浅田次郎の『壬生義士伝』読了。下巻に突入したころ、顔見知りに「面白いですか?」と聞かれ、「幕末とか新選組って題材は好きなんだけど、浅田次郎が今イチ苦手なんで、微妙ですねー。」と返した。以前読んだ2冊ほど “自分に酔ってる感”は感じなかったんだけど、その代わり、“泣かせのテクニック”みたいなのを感じちゃったのだ。上手く言えないんだけど。本読んでて作者の思い通りに転がされるのって、上手にやってくれれば気持ちよくて「ああんもう好きにしてぇ」となるんだけど、それが読書の快感だと思うんだけど、浅田次郎の場合だと、うっかりホロリとしてしまった後に「ちっ。ノせられたぜ」と思っちゃうような。
その先、下巻の中盤から終盤にかけて、私の弱いシーンが次から次へとやってきて、涙腺のゆるみまくった私はぼろぼろ泣きながら読んだ。が、読み終わってもやっぱり前述の評価は変わらなかった。なんだろなー。巻末の解説を書いている人(すみません。名前忘れた)は、「巧いって言われるのは小説家にとって一番の褒め言葉である。で、浅田次郎は巧い」って趣旨のコトを述べているのだが、その“巧さ”が鼻につくっつーか。あとね、主人公の吉村貫一郎を特別な人にしすぎだと思うな。「新撰組の中のあまり名前の知られていない人を主人公に…」ってのは聞いてたから、タイトルからしても「義士の一人の生き様を描いた」のかと思ってたら、全然違った。
今、シュテファン・ツワイクの『マリー・アントワネット』も再読してる。これも涙腺を刺激しまくる内容なんだけど、何に泣かされるって革命後のマリー・アントワネットの成長っぷりなのね。シュテファン・ツワイクは「革命以前の彼女は、自分自身を見つめ、高めようとはしていなかった。そうせざるを得なくなって初めて、自分の中に強さを見出したのである」って論調で話をすすめているんだけど(マリー・アントワネット自身も「不幸のただ中にあって、初めて自分の何者たるかがわかります」
と手紙に書いている)、そゆのってあると思うの。別に死に物狂いの努力をしなくっても、ほけらーっと生きていけるような状態で、それでも何かを成し遂げようとする人って少数派だと思うのね。たいていの人は、追い込まれて追い込まれて必死になって初めて、立とうとするんじゃないか、と。あ、ちょっと頑張ってみよう、ってレベルの話じゃなくて、なりふり構わない全てを賭けた努力のコトね。
「最近の若いものはホントにだらしなくてなっちゃいない。甘やかされすぎてダメになってる」とよく言われる。私も、同じように感じちゃうときがある。でも、願望も込めて、「甘やかされてダメに」なってるワケじゃなくて、「甘やかされて怠けて」いるだけなんじゃないのかな、とも思ってるのだ。もし必要に迫られたら、必死にならなきゃならなくなったら、意外と強い人は多いんじゃないのかなって。「うっひゃー、私ってここまでできたのか! ビックリ!」ってな感じで。…ま、逆に「もっとできると思ってたけど、私ってこんなに狭かったのかー」って場合もあるし、追い込まれようが何されようが立とうとしない人もいるだろうけど。さて、私はどのタイプかしらん。
幕末なんて世の中の価値観がすんごい勢いでひっくり返った時代でしょ? 必死になってた人は多いと思う。だからこうも語られるべき人が多いんじゃないか、と。なのに、その中でどうして吉村貫一郎だけが特別なのか、私にゃそれが分からない。や、彼が主役なのはいいの。「どの人も頑張っていた。その中で、吉村貫一郎にスポットを当ててみた」って感じなら、良かった。
他の人もそれぞれの立場でそれぞれの思いを抱えてそれぞれの価値観に従って必死になってるのに、その人のホントの想いを知るのは本人だけだったり、周囲の少数の人だけだったりして、多くの人の誤解を受けたりしてるのに、どうして吉村貫一郎だけは皆にわかられてしまうの? 理解してもらえるの? 彼を憎んでたって言う人だって、それは彼の価値を理解しての、愛の裏返しみたいなモンでしかない。死に際して亡き父の幻が現れて全ての罪を許すに至っては、何をかいわんや。そりゃ、彼の美点はわかるよ? けど、他の人は何? 彼が義士なら虫けら? …違うな。他の人たちも誠実に美しく描かれてはいる。でも他の人を義士であるとするならば、吉村貫一郎が別格である以上、彼は生き神さまになっちゃうよ。
私が泣いてしまったのは、吉村貫一郎以外の人、特に大野親子の行動や心境に対してだった。彼らが吉村貫一郎に向ける想いにはじーんときて泣けても(泣けりゃイイと思ってるワケではないよ)、貫一郎本人に対しては冷めてしまう。私は人間が好きなのだ。迷ってる、必死になってる人間が好きなのだ。同じように苦悩してる風に書いてはあるが、吉村貫一郎は違う。全ての人が褒め称えるコトで、別の次元に立ってしまった。そうゆう人には関心をもてないのだ。「人のためになら泣けても神に流す涙はねーよ」みたいな。……後付けの理屈ですが。
ひでー話だけど、吉村貫一郎の独白に入るたびにシラけて「もうイイから、腹切るんでも逃げ出すんでも逃がしてもらうんでも何でもイイから、さっさと済ませてくれないかなー」と思ってました。吉村貫一郎の長男の嘉一郎に対してもね、途中までは肩入れして読んでたのに、死に際の独白ですーっと冷めた。鬼か私ゃ。でも、浅田次郎のそうゆうトコが苦手なんです。
今、ナンシー関の『信仰の現場〜すっとこどっこいにヨロシク〜』を読んでいる。何かに夢中になっている人たちの観察記なのだけど、何個目かに「アウトドア用品店に集う人たち」の話があって、ちょっと笑ってしまった。いや、アウトドア用品に関しちゃ私は観察者ではなく、末端の信者って感じなんだけど。自分じゃ使わないであろうグッズも見るの大好き。キャンプストーブに思い入れはないけど、スイスアーミーナイフは最購入したいと思ってるし。愛用してたやつ、どっかでなくしてしまったんだよねー。携帯食料も見てるだけで楽しい〜。
んで今現在、もっと信仰の度合いが強いのが、ダイビング用品の店。店に行ったらとりあえず一周する。自分の持ってるギアでも、新しいのの機能をチェックする。行くたびに何かを必ず買ってしまう。そっかー、これ、信仰だったのか。じゃあ店に落とすお金はお布施? 店員さんは巫女? なんだか納得しちゃうなあ。こないだ「沖縄に行く前に何かしら買っちゃうかも」と書いたけど、あれ書いた2日後に買っちゃったんだよね。新グッズ。たまたま横浜で友達と会う約束があって、彼女と別れた後に「せっかく近くまで来たんだから」と店に行ってしまったのだ。
買ったのはウェットスーツ用のインナー。「これ着たら、だいぶ違いますか?」と聞いたら、巫女さまが「違いますねー!」とおっしゃったのだ。ご神託には逆らえない。(寒がりだしな)。しかも商品の在庫がなくて取り寄せなんで、近いうちにまた店に行かなくてはいけない。行ったらついでに靴下も買っちゃおうかなー。インナーで下半身をカバーして、靴下で足先を温めれば、20度を切った海でも耐えられるかも! 去年の6〜7月の伊豆はキツかったもんなー、などと考えている。そっか。そうだ。私は新興宗教にハマってるのだ。じゃあ仕方ないよなー。(何が!)。
ところで私とダイビング仲間は、すっかりその店の顔馴染みになってしまった。特に最初の頃、4人が雁首揃えて買物に行き、行ったら1時間や2時間は店内に留まり、さらに何かを買うときはいっつも一緒、というのが目立ってたらしいのだ。……当然か。しかし必要なグッズのほとんどを買ってしまった最近は、バラけて店を訪れるコトも多い。そのたびに「今日はお一人なんですかー?」と聞かれるのだが、それに「えへへ。抜け駆けして来ちゃいましたー」と返すのも全員一緒らしく、こないだ私が店を訪れた際は、巫女のMさんに「あっ、今日はTo-koさんが抜け駆けなんですね!」と言われてしまった。「最近は、次は誰が抜け駆けしにくるかなーって楽しみなんですよ。今度は何を買うのかなー、とか」だそうだ。やはは。
常々私は「新興宗教にハマる人の気持ちってわっかんないなー。自分や身内が医者にも見放された病気だとか、すんごく貧しくて食べるものにも困るとか、そういう状況なら私も何か縋るものを求めるかもしれないけど、そうじゃなくて、普通に不自由なく暮らしてる人が宗教にハマッてお布施を出したり苦行をしたりして…。うーん、何が楽しいんだろ。私はたぶん入信しないだろうなー」と思っていたのだけど、違うかも。すでに別の宗教にハマってるから転べないだけかも。ダイビングだけじゃなくて、旅行とか芝居とか山とか、他にもお布施払ったり布教したりしてる宗教はあるもんね。ああ、ハマッたのが楽しげな宗教ばかりでよかった。(……って誰もが思ってるのか、な?)。
昨日の続き。年末特番をしつこく怒っていた私は、たまたま同じ番組を見ていたという人に「あれは絶対に許せないっ」と噛みついた。ちなみに彼は年始の酒を飲みにきただけの客であり、番組の関係者ではもちろんない。ここで相手が同意するか、あるいは関心なさげだったのなら話はそれだけで終わっただろう。が、彼は「えーそうかなあ。それが女の優しさってものなんじゃないの?」と反論しだしたのだ。私はムキになって「違うよっ、そんなの自己満足だよっ。しかも生きてるうちに相手を思い通りにできなかったからって、死んで抵抗できない相手から刀を取り上げるってのが許せない!」と言い募った。相手は「でも安らかに眠って欲しいと思ったんじゃーん。女心だろ」と笑う。
最初っから私は分が悪かった。年齢差はおいておいても、私は思い入れがあって話していたのであり、相手はただからかっていただけなのである。これじゃ勝てるワケがない。私がムキになればなるほど、向こうは面白がってツツいてくるのだから。しかし私は子供だった。それが全然分かってなかった。だからたっぷり30分は彼に突っかかってしまった。そして最悪なコトに「○○は土方さんに思い入れがないから私の気持ちがわからないんだよっ」という台詞で話をぶった切ってしまった。代表的な負け犬の台詞である。ああ悔しい。
生来私は口が達者ではない。妹は「To-koは怒ると理詰めでくるから、反論しづらい」と言うが、それは考える時間があるときだけである。咄嗟の機転は利かないのだ。数年前、電車の中でめちゃくちゃムカつくことをされてつい相手を罵ってしまったコトがあるのだが、そのとき私の口から出た台詞は「ばーかばーか」であった。口に出した瞬間、あまりのレベルの低さに死にたくなった。幼稚園児か私は。そうゆう咄嗟のときに、周囲から拍手が出るくらい気の利いた台詞を吐ける知人がいるのだが、彼女の才能が羨ましくて仕方ない。私はいっつも後になってから「ああ、ああ言えばよかった!」と思いつくのだ。
この傾向は昔っからなので、この言い合いの後も私は「何て言えば相手を納得させられたか」を考えた。それで、(要はモノが武士道だとか剣の道だとか観念的だから悪いんだ。もっと身近なコトに例えて話せばいいんだ)と思い、考え出したのが↓の話である。あのとき言えなかった無念を晴らすべく、今ここに書き記す(つか自分の不甲斐なさが悔しくて覚えていただけ)。
「今の10倍くらいカボチャ(←彼の大好物)が好きだと想像してみてよ。自分でカボチャ作って、知り合いにも頼んで作ってもらって、いろいろ工夫してるうちにカボチャがどんどん美味しくなるのよ。でも○○はそこで満足できなくて、もっと美味しくなるハズだ、カボチャ道を極めるんだ、とガンバってると思ってよ。と、そこに栄養士のA子さんが出てくるのよ。で、野菜はカボチャだけじゃない、セロリだって大根だって(←彼のキライな野菜)あるじゃないか、どうしてカボチャばっかり食べるんだ、カボチャばかり食べてたら栄養が偏るし指が黄色くなるから止めろってうるさく言うの。そりゃA子さんは確かに○○のコトを心配してるよ? でも○○はカボチャ以外の野菜があるコトなんか知ってるの。カボチャばっかり食べてたら体に悪いのだって分かってるの。でもカボチャがいいのよ。それでA子さんには、わかったわかったと言いながら、やっぱり理想のカボチャを追い求めるのさ。んで、やっぱりカボチャのせいで体を悪くするんだけど、ついに、とうとう、これぞ理想のカボチャってのが見つかるわけ。見つかったトコロで命運が尽きるのよ。でも、食べるコトはできなかったけど、自分はやっと理想のカボチャを見つけるコトができた。わが人生に悔いなし、と、カボチャを抱きしめて息絶える。○○の唇には微笑みが浮かんでるのさ。でもそこで! そこにA子さんが現れて、ほーらやっぱりカボチャは体に毒だったでしょ?と言って、○○の手からカボチャを取り上げたらどうよ。どう思う???」
………どうでしょう。これ言ってたら、納得してくれたと思います? とりあえず私は「昔っから妄想女王(しかもくっだらない)だなーオレ」と、改めて思ってるトコだけど。しかしこの例え話、土方さんへの思い入れをも疑わせる内容だなあ。そこに愛はあるのかよ。
昨日の月は色といい形といい角度といいホントにメルヘンチックだったなー。会社から出て瞬間に気付いて、しばらくぼーっと空を見上げ、ほんわかシアワセ気分に。
さて。しばらく前に友人と集まったときに、大河ドラマの『新選組!』が話題にあがった。私は初回から見忘れたのだが、「思ったよりも良かったけど、香取慎吾がねえ…」という友人らの話から、いつもの「香取慎吾は普通のドラマやってる限り格別悪くはないのに、三谷幸喜作品だとどうしてあそこまでハズすのか」という話になり、やがて自分の中の新選組像はどこから来ているのかって話になった。「私のは司馬遼太郎の『燃えよ剣』と和田慎二の『あさぎ色の伝説』!(そのイメージ優先で史実がどうだったかってのは二の次)」と私が熱く語っていたら、ちょっぴり年上の友人が「私のは木原としえの『天まであがれ!』だなー」と言って、そのマンガを貸してくれた。
「私のは鴨川つばめ!」と言った彼女についてはあえて触れない方向で。…そういえば何年も前にふらりと入った居酒屋のメニューに「マカロニほうれんそう」ってのがあって、友人たちと大爆笑したっけ。あのメニュー書いた人、別にひっかけようとしたんじゃなくて、ただ単に知らなかったんだろうなあ。…って、分からない人は気にしないでください。
そのマンガを読み、浅田次郎の『壬生義士伝』を読んでいるせいでふと、ずーっとずーーーっと昔に十朱幸代が死ぬほどキライだった時期があったのを、思い出した。数年間ずっと嫌い続けていたので、そのころ大手家電メーカー(たしか)のCMをやっていた彼女がTVに映るたびにムカついて大変だった。一度なんか、油断しきってたトコロに彼女の顔のアップがいきなり飛び込んできて、抱えていたクッションをTVに投げつけかけた覚えもある。ナゼそんなにキライだったのかと言えば、ある年末の時代劇特番で、彼女が土方歳三の周りにちょろちょろちょろちょろウザったく出没する女の役をやっていた、と、ただそれだけの理由なのであった。
断っておくが、私は「土方さんと沖田総司がデキていなくちゃイヤ!」という人種ではない。今も違うし、かつてそうであったタメシもない。(正真正銘の真実なのになんでこんなに嘘っぽいのだろう…)。ただ、そのドラマの中で十朱幸代が演じた女には、憎むといっていいくらいの悪感情を抱いた。もう15年以上は確実に昔の話なので、彼女が演じたのが土方さんの恋人だったのかも覚えていないが(だいたい土方さんを演じた役者も作品のタイトルも覚えてないのだ)、忘れかけた頃に出てきちゃあ「剣を捨てろ、何を意固地になっているんだ、人にはもっと違う風に生きる道があるだろう」と説教するような役だったのは覚えている。
それだけなら「ウザい」で済んだだろう。が、ドラマの終盤で私は怒り狂った。終盤の蝦夷地函館で、土方さんは剣を握ったまま死ぬ。彼を残して、戦の中心は他に移る。喚声が遠ざかる。累々たる死体。やがて静寂が辺りを包む。……と、そこに十朱が現れて、死んだ土方さんの手から剣を取り上げたのである!(……うわ、書いてるうちに怒りが甦ってきちゃった)。さらに十朱幸代は、その次の年だか前の年だかに、織田信長の周りをうろちょろする役も演じたのだ。そっちの役は別に怒るほどのものでもなかったが、やっぱりウザかった。私が顔を見るたびにムカつくようになったのも、けだし当然というべきであろう。(←そうかぁー?)
えーーー。この先、私が十朱幸代擁護派と大論戦を繰り広げた話が書きたかったんだけど、いい加減長すぎなので明日に回します。しかし今考えてみれば、私が怒るべきは台本書いた人だよなー。理不尽に憎まれて女優って職業も大変だ。(←自分の思慮の浅さは棚にあげ)。
そろそろ弁当生活を再開させようとしてるけど、やっぱ起きるのツラい〜。最初は冷凍食品に頼りまくってたのを、年末頃にはかなり手作り料理の割合増やしてガンバってたのに、また冷食多用しちゃった。美味しくないっつーの。今朝かろうじて作った鶏ささみとごぼう&しめじ茸の炒め物はGood。ごぼうと鶏肉って相性いいよなー。ごま油で炒めて塩コショウ、火を止める間際にちょっとお醤油で香り付けしただけの、シンプルイズベストな適当料理。適当万歳。彩りのために、万能ネギたっぷり混ぜても良かったな。(←冷蔵庫になかったけど。)
菅野彰さんのエッセイに、親戚の子供と2人きりである程度の時間を過ごしたときのエピソードがある。最近、ああその「あかんなこれは」
って感じはよく分かるなー、と思う。どんな感じって私も上手く言えないんだけど、未婚で未出産でいくら経験がなくても大人な自覚がなくても、子供にとっちゃ私は立派な大人なのだからちゃんと大人じゃなくちゃいかんよなーという感じ(←…って分かりづらすぎ)。私の周囲の人間は独身生活を謳歌してるタイプが多くて、あまり子供に接する機会はないんだけど、その数少ない機会を与えてくれる母親な友人たちに感謝。たまにはちゃんと自覚しなくちゃな。
強い冬型気圧配置とやらのせいで「冗談じゃない!」ってくらい寒かった昨日は、キリギリス仲間たちと2度目の新年会をやってきた。アジア料理の店で激辛料理を食べて、温まったトコロでカラオケに。いつもの如く比較的新しいのから歌い始め、「わあ、懐かしい」って曲に移り、そして最後は誰も知らないトコロまで行ってしまって、「えー、聞いたコトない! To-koって年齢詐称してんじゃないの?」と言われたが、笠置シヅ子を歌う人に言われたくない〜。
彼女らとは、この先2ヶ月の間にスキーに行き、金沢に行き、スキーに行き、沖縄に行くらしい。まあスキーはシーズンだからイイとして、あと2ヶ月もしないうちに沖縄に行き、しかも海に入るってのが信じられない。ホントに大丈夫なんだろうか。寒さに弱い私としちゃ、不安である。つい「念のためにウェットスーツの下に着込める防寒グッズを買おうかなー」と思ってしまい、またぞろ浪費の虫が騒ぎ始めてしまったかとハッとする。去年はダイビングにかーなりつぎ込んだからなあ…。今年も同じようにやったら堪ったモノじゃない。第一、仲間たちに何と言われるコトか。
自分じゃちっとも覚えていないんだが、皆で潜り始めたばっかりの頃、私は「年に2、3回行ければイイよねー」と言っていたらしいのだ。しかもドライスーツを「買おうかな」と言った友人を、強く強く止めたらしい。「冬なんか絶対に行かないよ! 寒いじゃん! もっと気楽に楽しもうよ〜」とか言って。今となっちゃ「ホントにそんなコト言ったのか私ゃ」って感じだが、皆が口を揃えて言うのだからそうだったのかもしれない。信じられないけど、でもこないだその件で散々イジメられたのだ。「To-koのあの言葉を信じていたのに、重器を買おうって言い出すし、去年は1人でも潜りに行っちゃうし」と。えーーっと……、“ハマる”って怖いね?
沖縄行く頃にはもう1つ2つアイテムが増えてる気がします。
歯が痛い痛いと騒ぐだけ騒いでおいて、いい歯医者が見つかったっつー話をしないのはナンですわね。棚からぼた餅、瓢箪から駒……じゃなくて災い転じて福! 今までかかってた歯医者は「めちゃくちゃ下手ではないけど」って腕の持ち主だった。ただロケーションがとても良かったのだ。会社から徒歩1分で行けたので、昼休みに通うのが可能だったのである。それはとっても有り難かったが、上手くないってのはよろしくない。上手な歯医者さん見つけなくちゃな、とは前から思っていた。
しかしこれは歯医者に限らずなんだけど、医者って通ってみないと分からないし、中途半端な時点で乗り換えるのは躊躇われるし、新しいトコに行って失敗したらまた別を探すのかー、メンドくさいなー、ま、今回は「下手じゃない」でガマンしとくか、とずるずる通ってしまったのである。しかし今回のナゾの激痛の理由を突き止められなかった(つか、突き止めようともしなかった)のと、それを「親知らずのせいじゃないかなー。抜いてみる?」で片付けようとした彼の態度は、横着な私を突き動かした。今度こそこの歯医者から抜け出すのだ!
んで結局、歯医者の評価サイトみたいなトコを見て、評判のいい医者の中でそこなら通えるかなって位置のに行ってみたんだけど、これがまあ、今までの横着してた私を蹴り飛ばしたくなるくらい良かった。今までの歯医者は何だったの!って感じ。ちょっと遠いかと思った立地も実際歩いてみたら徒歩15分くらいだったし、同じくらいの治療をして前の歯医者のほぼ半額って安さだし、時間外でも積極的に見てくれるし、丁寧。院長センセの姿勢が何から何まで患者本位で「こんなにガンバって続くのかな」と心配になるくらいだ。もう8年くらい同じ場所で続けてるんだけど。
治療の途中、仮詰めが少し浮いちゃったので見てもらったときも「仮詰めが浮いたのはこっちが悪いから」とタダ。ついでに歯の掃除もしてくれたのに。2回目の治療のときには初回にした検診の結果、どの歯に問題があって、それぞれにどうゆう治療をする予定で、全部で何回くらい通えばよくて、いくらぐらいかかるかって表を、プリントアウトして渡してくれる。もう「一生ついていくから、私が入れ歯作るようになるまで現役で」と思っちゃうくらいに惚れこみました。なんでセンセによってこうも違うかねー。黒医師ギルドでもあるのかしら、ホントに。こうゆうセンセばっかりだったら「痛くはないけど、ちょっと気になる」程度の異常でも、きちんと検診に行く気になるのにね。
そゆワケで、ほぼまともな食生活ができるようになりました。イエイ!
日曜は祖母の一周忌。寒い寒いと脅されていたし、土曜も雪がちらついたので心配していたが、喪服に代わる適当な服がないので毛糸のパンツとダウンコートで完全防備して参列。が、意外に日差しが暖かく、お寺でお経聞いてるときがちょっと寒かっただけで、お墓参りのときは風の冷たさが気持ちいいくらいだった。こりゃ祖母の徳かもと、ちょと嬉しい。良かった。精進落としの席からは「おうTo-ko、飲んでるかー」(by 伯父さん)の世界だったけど。あといつから、我らイカズゴケーズ(©菅野彰さん)をからかうのが親戚行事のお約束になったのだろか。ねえ?
この席でもナゼか台湾旅行の話が持ち上がって、昨日の日記に書いたように、遊び仲間の「やりたいコト目白押し」にパニくっている私は、大変に焦った。いやイトコのYと台湾旅行をしよう、という話はもうずいぶん昔からしているのだ。下手すると10年くらい前に持ち上がった話かも知れない。けど、私は実現するのはまだまだ先だと思っていた。前に会った時に「ちゃんとお金貯めてるよ」とは聞いていたが、本気にしていなかった。だってYは飛行機嫌いで、そのときも「船で行かない?」とおバカなコトを言っていたのだ。誰が本気にできようか。ところで彼女の飛行機嫌いの理由は、何度聞いても分かるようでよく分からない。飛行機が落ちるのは怖くないのだそうだ。ただ、自分の座っている下に10,000mもの何もない空間が広がっていると思うとダメなんだそうである。……私にゃ言われたくないだろうけど、想像力過多なんじゃない?>Yちゃん。
「飛行機はどうなったのよー」と叫びつつ、台湾話は早くても来年、とさせてもらう。ああ、キリギリスはいつまで歌を歌っていられるのかしらん。「歌えるうちは歌ってればー?」と実の母親まで呑気なものだが、いいのかそれで。変なトコロで信頼されてる気がするなー。
書くのを忘れてた。ニック・バントックの『不思議な文通−グリフィンとサビーヌ−』読了。金曜に感想を書いた辺りから、いきなりグリフィンが「君が恋しい。会いたい」と盛り上がっちゃって、心の黒い私は(会ったコトもない顔も知らない女性を相手にまあ…。出会い系サイトで“さくら”に好意ありげなコト言われて舞い上がっちゃったモテナイ君みたいだー。うぷぷ。)とつい、つい、つい思ってしまった。反省せよ>自分。えーっと、ストーリーは有って無きが如しなんでネタばらしは避けなくちゃね。ラスト2通の手紙にアレとアレが無いってコトは、あの人はあの人のアレなんだろうけど、最後の一文からするとアレであったあの人がああなってしまったという可能性も…。この続編にあたる作品のタイトルが『サビーヌの日記』なのは意味深だわ。チェックしなくちゃ。
「知り合いが3月13日に結婚するんだよね」「へえ。それはメデタイねえ」「でね、沖縄で式をあげるんだって」「へー、いいじゃん。出席するの?」「うん。で、沖縄ってさ、3月でも暖かいと思うんだー」「そりゃこっちよりはね」「だからさ」「うん」「ダイビングしない?」「…え?」「皆が来たら、私、式の前の日とか後の日とか潜れるよ?」「……」「…ダメ?」「ダメじゃないけど…私ら、今日なんで集まったんだっけ?」「1月中にスキーに行こうって話の打ち合わせ」「………」「………」。
土曜日、新年会+できたら行きたい1月スキーの打ち合わせ+カラオケの予定で、友達んちに集まった。面子はいつもの遊び仲間である。家主の手料理でもてなしてもらい、昼からアルコールを入れて調子よく話しているうちに、それまでガラガラだった週末の予定がばんばん埋まっていくのに気が付いた。事前の電話で出ていた話は「もし全員の都合があえば、1月中に1度スキーに行っておきたいね」だけだったのに、なんとビックリ、1月末の日帰りスキーは即決され、その他にも2月末〜3月頭の泊りがけスキー、3月の沖縄がほぼ決定された。「2月の頭は?」「(To-ko)あ、私がダメ。たぶん仕事絡みで金沢行くから」「えー、いいなあ。1人で行くの?」「うん、北国一人旅」「1人で行くの?」「…うん」「1人で行くの?」「……来る?」。というワケで、静かな金沢散策がずいぶんと賑やかになる可能性も50%ほど。
その他、話題にあがったのは、「1.冬ダイビングのため、ドライスーツ講習を受ける。/2.富士山にリベンジ。/3.Cカードをオープンからアドヴァンスドにレベルアップ」。3の話が出た途端「アドヴァンスってナイトやるんだよね。だったら透明度ないと怖いから、海外でやろうよ」「ケアンズとか?」「あ、じゃあダイブクルーズにしない? 2泊か3泊の。日帰りじゃいけないポイントに行けるんだって」「でも来年頭にスイスの友達がオーストラリア行くらしくて、もしできたら一緒にダイビングできたらいいねって話が…」「1月2月の気候ってどうなの?」「真夏だよね」「じゃあ来年行く?」「ちょっと待って。いやそうゆう話はあるんだけど、1月2月って私の仕事がめちゃ忙しいから実現するかわかんないよ!」「じゃ、スイスに行こうよ。私、スイスに興味あったんだよねー」と、あっという間に話が膨らみ転がり収拾つかなくなり、あわや2005年の予定まで決まりそうになった。鬼、笑い死にするよ。
「全部は無理だよ! 金が続かないって!」だの「今年中にやりたいアレのために余裕残しとこうよー」だの「待って待って。それじゃ下手すると3月の第1週末にスキーに行って、第2週末にダイビング行くの? 無茶じゃない?」だの「ねえ。なに生き急いでるの、私たち」だのと、ハッと我に返りブレーキのかかる瞬間も一応はあるんだけど、私ら、アクセル踏み込むタイプばっかりでブレーキが弱すぎる。おまけにこの日は新年会と打ち合わせしかできなかったので(9時間もかけて!)、今週また会って遊ぶのよ。ねえ、ホントに誰か、生き急いでない? この土曜日でこの先の1年が見えた気がして、眩暈がくらくら。マジっすか。
先日書いたニック・バントックの、今度は『不思議な文通−グリフィンとサビーヌ−』を読んでいます。今度のもこないだのも、「見知らぬ人から突然手紙(or メール)が! あなたは誰? なぜ他人が知らないハズの私を知っているの?」って内容なのですが、でも楽しい〜。前回の画像添付ばりばりのメールのやり取りもよかったけど、私は今読んでる方が好きです。やっぱ紙ベースで本領を発揮する内容だわー。今回は絵はがきを描いているグリフィンのもとに、南の島に住むサビーヌから絵はがきが届くところから始まります。サビーヌは切手のデザイナーをしている、やはり絵心のある女性で手作りの絵はがきを使います。
このお互いが描いている絵はがきの絵が、切手の図柄が、手書きの文字が、眺めてるだけで楽しくて。前回『ヴェネツィア人の不思議な妻』のときは、長文の英語はすっ飛ばして訳文を読んでたんですが、今回はそれももったいない感じ。だってタイプミスを手書きで修正してたりするんですよ? あ、途中に封書のやり取りもあるんです。そゆときはページに封筒が貼ってあって、中に便せんが入っているの。長文を読むのはさすがに疲れるけど、そして後で訳文と照らし合わせるとちゃんと読み取れてるのは半分強だけど、絵はがきのときは短文を読めば次はイラストを眺めて息継ぎできるんで、何とかなってます。私は本にのめり込むとがーっと読んじゃう方なんだけど、これは全然違う風に楽しめます。毎晩1往復か2往復分だけ、と少しずつ。何かね、ゆったりする。
早く普通食に戻りたい〜!と、ベム・ベラ・ベロばりに祈る日々。歯医者を変えたら歯痛の原因は分かって今治療中なんだけど、まだ片側でしか食べられなくて顎が疲れるから柔らかいのばっかり食べてて、まともな料理も弁当作りも出来やしない。せっかく弁当作りの習慣作ったのに、また起きられなくなっちゃうよー。
さて。稲垣美晴さんのフィンランド留学体験記、『フィンランド語は猫の言葉』を読了。書かれたのはかなり前なんだけど、つい自分の体験と引き比べてしまう。いや私は全然勉強してなかったので、あまり共通項はないんだけども。それに私がNZに行ったときは、最初からある程度は英語が喋れた。相手が何を言っているのか見当もつかないってコトはほとんどなかったし、積極的に喋ろうとする日本人は少なかったから、すぐに外国人の友人ができた。かなり、楽してた。だから稲垣さんのように、まともな辞書もない言語を使う国に行って、しかもその言語を勉強するなんて、いったいどうやったら可能なのか見当もつかない。ただひたすら、スゴイなあと感服。
尻尾まいて逃げ帰ったって当然だし、下手するとノイローゼにもなりかねない環境の中で、ユーモアを失わないのが何よりスゴイ。……って逆かな。ユーモアのある人だから、強かったのかな。この体験談だってお涙ちょうだいの根性モノなんかじゃないの。軽く、面白可笑しく書いてある。でも書いてなくたって彼女の頑張りってのは自ずと伝わるし、最後の方なんか泣きそうになっちゃった。作文を書くってのが彼女の勉強法の一つなんだけど、ロクにフィンランド語を使えない最初から留学の最後まで、一貫して「読む人が飽きない、楽しいもの」を書こうとする…なんて、ふつう出来る? ホント、いい経験したよねえ。
私がNZに行ったのも彼女と同じ20代後半で、行ったせいで逃したコトもあるけど後悔した覚えは一度だってない。でも私もあの10ヶ月でずいぶんたくさんのモノを得たと思ってる。感じてる。この本読んで、その思いを再確認した。ま、その後の生活に体験を活かせてるかどうかは勉強量の差ってコトで。えへへー。
正月休みが終わってからも残業日が続き、巡回サイトの更新分に全然おっつかないのです。だから今さらな反応なんだけど…紫堂恭子さんの12月31日の日記がガツンと来て、何度も何度も読み返してしまった。「これがもし「幸福」でなかったとしたら、私は幸福が何かを知らないのだと思います」
。ああホントだよなあそうなんだよなあと思うと同時に、こんなにも力強い言葉で「幸福」を語れる人は、好きにならずにいられないと、シミジミ思う。
ひどく落ち込んだときなんか、自分が誰からも好かれていないようで誰からも必要とされていないようで、悲しくて寂しくて堪らなくなったりもする。するのだ、いくつになっても。でも浮上してから考えてみれば、そんな風に思うのがそもそも傲慢というか不遜というか、私の周りにいてくれる人に対して失礼な話じゃないか。私は人に頼るのがあまり上手じゃないんだけど、それでもホントに本気で困ったら相談に行ける人が、複数いる。できる限りの範囲(それは決して小さくはない)で助けてくれるだろう人が、複数いる。心配して慰めてくれるだろう人が、複数いる。そして「もしこの人が助けを必要としたら、私は相当の時間と労力を惜しまないだろう」という人が、複数いる。もちろんそうゆう人たちとは、お互いのシアワセを喜び合える。これを幸福と言わずして何と言おう。
普段は意識なんかしていない。けど何かの拍子にふと自分を取り巻くものに思い至ったとき、自分は恵まれていると、震えるほど幸福だと感じるときがある。願わくば、私も誰かに同じようなシアワセを、安心を、自信を感じさせる一欠片でありますように。『パーム』のジェームスが言っていたように、人は1人でも2人でも3人でも生きていけないのだから。私たちは、「大丈夫、ここにいるよ」と両腕を広げて抱きしめあうことが、できる。受け入れることができる。いつでも、どこでだって。
会社に東北地方の某自治体から電話が入った。私の作成した書類に対するクレームだったが、原因は向こうの認識不足だったので「でも○○が××だから△△ですよね?」と声だけはにこやかに対応すると、相手は「…ちょっとお待ちください」と言って、向こうにいる誰かに向かって叫んだ(送話口押さえてないから丸聞こえ)。「なんか○○が××だからって言ってんだけどよー」。文字じゃニュアンスがちっとも伝わらないのが残念だが、その抑揚が思いっきり東北訛り丸出しで、不機嫌だった私はとたんに嬉しくなってしまった。昔は東北弁なんて重苦しくてヤダと思ってたのに、この頃妙に好きになってきている。若い女のコの東北弁なんか可愛くってたまらない。
さて。私は今祈っている。一心不乱に祈っている。あと1ヶ月の間だけ、どうかどうか北陸に仕事が発生しませんように。今のまま、担当者が現地に行く必要がないままなら、旅費会社持ちで私が金沢に行けるのだ。しかし私の仕事は「ついで」でもできるので、他の誰かが行くコトになったら横取りされてしまう。ああ。行かなきゃいけないのは金曜日なのである。宿泊すれば土日金沢居放題ではないか。もちろん交通費以外は自腹になるが、金沢までの交通費が浮くだけで大きい。ぜひこのチャンスを掴みたい。だって金沢といえば泉鏡花!室生犀星!徳田秋声!…はどれも知らないけど(泉鏡花原作の舞台やマンガはかろうじて)、波津彬子さんである。坂田靖子さんである。『どいつもこいつも』の岡二曹の実家のある街である。しかも冬。雪の金沢が見られるかもしれない。行かいでか。
つか、この仕事横取りされたらマジ泣きします。観光案内見て、宿泊施設調べて、美味しい店の情報仕入れて、もうすっかり行く気になっているんだから。
冬鼓撃沈。詰め物落とした歯は下品なギンギラギンの奥歯に変身しちゃいました。泣ける。芸能人じゃなくたって歯が命なのにー! おまけに詰め物なくしてた間に噛み合わせがズレていたのか、それとも出来た銀歯のサイズが今イチなのか、妙に違和感ある。顎関節症持ちにゃツラい。顎が痛い。明後日から休みの間ずっと違和感が続くようなら「合ってない」と判断し、休み明けに更に削ってもらわなくちゃ。銀歯を。…考えるだけでイヤだわ。あの音が。
さらに反対側の歯は相変わらずびんびんに凍みる。東京に戻ってからほんっとロクなモノ食えてません。でも歯医者に言ったら虫歯にはなってないと言うの。確かに痛くなったのも急だし、虫歯というより「歪みがでた」とかそんな感じではあるんだけど。でも「んーしばらく様子見てダメだったらこの親不知抜きましょう」と言われた親不知は犯人じゃない気がするんだよなー。歯医者、変えた方がイイかしら。親切だし下手でもないと思うんだけど、上手くもないかも。い、いや別に親不知を抜くのが怖いワケでは…。
しかしここ数日ほど、自分の食に対する執着心を強く感じたコトはない(知ってたけど)。痛くて痛くてじんじんするのに、それでも「くっそー、負けるか! 何が何でも食ってやる!」と思ってるんだもの。噛めば噛むほど凍みるのだけど、ぐずぐずに煮込んだうどんとか雑炊とか白いパンとかゼリーとか、何かしらはちゃんと胃に入れている。逞しいというべきか浅ましいというべきか。少なくとも「食べるのがメンドくさい」って理由で栄養失調になる可能性はほとんどないわ。
全然関係ない話。最近『鉄塔 武蔵野線』という本を読んだせいで、田舎への行き帰りの道中、やけに鉄塔が目に入った。気付くと「これは女鉄塔、あっちは男鉄塔」とか「これはどこまで続くのかなー」とか「田舎の鉄塔ってホントに入り放題なんだ」とか考えてる。読んだものの影響で、今まで気にもしていなかったものに目がいくようになるってのは悪くない。うん、全然、悪くない。
正月明けに届いていたメールで、過去に選ばなかった道を「もしあのときああだったら」とぐだぐだ思っていても仕方あるまいに(実際に現実を変えるべく行動するなら別だけど)、と考えている最中、ふとつい最近読んだマンガの内容がこれと同じ感じだったと気付き、それがどのマンガだったか思い出すまでもやもやしてしまった。帰省中に読んだ名香智子の『パートナー』で、フランツと茉莉花がそっくり同じような会話をしていたわ。やっぱ女の方が切替が早いもんなのかも知れんわね。
ま、面倒なコトは置いておいて正月話。年末年始は父母と妹と妹分と5人で朝から晩まで飲んでLotRの1部と2部のSEE版上映会をして散歩してるうちに終わってしまった。去年の正月は雪があって寒かったけど、今年は雪の欠片しか見られず暖かな正月。猪の足跡が追跡しづらいせいか正月早々殺生をしようという猟銃持ったおじさんたちにも邪魔されず、山の中の散歩道をふらふら歩けたのだった。落ち葉がふかふかして気持ちのよい道は秋のよう。去年歩いた30分のショートコース以外に、ロングコースもできていた。あちこちにお弁当を食べるのに良さそうな倒木があって、もう少し暖かい時期にまた歩いてみたくなる。山桜の季節もいいなー。何本か大きな山桜の木があったから。しかし川の水量が少なくてちと心配。この先ちゃんと雪が降ってくれるとイイんだけど。
あと、今回は(も?)運転をガンバった。ここんとこ帰省するたびに会えるのが嬉しい高校時代の部活仲間たちとの会合のためである。日常的に車に乗ってる方には分かるまいが、私にとっちゃ未だに運転は一大事なのだ。なんせハンドル握るたび冷や汗かくんだから。今回はいろいろと“初めて”をやったので、疲れ方もひとしおである。まず、「人の車にくっついて走った」(何人たりとも私とYちゃんの間には入らせない!って意気込みで。周りの景色、全然覚えてません)。「80km以上出した」(高速教習以来。100kmは未知の世界だ)。「自力で車線変更した」(田舎道は一本道なのよー。東京では助手席の教官や父に「今だ!」と言われなきゃできなかった)。おまけに今までの運転最長記録(でも100km未満)。さすがにちょっぴり自信がついた気もする。つきあって抑え目のスピードで走ってくれた友人らに感謝。おかげで事故らず帰れたよ。
今回すっっっっごく久々に、何年ぶりかに顔を合わせた人もいるんだけど、その空白の間にどビックリなコトを成し遂げていて、しばらく言葉が出てこなかった。いやでも「らしい」。住む場所が離れちゃったり結婚したり子供を産んだり、境遇や生活は変わったけど、でも相変わらず皆、「らしい」。そゆのってイイよね。ものすごく。
喪中のため新年のご挨拶は自粛いたしますが、今年もよろしくお願いします(←ってのは、イイよねえ?)。
昨年29日から帰省していて昨日東京に戻ってきたのですが、戻ってきた途端に歯を痛めて悶え苦しんでおります。いや田舎で歯の詰め物が取れてしまったのですよ。痛くはなかったのだけど、違う方で噛んでた方がいいだろうと反対の歯を酷使していたら、何かの拍子にそっち側がひどく痛むようになってしまいました。食事をはじめて5分もすると痛み出して味わうどころではありません。今では取れた詰め物なんかより、そっちの方がよっぽど問題。さっさと治してしまいたいのだけど、痛すぎてどの歯が悪いのか分からない。ひーん。食い意地張りの助には拷問のようです。
新年早々辛気臭くてすみません。昨日までは「ああなんてハッピーなの私ってば。今年もおめでたく生きよう!」とか浮かれていたのに。食事を楽しめないのがツライのです。目が人間の眼(まなこ)なら…じゃなくて心の鏡なら、歯は人間の礎ですな。とりあえず、生きています。