連休初日の今日は父の百ヶ日法要&納骨で、親戚たちと連れ立って千葉の霊園まで行ってきました。空はちょっとどんよりですが、なんとか午後まではもってくれそうな雰囲気。「同じでいいかな?」「違うのにすると中で、どっちが旨かったかケンカするかもよ」というコトで、母のときと同じ銘柄の焼酎をお骨にどぼどぼかけて、お墓に納めてもらいました。父は母に会えて大喜びだろうけど、母には「来るのが早すぎ」と説教の一つもしてもらいたいトコロです(←人のコトは言えないか)。
父は例外だったのですが、父方の親族は、かなり信心深い人たちです。お寺の行事や先祖供養に熱心なのはもちろん、皆、いくつかのお経をそらで唱えられるのです。おまけに伯父たちは声がいいものだから、檀家となっているお寺での法要なんかがあろうものなら、寺の中にお坊さんの声だけでなく、伯父さんたちの声まで響きます。今日は石屋さんに紹介してもらったお坊さんだったので、もちろん伯父さんたちとは初対面。自分がお経を上げだしたら、皆が唱和しだしたのでちょっとビックリしたらしく、法要のあとで「どこのお寺ですか」と聞いてきました。「皆さんの声で、とてもやりやすかったです」とも言っていたけど、いやいやホントはやりづらかったんじゃないのー? 間違ってもゴマかし利かなさそうですもんね。
法要後、伯父の家近くまで皆で戻ってからは食事会です。一周忌をどうするか、という話をしていたら「その前に新盆だ!」と伯父から指摘がありました。ウチはホントに宗教的な行事をしない家だったし、父母がして欲しがっているとは思わないんだけれど、こうゆうのは生きている人のためのもの(と、私は思っています)。私がやらないコトで伯父たちを不快にさせるつもりはないので、最低限のコトはやるつもりです。
母方の親戚もあまり行事をしないので(宗派が違うからか、はたまた家風かは謎)、父方と別れた帰り道で「あんたも大変ね〜」と同情されました。ううん、こんなのはちっとも大変じゃない。父母が遺した田舎の家が、今おかれている状況のほうが、よっぽど大変。ホント、父母に相談できるものならしたいです。お盆になんとか頑張って根性いれて、帰ってきてくれないかな。そのためなら提灯くらい下げるわよ。
アースディ東京2011の、エネルギーシフトパレードに参加してきました。アースディのお祭りそのものが目的で出かけたコトは一度も無いのに、自転車イベントに参加したりホーボージュンさんのトークショー聞きに行ったりで、気付くと今日が3回目。ナゼか縁がありますねぇ。原宿駅から会場に向けてぷらぷら歩いていくと、代々木公園の新緑が目に飛び込んできます。このところ何を見ても気分が動かなかったけど、久しぶりに(ああ、キレイだなあ〜)と感じるコトができました。
ケヤキ並木を中心にたくさんの店が出て、かなりの人で賑わっています。ちょっと早くついたので、私も少し見て回りました。アウトドアや自然食、環境保護のテントのほかに、今回はやはり震災関連のも多く並んでいて、避難地域に置き去りにされたペットの救援を訴えたり、日帰りバスでのボランティア参加を呼びかけたりしていました。G.W.が近いコトもあり、ボランティアの説明を熱心に聞いている人が多かったです。
時間のちょっと前に野外ステージに向かいました。まずはエネルギーシフト(原発から再生可能エネルギーへ)に向けて、田中優さんやC.W.ニコルさんはじめ、何人もの人がスピーチに立ちます。一生懸命メモを取りながら話を聞いている人もいて、ああ、皆、情報に飢えているんだなあ〜という感じ。1時間ほど話を聞いて、いよいよデモ……じゃなかった、パレードに出発です。出発地点への移動を誘導してくれる人たちの中にホーボージュンさんがいて、ちょっと嬉しくなりました。
今回は「同じようなアピールをしたい人たちでグループ作って歩きましょう」だったので、私は菜の花を持って歩きます。3番目ぐらいの出発だったのに、待ち時間がかなり長くて、出発する前から日射病になりそう。歩き始めてからのほうが楽なくらいです。歌でも歌いながら歩きましょう、とか言われてたんだけど、先導する人の声があまり聞こえなくて、いつの間にか私のすぐ後ろを歩いていた人たちが歌の先導をするようになって、コースの途中ぐらいからナゼか『僕らはみんな生きている』の大合唱。
……いやホント、そうやって場を盛り上げてくれる人がいるのはありがたいんですけど。まるで壊れたレコードのように(←って比喩はまだ通じるんだろうか)「みんなみんな、生きているんだ友達なーんーだー」で一息つく間もなく「ぼーくらはみんな♪」と始まるので、かなりキツかったです。代々木公園から渋谷の駅まで歩き、また代々木公園まで戻ってくるコースで、ゴールでは先に着いたグループや他の参加者たちが、拍手で迎えてくれました。その後私もしばらく、残りのグループを迎えて過ごしました。
なんとかしたい、少しでも声を上げていきたい、と思っている人たちに触れるとホッとします。
なんでライトノベルってシリーズものが多いんだろう。なんで最初のうちは面白いと思えても、だんだんイヤな部分が鼻についてくるんだろう。なんでそれなのに、私は次々とラノベのシリーズに手を出してしまうんだろう……。
小学校〜高校時代に、数多くのラノベ(と、あの頃は呼んでなかったと思うけど)を読みふけった思い出のせいかしら。なのに、ここ数年、ラノベに対して前述のような感想を抱いてしまうのは、私の頭が固くなって軽さを楽しめなくなったから?(いやいやいや、それは無いぞ!) たまたま当たりのラノベに出逢えてないから?(あえて「ラノベの質が落ちたから?」とは言わないぞ!)
というワケでナゼかは分からずながら、懲りずに今度は支倉凍砂の『狼と香辛料』に手を出してしまいました。評判もよいそうで、既に16巻まで出ているんだけど……今まで読んだのも、けっこうそうなんだよな。今度こそ、外れませんように。1巻目読んでの感想としては、まず、ウケ狙いのキャラが出てこないところが好印象です。ま、猫耳少女(狼耳か)がヒロインなんだけど、そこは正体が賢狼って設定なので気になりません。
あ、口調が廓言葉っぽいのは、あんま好きじゃない。他の登場人物から際立たせたかっただけかもだけど、廓言葉にはすでにもう一定のイメージが付き纏っちゃいますもん。これを日常に使っちゃうってのはちょと違和感です。あとね、1巻目から大風呂敷広げて(ああ、シリーズ化狙ってるんだなあ)と透けて見えちゃうストーリー展開じゃないのも、○。なので続きを読んでみます。何巻まで好きでいられるかな、と考えちゃうのが悲しいんだけど。
今月頭に帰ったときには家を見るだけで精一杯だったので、今度は相続等の手続きをしに東北の街まで行ってきました。3月にやる予定だった手続きが、震災で今まで延び延びになってしまっていたのです。休みを取っての日帰りだから、今回は田舎の家には寄らず、役所のある街中だけ。ですので車ではなく、運行が再開された高速バスを使うコトにしました。いつもは事前予約ができるバスですが、今は震災の影響で、着いた順にバスに乗せるシステムになっていました。
この状況で東北に向かう人は少ないだろう、という予測のもと出発バス停まで行くと、地元行きのバス乗り場にだけ、長い長い行列ができています。……えっ? 慌てて近くのチケットセンターに走ります。席を取ろうとすると「回数券を持っているなら、バス停で並んでください」。……えっ? またバス停まで走って戻り、列の後ろについて、乗れるかどうかドキドキドキ……。いや30分待てば次のバスはあるんですけど、道の様子がわからないからなるべく早く行きたいんですもん。
最後のほうではあったものの、なんとかバスには乗れ、後はとろとろ寝てるだけで田舎に着きます。バスは混んでいたけど、道はまだ空いているようでした。時間どおりに地元の街に到着し、後は市役所行って法務局行って……。市役所は地震の影響で使えなくなっているらしく、近くの建物に臨時窓口が作られていて、手続きをする人の行列ができていました。なんか、転出の手続きしてる人が目について、この街も人が少なくなってしまうのかなぁ、と寂しくなります。法務局では、待ち時間に後ろのおばあちゃんが「隣の○○さんが流されて……」と話していて、ああこの辺りでは身近な現実なんだ、と改めて痛感しちゃいました。分かっているようで、でもやっぱり分かってないんだきっと。
街中には、こないだと比べれば人が戻ってきたようです。でも前回は車で素通りしちゃったから気付かなかったけど、街中でもけっこう被害はありますね……。市役所が使えなくなっているコトからも分かるとおり、建物の土台が浮き上がっていたり、ヒビが入っていたりが目立ちました。手続きが思ったよりもずっと早く済んだので、お昼を一緒にと約束していた春日ちゃんを駅ビルで待っていたのですが、できたばかりの駅ビルなのに白い壁に長〜いヒビが入っていて哀れでしたよ。
んでその後、春日ちゃんとお昼を食べながら(食べ終わっても延々)お喋り。気がついたら3時間も喋っていました。春日ちゃんも、地元の人とは話せないコトも多くて溜まっていたみたい。お喋りで少しでも気がまぎれたなら良かったです。私ももちろん、嬉しかったし。バス停まで送ってもらって、帰りのバスに乗り込んだ後は、チューハイをくぴっと空けて爆睡。これで役所関係の手続きは全部終わったけど、田舎とどう付き合っていくか、まだまだ考えなくちゃいけません。
一昨日の土曜日はオーディトリウム渋谷まで、鎌仲ひとみ監督の『ミツバチの羽音と地球の回転』を見に行ってきた。いつもの癖で最初は一人で行こうとしたのだけれど、(ダメだそれじゃ広がらない)と思い直して友人に誘いをかけ、UとYと現地で待ち合わせ。混むかな〜と思ってかなり早くに行ったのに拍子抜けするくらい空いていて、開演間際でも席が余裕で取れる状態でちょっとガッカリ。まぁ当日は渋谷で脱原発のデモが2つもあったから、そっちに人が流れたんだとしたら嬉しいんだけど。
さて、映画。面白かったです。―――面白い、というのは違うな。凄い。大事な大事な話なのに、決して重すぎる雰囲気には持っていかず、選べる未来をも、見せてくれます。これを「客観的じゃない」と評しているのを見かけたけど、違うでしょ。そりゃ客観的ではないでしょう。だって鎌仲監督の立ち位置ははっきりしている。脱原発を望み、祝島の原発反対運動をしている人たちに寄り添っている。原発推進派の意見は出てこないし、スウェーデンのエネルギー政策の問題点も出てこない(←問題点があるかどうかは知らないけど、たぶんあるんじゃないのかな)。でも、私たちは反対の意見をあまりにもたくさん聞かされてきた。そうじゃない世界もあるんだよ、と知るのがどれほど嬉しいコトか。
そして30年近くも反対運動を続けてきた祝島の人たちが、特におばちゃんが、とてもとてもステキです。運動を続けるってのはめちゃくちゃエネルギーがいるコトで、力の差も圧倒的で、徐々に気力を削がれていって離れてしまう人が増えていって、とっくに反対勢力として瓦解していても不思議はないのに、毎週はちまきを締めて反対を叫び、連日座り込みをし、それでも笑っているおばちゃんたちがとてもとてもステキ。母が亡くなる数年前から「最近、ホントに村のおばちゃんたちが好きなんだよね。可愛くて強いんだ」と言っていたのを思い出すわ。
国や中電と、祝島の人たちの主張はかみ合わないままです。なんか、ホントにつくづく悲しいけれど、数字でしか物事を判断できない人っているんだよね……。例えば年収200万と500万だったら絶対に500万のほうがシアワセだって考えるような人。満員電車で往復数時間を通勤に費やし、昼間のほとんどを太陽も見ずにコンクリートの建物にこもってPC睨んで過ごし、日が暮れてからやっと会社を出て自分の時間もほとんど持てない年収500万と、自分の手で自分の食べるものを作って暮らせる年収200万。周囲に山と海があって、風を感じ、木々の色で季節の移り変わりを感じることのできる生活。どっちがいい?
いや、イイんですよ。500万のほうを選んだって。実際私だって都会で暮らしているワケだし。自然に囲まれた生活が甘い暮らしじゃないって知ってるし(←水道もガスも電気もないトコロで数年暮らした経験アリ)。でも200万の生活を選ぶ人がいたっていいじゃないですか。500万の人の生活を守るために、200万の人の生活を壊す権利がどこにある? 映画で、中電が吐いていた「第一次産業だけで生きていけると思っているんですか」って暴言には、本当に腹が立った。じゃああんたは、第一次産業無しで生きていけるって思っているの? 何食べて生きてるの?
何の資源もないとか言われているけど、私からみたら祝島は本当に豊かな島です。美味しい枇杷が採れて(食べてみたい!)、美味しそうな豚を育てていて、いろんな魚が捕れる海がある。こうゆうトコロを壊しちゃ、いけないです。中電は「海は絶対に壊れません!」とか言っていたけど、じゃあ、今の福島は? 「自然を金には代えない」と主張している祝島の皆さんが故郷の現状にダブって、何回か泣きそうになりました。数字でしか物事判断できない人には、お金で補償のできない物があるって、きっと絶対に分からない。何万もの人たちが避難しなくちゃいけなくて、地震が来るたびに怯えなきゃいけなくて、何年も先の健康を心配しなくちゃいけない電気っていったい何?
映画が終わった後、上関原発への反対署名を3人でして、その後いろいろいろいろ語り合いました。うん、1人で考え込んでいるよりずっといい。福島が起きてしまった今、私は何ができるかな。私たちは何を変えられるかな……。これで変わらなかったら、もうホントに終わりだと思う。絶望はもう、イヤなんだ。
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主題とは関係ないんだけど、映画で役所の人ともみ合いになったおばちゃんが「この人、私のお尻触りよる!」と声を上げているのについ笑ってしまった。んでその前後に「放しませ」と言ってたんだけど、あの辺の方言なのかなー。スゴく可愛い♥
地元のコトを想うといろいろと葛藤はあったのですが、今回ばかりは原発に対して「No!」という声をあげたい―――という気持ちが押さえきれず、高円寺の『4.10 原発やめろデモ』に参加してきました。数あるデモの中からここを選んだのは素人の乱の「原発怖い、ふざけるな!」という叫びが、一番共感できたからです。ホントに怖い、もうイヤだ、と思った。
最初、集合時間がよくわからなかったので都知事選は期日前投票で済ませてしまったのですが、集合は14時だったから午前中に選挙もいけましたね。集合時間のちょっと前に高円寺に着くと、駅前からすでにいつもとは雰囲気が違います。原発反対の署名を集めている人、福島のお母さんのために義援金を募っている人…。署名をして寄付をして、集合場所の公園に向かおうとすると、なんだか人の流れができています。え? まさかデモの参加者の流れじゃないよね?……いや、そうだ。ぎゃーっ。
正直、デモに参加するのには抵抗がありました。昔、チェルノブイリのときに一回だけ反原発デモに参加した経験があるのですが、それがすごく肌に合わなかったのです。こんなコトして何になるの?って思った(←それで具体的な行動を止めてしまったヘタレです)。今回はそれに加え、被災地に対する罪悪感みたいなものもありました。被災地では未だ行方不明の人がいる。家をなくして避難所にいる人も多い。まだまだ手助けが必要な状況なのに、他に何かできるんじゃないかと、しなくちゃいけないんじゃないかと、自分の無力さが情けなく悲しかった。
かといって、仕事をしながらじゃボランティアも難しいです。「首都圏でそれほど被害を受けなかった人間にできるのは、まず義援金を出すこと。停電を受け入れ、節電に協力し、なるべく普段どおりの生活をして経済活動を支えること」。そんな風にも言われていました。一理あるとは思いながらも、私は納得できませんでした。それだけでいいの?って思った。東北はもちろん復興しなくちゃいけないけど、元に戻すだけじゃダメなんです。(その反面「以前の状態に戻して欲しい」って気持ちもあるんだけど、それは不可能なのだもの)。
被災地がガンバってガンバって、周囲ではその支援をガンバって、皆がどうにか落ち着いて周りを見回せる余裕ができたときには、いつの間にか原発政策を継続できるようにこっそり決まっちゃって、「今まで大変でしたね〜。私たちも不便をガマンしました。じゃあこれまでどおり仲良くやっていきましょう。発電よろしく」ってコトにならないか、それがすごく怖かった。絶対にそうならないと言えるほど、政治を信頼できませんでした。せっかく復興させた故郷を、また根底から壊すかもしれないようなものを、田舎に残しておいて欲しくない。私が何をやっても変わらないかもしれないけれど、せめて意思は示しておきたい。
他の方がどんな想いでデモに参加したのかはわかりません。でも、黙っていたくない、という人は予想以上に多かった。行くまで私は(数千人単位で集まれば上出来かな)と思ったのですが、集合場所の小さな公園には人が増え続けました。周りを見回すとぎょっとするほど、人数が膨れ上がっています。小さな子供を連れたお父さんお母さん、若い女のコも多くて、これからデモだなんて思えない雰囲気でした。デモなんて初めてって方が多かったみたいです。あ、外国人の参加者も目につきましたね〜。
「30万人デモ!」と呼びかけてはいたものの、主催者にもこの人数は予想外だったのでしょう。残念ながら集会最初のスピーチは、あまりちゃんと聞こえませんでした。前のほうにいた私でもそうだったのだから、後ろには全然だったでしょう。デモの注意点とかも話していたのに、残念でした。面白かったのは反原発には反対って人もスピーチをしたコトです。彼が「代替電力どうするんだ」みたいな話をしたときに、参加者から「電気は足りてるぞ!」って野次が飛んだのですが、次の瞬間「ちゃんと聞こうよ!」って声もあがって、そうゆうのがすごく良かった。
その後、数時間に渡って高円寺の街を歩きました。一部勘違いした人(ただ騒ぎたいだけみたいで、交通整理の警官を挑発したりして、すごくヤな感じ)もいましたけど、大部分は真面目に、そして楽しくデモをしていました。私は田舎で近所だったコが来ているのを運良く見つけ、彼と一緒に歩きました。ゴールの高円寺駅に着いたときには薄暗くなっていて、流れ解散なのが残念なくらいの盛り上がりでした。
最終的に、参加者は15,000人になったそうです(主催者発表)。行ってよかったし、声をあげられてよかった。そして、節電と同じく、これに参加しただけで満足して終わらせちゃいけない、そう思わせてくれるデモでした。
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追記。このデモについては、ずいぶんと批判もあったようです。地元商店街や住民の皆さんが不快な思いをなされたとしたら、本当に申し訳なく思い反省します。けれども的外れな部外者の批判に関しては、ライターの松沢呉一さんが私よりずっと上手に書いていらっしゃいます。私も、ホントにそう思う。
追記2。主催者のサイトの「はじめてのデモ」でガンジーの言葉として紹介されていたのが、私がデモに参加した一番の動機かと思います。〜あなたのおこなう行動が、ほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければなりません。それは世界を変えるためにではなく、あなたが世界によって変えられないようにするためにです。〜
田舎のこと、友達のこと、原発のこと、考えたこと、書きたいことはいろいろあるのですが、時間が……いや、気力がありません。が、とりあえずこれだけは言っておかないとと思って。
私は原発が怖い。本当に本当に怖い。大丈夫だ安全だとしか言われないことが怖い。他の意見がTVに流れないことが怖い。今は抗議する時期じゃないと、普段どおりの生活をするのが大事だと丸め込まれるのが怖い。異常事態が常態になってしまうことが、この感覚が麻痺してしまうことが怖い。何も声を上げないままに日々を過ごしてしまうことが怖い。だからまずは自分の立ち位置をハッキリさせることから始めます。
私は原発に反対です。本当ならば今すぐ全部を止めて欲しいけど、それがムリならせめて脱原発の方向に向かうとハッキリ示して欲しい。そのために声を上げます。署名できるところにはもう署名をしました。抗議活動にも、これから参加するつもりです。
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(3月13日〜4月6日、日記をお休みしてました。この間の日記は、後から書き加えたものです。)
震災後の田舎の様子を一度見に行きたいとずっと思っていて、誰か帰る人がいるなら一緒に連れていって欲しいと声をかけまくっていたら、隣村のA井夫妻が「一時帰宅するけど、一緒にどう?」と誘ってくれました。最初は合わなかった予定を私のに合わせて捻じ曲げてもくれ、ホントに感謝です。土曜日はA井夫妻の避難先である浅草近くのs-y(2人の長女)の部屋に泊めてもらい、日曜早朝に彼らの車に乗せてもらって、東北に向けて出発しました。高速は最寄のICまで再開されていましたが、応急手当をしただけっぽく、凹凸がかなりあります。
いつもと違うのは一般車の交通量が少ないこと。自衛隊のトラックが目立つこと。東京で買出しをして戻るところなのか、荷物を満載にした東北ナンバーの車も何台か見かけました。高速を降りた街中は、人気がなくがらんとしています。建物等に大きな被害は見られず、天気のよいのどかな風景なのに、なんだか不吉な感じ。パニック映画の人類がいなくなった街のようです。30km地点で検問を受け、山道に入ります。崩れそうな場所にはパイロンが置いてありましたが、一応車は通れるようです。
我が田舎の土地には今、原発近くの町から避難してきているチーとNaoちゃんが住んでいます。家まで送ってもらってちょっと喋って、A井夫妻とs-yは自分の家に向かって再出発していきました。ありがとー! 私はまず、家の片付け。水タンクが倒れて水が使えなくなっていたり、薪ストーブの煙突が斜めになっていたりしていましたが、大きな被害はないようです。父が土台の丈夫さを自慢してただけありますね。家の裏、納戸のガラス戸が外れて割れてしまってもいましたが、2重ガラスだったのでそんなに心配はしなくても大丈夫でしょう。
台所と食料品置き場の棚からは、並べてあった鍋や瓶詰めが落ちてしまっていました。これを片付け、私と妹の部屋である2階に上がると―――うひゃああ、覚悟はしていたけど、ここが一番ヒドい。本やマンガが詰め込まれた部屋ですので、ほとんど床一面に本が散乱している状況です。地震から1ヶ月近く放置されていたので、ずいぶん本も傷んでしまいました。ちょっとこれは、今日片付けるのは無理だなあ〜。……というワケで、これ以上傷まないように本を拾って積み上げて、後は後日ってコトにしましょう。
左:煙突が斜めだけど、後は無事/右:オタク部屋の惨状
持ってきた食料とNaoちゃんが用意してくれたおかずで昼食を済ませ、放射性物質を持ち帰らないように田舎に置いてあった父の車を洗って、慌しいけれどこれで今日は帰ります。家の様子を確認する以外の今回の目的は、1.今後の行き来のために車を持ち帰る。2.正月に作った味噌を持ち帰る、でした。家は今のところ屋内退避圏だけど、この先もしかすると立入禁止になってしまうかもしれない。その場合諦めきれないのが、この味噌だったんです。だって母からの引き継ぎだったし、父と一緒にした作業の、最後の成果でしたもん(父は監督してただけですが)。
正月からこっちウチは無人で火の気がなく、味噌の発酵が期待できない室温でしたから、味噌は隣のT秋ちゃんちに預かってもらっていました。T秋ちゃん一家もとっくに避難していますから、預かってきた鍵で部屋に入らせてもらって、味噌樽を回収します。そして山から街に下り、さっき書き忘れたもう1つの大きな目的、3.春日ちゃんに逢う。も達成しました。春日ちゃんは一番不安な状況のときにも家の事情で避難できなくて、物資不足にも苦しめられた。すごくすごく心配だったのです。
だから、春日ちゃんの顔を見たとたん、思わずビックハグをしてしまいました。元気なメールはくれていたけれども、ちゃんと逢えて良かった〜。これから東京まで帰らなきゃいけないし、途中で待ち合わせをしているしで「ちょっと寄るだけ」のつもりだったのですが、やっぱりお互い喋りたくて、もう出なくちゃ、な時間になるまで1時間近くお邪魔してしまいました。またすぐ来るね、と手を振って別れます。ホントにすぐに来るからね。
そして高速に入る手前でUにメール。実は数日前、たまたまメールする機会があったので「今度田舎に帰るんだけど、放射能も怖いけど帰りの首都高を1人で運転するのはもっと怖い」と書いたら、「心配だから途中まで迎えに行ってあげる」と言ってもらっていたのです。うわああ、友達甲斐だあ。首都高を1人で走ったコトがなく、父の車のアルト君にはナビがついていないから、分岐に対応できるかホントに不安だったのですよねー。帰省時に運転を担当することはあっても、首都高を抜けるまではいっつも父に運転してもらっていたんですもん。
外環まではあまり不安もなく走れました。降りるつもりだったICに上りの出口がなく1つ先のICまで行ってひき返すようなハプニングもなんとか乗り越え、待ち合わせ場所、首都高に入る手前の某ショッピングセンターまではなんとか自力で辿りつきました。わざわざ来てくれたお礼にUに夕食を奢り、さあこれからが難関……と、覚悟はしていたんですが、やっぱ首都高ムリです! 1人でだったら、絶対途中で立ち往生するか事故を起こしていました。Uにナビしてもらっていてさえ、一度合流しそこねて、完全に止まっちゃいましたもん。
最後の最後で精神的にがつんとヤラれてしまった感がありますが、首都高を降りた後はUの的確なナビで、無事に祖母宅に辿りつきました。一応、GSでも一度洗車もしておきます。か〜なり疲労困憊していたので、最後の最後の車庫入れで擦ってアルト君に傷をつけてしまいましたが―――それでもよくやったよワタシ! いろんな人に助けられてだけど、でも一仕事やり終えた気がします。でももう絶対、1人で首都高を走ろうなんて思わない!
3月11日の地震から3週間以上が経ちました。福島原発は未だ、収束のめどがたっていません(大爆発の可能性は低くなっているのかもしれませんが、汚染はどんどん広がっています)。父母の家は自主避難の対象地域にあり(前回の日記で原子炉から10kmと書いたのは勘違い。第一原発からは25km強でした)、周囲に住んでいた人たちは全員避難して、無人の村になってしまいました。
父と母の遺した家と土地を大事に使ってゆきたかった。私と妹が使うのはもちろん、日常からちょっと離れたくなったときに友達が自由に立ち寄れるような、みんなの別荘みたいな家にしたかった。管理しきれない土地は貸して野菜や米を作ってもらって―――あ、犬を飼ってくれたら嬉しいなあ。あの土地にずっといた犬がいないのは寂しいから。その人たちが子供を産んで土地に根付いて、その人たちを中心にまたあの土地に集まる人が増えるといいなあ。そんな風に思ってました。
その計画を立てるのが、父母が逝ってしまった後の気持ちの支えに、どれだけなっていたことか。その支えがいきなり折れて、原発の状況もどんどん悪くなっていって、地震の翌週くらいは私の精神状態は最悪でした。もう何が原因かも分からないくらいで不安で怖くて、TVとPCから離れられなくなりました。夜も30分おきに起きて、ニュース速報をチェックせずにはいられない。ちっとも寝られないし、胃もやられて食べられない。
親しい人を失ったワケではない。住む家も無事で寝る場所も食べるものもある。それなのにこんな情けない有様になってしまった罪悪感にも追い打ちをかけられ、このままじゃノイローゼか胃潰瘍になってしまうと思って、木曜日から東京を一時離れるコトにしました。ちょうど週末も三連休だったので、家を離れて大阪へ。ビジネスホテルに泊まって、滞在中は街をぷらぷらして―――。
それでもTVのニュースだけじゃ情報が足りず、ネットカフェ(初めて入った!)で毎日数時間、情報収集したりもしてました。大阪城くらいは見ておくかと寄ったほかは観光もせず、せっかくの食い倒れの街も満喫できませんでした。そういう気分でも体調でもなかったし、せっかくの大阪はいつか友人たちと訪れて思いきり楽しみたかったし。大阪は余震もほとんど感じず、それだけでずいぶん落ち着き、21日の月曜日には東京へ戻れました。
それから、もう10日以上経ちます。田舎から避難している仲間たちとも、だいぶ連絡が取れるようになりました。あの土地を失うかもしれないという恐怖心には、あの土地で父母が培った人間関係をも失うかもという恐れが、大きく含まれていたようです。皆と連絡が取れたコトで、また少し落ち着けました。皆、帰りたいと思っている。また集まってお酒が飲みたいと思っている。
でも、たとえ今すぐに原発をコントロールできるようになってしまったとしても、完璧に元通りの生活はもうムリです。うちの集落は皆、湧き水をひいて使っていました。田舎の水で入れたコーヒーは、たとえインスタントでも下手なコーヒーショップで飲むより美味しかった。あの水を安心して飲めるようになるには、長い長い時間がかかるでしょう。山奥の手つかずの自然を生かした仕事をしていた人たち(オーガニックの食品販売や、食餌療法など)は、もうあそこで商売をするコトはできない。父母の畑を継いでくれる人も、もう見つからないでしょう。本当に辛い。
父母がさっさと逝ってしまったのは、こんな事態を見たくなかったからなのかと思ってしまう。父は緩和ケアに移るとき、看護士さんに「積極的な治療はもうしないという方針に納得してるのか?」と聞かれ、「自分の楽しみは百姓仕事だけだから、百姓ができないなら生きていても仕方ない」と言っていました。母は病気の告知を受けたとき、「もし入院したら畑がダメになってしまう」と考えて、一度は治療を断ったほどです。
もし2人が生きていたらどんなに心を痛めたかと思うと、父母が今の事態を知らずに済んで良かったと思う。けど、私の子供の部分(決して少なくはない)は「ずるいよ、2人してさっさと逝っちゃって!」と思う。父母と一緒にこの事態に立ち向かっているのだったら、ここまで心細くはならなかった。
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明日、日帰りで田舎の家に行って来ます。うちはまだ立入禁止ではないし、風向きと地形の関係で放射線量も高くはないみたいだから。30km圏外の街に住む友人とも会ってきます。
精神状態は少し落ち着いてきたけれど、故郷や原発のことを考えるとやはりまだ気が重い。なんかもう、どうしようもない気がしてしまう。そんなマイナス思考の泥沼から抜け出すべく、田中優さんの講演会に行ってきました。会場は芝浦港南区民センター1階ホール。200人以上入るそうですが、田中さんの話に興味を持っている人は多いだろうと、早めに会場に入ります。19時の開始時間には会場はいっぱいになって、椅子も追加されてました。
私は原発事故まで田中優さんのお名前も知りませんでした。ご本人も「にわか有名人の田中です」と自己紹介して笑いをとっていたので、私のような人は多いのでしょうが、彼はもうずっと長く脱原発の立場で活動をされている方です。キーワードは“持続可能な社会”で、エネルギー問題以外にもたくさんの活動に関わっておられる、エネルギッシュな人でした。講演は福島原発の現状についてから始まり、放射能汚染について、エネルギーの問題について、自然エネルギーについて……と続きます。
すごく、わかりやすく、明るい講演でした。知らなかったコトもいろいろ教えてもらいました。ただ、福島の汚染の話になるとちょっと悲しく感じてしまいましたけど……。あ、これはセンシティブになっている私の勝手な感慨で、別に彼が無神経な発言をしたワケではありません。この原発事故をエネルギーシフトの転換点にしたいと熱く語られると、切り捨てられたかのような気がしてしまって(それは賛成だけど、福島を置き去りにしないで…)と思ってしまうだけなのです。
彼の話を聞くと「エネルギーシフトはできる。できれば未来はバラ色」みたいな気になります。自然エネルギーにだって問題点はあるし、いざ大規模な発電をしようとすれば上手くいかないコトだってあるかもしれない。そうゆう点もちゃんと言わなきゃって意見の人もいるかと思いますが、そんなコトはもちろん専門家の田中さんはわかっていて、でもあえて夢のある話をしてくれているんだと私は思います。今は、こうゆう人が必要だと思う。「あれは無理、これも無理」と問題点ばかりをあげつらって、問題点が全部解決しないと舵をきらない態度は、あまりに臆病です。
講演会は無料だったけど、入口でカンパができました。あと田中さんのご友人で宮城で被災された方も会場に来ていて、写真を見せながら津波被害の話をしてくれました。そのほかに、仮設じゃない仮設住宅の話とか―――とにかく仕組みをまるごと変えようとしているその発想と活動が、面白かった。最後に質疑応答があったけど、これはちょっともったいなかったです。なんか何を聞きたいんだかわからない人ばかり、発言するんだもの。
質問に答えてだったか、最後の最後に田中さんが「僕はあの“家庭で節電!”って風潮はあまり好きじゃない」っておっしゃったのは、印象的でした。講演でも「ピーク時の家庭の電力使用量は実は僅か9%(だったかな? ちょとウロ覚え)で、節電の努力をしなくちゃいけないのは企業」って話をしていたのですが、それだけじゃなくて「節電で努力すればするだけ、自分はガンバってると思ってしまって、そこで終わってしまうから」だそうです。これにはすごく納得。うん、節電努力はしたほうがいいだろうし、私もしているけど、それで満足しちゃダメだ。まだやれるコトはある。
行って良かったです。いろいろ考えたり、自分の意思を確認したりできました。