし、待ち合わせのときにすぐに見つかって便利だし。マイナス面は既製服がめったに合わないコトくらいしか思いつかない。可愛げはないけど、まあそれは身長のせいではないだろう。

コンプレックスがなくなるってのは、とっても楽だ。身長が高いなんて自分ではどうしようもないコトで、それにコンプレックスをもっていたら救われないだけ。頭ではわかっていても、そう簡単になくなってはくれないけど。でも背の低い女の子が「せめてあと5cm欲しかったー」とか言うのはよく聞くし、小柄な子にもそれなりにコンプレックスがあるらしい。お互いに無いものねだりをしているのだろう。私には他にもいろんなコンプレックスがあったし、あるけど、その数は少しずつ少なくなっているような気がする。そして「そんなの気にするコトないじゃん」と思えるようになるたびに、少しずつ少しずつ楽になってゆく。

あまりにも気にしなさぎるのではないか、と、最近ちょっと気にしてる。

2001.8.2-2

寝不足で頭が痛い。TUTAYAがレンタル半額クーポンなんかやってるからだ。それで調子にのって5本も借りてくる私のせいだ。その中で昨日見たのは、延々5時間にも及ぶ2本組の『白虎隊』。1986年に日テレで年末スペシャルとして放映されたものだ。ご記憶の方はいるだろうか。何で今ごろそんなのを見たかというと、この間の連休に会津に行った同僚との話の流れで、この『白虎隊』が出てきたせい。会津に行った彼女は私と同じ年で、私と同じようにこのドラマをリアルタイムで見たらしい。ところがもう一人のお弁当仲間はこれを知らなかった。21歳だから当然だ。当時6歳だもんな。そこで2人でこのドラマについて説明しているうちに、また見たくなってしまったのである。

なんせこれを見たのは多感な15歳。ぼろぼろ泣きながら見たこのドラマの印象は強かった。「お城が…俺たちのお城が燃えている!」の白虎隊自刃のシーンも、「あなたは…お味方ですか、敵ですか…」の西郷頼母一族自決のシーンもはっきり覚えていた。再現してやってみろと言われればできるほどに。しかしそれから時は流れ、わたくしも大人になった。同じドラマを見ていても「この沖田総司はスカしてていやな感じだ」とか「お城がちゃちい」とか「なんだこの唐突なBGMは」とか「無粋なナレーションを土方さんにつけるな!」とか「この時代にこの台詞はないだろう」とか「方言が嘘っぽい」とか「西田敏行の顔が締まっている」とか、頭にいろんな雑音が入ってくる。「会津の武士は嘘は言わん!」なんてストレートな台詞には、うぷぷっとなってしまう。もうさすがに泣けない。

………ハズであった。実際は、冒頭で会津藩校の子供たちが「せんせーいっ!」と駆け寄ってくるシーンで、もう胸が詰まっていた。この子たちが7年後には死んでしまうのだと思ったらもうダメ。思えば映画『タイタニック』でも一番泣いたのは実際の沈没のシーンではなく、オープニングで船客たちがその後の命運も知らずに、楽しげにテープを投げたりハンカチを振っているシーンだった。その先に皆死んでいくのがわかっている話はダメなのだ私は。私には判官びいきの気があるし、このドラマはもろ会津よりに作ってあるから、官軍の鏡獅子たちが憎らしくなってくる。井上丘隅役の森繁久彌はどうでもいいのだが。途中ぼろぼろになったくせに最後は出張ってくるしさ。ええ、飯盛山のシーンも頼母邸のシーンも泣きましたとも。ぼろぼろと。

しかし当時も思ったのだけど、雪子さまは結局何がしたかったのか、ちっともわかりません。あと切腹の作法で、三方を腰の下に置くのにどんな意味があるんだろうと思いました。倒れたときに頭をぶつけたらカッコ悪いからなのかな、とか。今調べたら、のけぞってしまうのを防ぐためらしいです。なるほど。今回一番困ったのは、主題歌を堀内孝雄が歌っているのですけど、この曲がかかるたびに幻の「サンキューっ!!」が聞こえてしまうコトでした。どんないいシーンも台無しだってば。

2001.8.2

続きです。カウンセリングによって悪魔崇拝の儀式やらカルト教団の存在を思い出してしまうところが、これまたぴんとこない。その記憶が偽だとしても、そういう集団の存在が彼女たちにとってリアルでなければ記憶を蘇らせる(or植えつける)のは難しいと思う。悪魔教がリアルなのは、彼女らの国がキリスト教の国だからってのは間違っているだろうか。聖書にもキリストを誑かそうとする悪魔が出てくるし、神を強く信じれば信じるほど、悪魔の存在もリアルになってくる気がする。一口にキリスト教と言ってもわりと融通のきく教義から、がちがちの原理主義までいろんな宗派(と呼んでいいのかな)があるのだろう。だから全てには当てはまらないかも知れないが、私には唯一絶対の、常に清く、常に正しい神ってのはどうも胡散臭く思えてしまうのだ。

もちろんキリスト教に限る話ではないし、人の信じる宗教をどうこう言う気もない。私に押し付けさえしなければ誰がどんな宗教を持とうが自由だ。私はどんな信仰ももっていないが、「絶対の善」とか「絶対の悪」なんてものは、まずないってコトは信じている。例え神であろうと。だからもう少し弱点のある神さまの方に親近感を覚える。浮気や嫉妬をくり返すオリンポスの神々とか、日本の神々とか。道祖神とか貧乏神とか。いろんな神さまのごった煮が楽しくていい。たった一つの“正しい道”しかなくて、そこを外れたら地獄落ちなんてのはすごくツマラナイと思う。原罪なんて以ての外。

特定の宗教を信じていない。とは言っても、じゃあ何にもないのかと訊かれれば、それも違う。すごくすごく曖昧な話で、言葉にしてしまえば何かが違うような気もするのだけれど、私にも信じているものがあると思う。それは悪行に罰を与え、正しい方へ教え導いてくれる神ではない。形のあるものではなく、個体でもない。エネルギーだとか“大いなる意思”だとかと呼ぶのもまた違う気がする。誰の中にも何の中にもあって、でも混ざりあっていて、何をしてくれるでもない“何か”。そう、何かしてくれる神さまは別にいらないのだ。それを感じるコトができれば、もっと優しい私になれるのかもしれない“何か”。…って、ただの願望なんだけどさ。そういう“何か”があればいいなぁと。“信じる”って言葉もまた違うかな。

こうゆう“なんとなく”感じている、信じている、願っているコトを言葉にするのはホント難しい。てか無理。「話せばわかる」という言葉の力は信じているけど、信じたいと思っているけど、でも言葉では語れないものもあると思う。それとも私の言葉の使い方が下手なのかな。とにかく私の信じているのはひどくぼんやりとしたもので、それを私はひどくぼんやりとしたやり方で考えている。……なんだか、ずいぶん話がずれてしまったわ。へへ。

2001.8.1

うげ。今日買ってきたワインがげろマズです。最近のは安くてもけっこう飲めるのが多いと思って侮っていました。悪酔いしそうですが、嬉しいコトに(?)一気にたくさんは飲めそうもない味でもあります。どうするよ、これ。料理用ワインにでもするか。ってそのうち飲んじゃうんでしょうが。血液検査の結果で肝臓機能に異常なしだったので調子のってます。

最近、カウンセリングによって過去の虐待を思い出してしまう人たちについての本を読んでいた。アメリカでの話だが、他の国にもあるのかも知れない。読んだのは2冊で、どちらも「その記憶は本物なのか?」という疑いを持った視点から書いたもの。人によっては悪魔崇拝の儀式で生贄を捧げたとか、そういった記憶までも掘り起こしてしまう。だが実際に客観的な証拠は何一つない。そういった記憶を信じる側も決して少数派ではないらしく、そちら側の本を読んだらまた何か違うのかも知れないがどうも読む気になれない。だからこれから書くのは、懐疑派の人たちが書いたものに基づくものだ。一方的で申し訳ないが。

以前「あなたにはわからない」と言われるのはツライと書いたけど、もしこういった体験をした人がいて、理解を求めて一生懸命話してくれたとしても「わからない」かもしれない、と思う。彼女たちの回復した記憶が本物なのかどうか、私にはわからない。ただ本を読む限りでは、誘導されたり、自分の中のマイナス部分に引っ張られて、偽の記憶を回復してしまう人も混じっているのではないかと思える。でもそれをおいておいてもわからないのは、記憶を回復することによって何かいい展開はあるのかってコトだ。自分の問題がどこにあるのか自覚して、そこにきちんと向き合ってこそ癒せるって考えは分かる。ただ本に出てくる人たちはどの人もいい方に向かっているようには思えない。そういう人ばかりを取り上げているのだと言われれば、その通り。きっとカウンセリングによって助かる人もいるのだろうとは思う。でも…うーん、やっぱりよくわからない。

私は小さい頃、両親が妹の方を可愛がっていると思っていた。中学生のときにはイジメられっこだった。今は正規の仕事には就かず、派遣でいろんな会社を渡り歩いている。友人も少ない。結婚もしていない。恋愛経験も乏しい。カウンセラーにもいろいろあるのだろうけど、もしもこんな状況を気にやんで訪ねていったカウンセラーが「あなたの状況は全て子供時代に原因があります。誰かから性的虐待を受けた人の典型的な症状です」と言ったら、どうだろう。もしももしも過去に何かがあったとして(そんな記憶はこれっぽちもありません、念のため)、それは思い出さなきゃいけないんだろうか。今の両親とのすごく上手くいっている関係を壊してまで、私は自分のフシアワセの原因を(フシアワセじゃありません、念のため)両親に求めなくちゃいけないんだろうか。

「あなたが今両親と上手くやっているから、そんなコトが言えるんだ」と反論する人もいるかも知れない。でも、虐待の記憶を回復した人たちの中にはカウンセリングにかかるまで親と仲良くやっていた人たちだっているのだ。自分にちっとも覚えのないコトでいきなり娘から告訴されて途方にくれている親も多いらしい。本を読んでの印象だけど、カウンセラーによっては「娘がイヤがるのに裸で歩く」とか「お風呂にいっしょに入る」のも性的虐待と見なすらしい。もちろんシチュエーションによってはそういう場合もあるだろう。が、それだけを言い立てればたくさんの悪気はないけど娘心のわからないお父さん、お母さんは虐待の罪を問われちゃうのではないかと思う。子供のころってクダラナイことを気にするもんだし。

うーん、どれもこれも「あなたはそういう目にあってないからわからないのよ!」と言われてしまえばお終いなんだけど。またまた念のため言っておけば「親による性的虐待なんか存在しない」と言っているワケじゃないです。私も、私の読んだ本の作者たちも。ああ何かやりきれない気分です。どうしよう。今度は思い切りほんわかシアワセな本でも読みましょか。でももうちょっと書きたいコトがあるので、もう少し続けます。今日は疲れたのでまた明日にでも。辛気くさくてごめんなさい。

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