今度の4連休に時間が取れたら『The Lord of the Rings』の吹き替え版を見にゆこう、と思っていたのに、やっぱダメになってしまいました。こやって文章書く時間はまだあるのですが、まとまった時間が取れません。好きで忙しくしているのだから文句をいう筋合いではないけど、それでも“遊ばないストレス”は溜まるのですよねー。てか吹き替え版が上映終了になってる映画館もチラホラ見かけるようになり、見にいけるようになったときにはもう吹き替え版はやってないんじゃないかと不安です。
さてドロ沼劇場に山口美由紀さんを追加。新刊読むと書く弾みがついちゃいます。
忙しくなるといつも遊べない分物欲が増すんですけど、今回はちょっと方向が逸れて、なんだかとってもADSLに入りたくなって困ってます。とにかく憧れの常時接続! …って家じゃそんなに長時間ネットやってないし、大きなファイルをDLするコトもあまりないんですけどね。でもオンラインゲームやりたいしさー、チャットもやってみたいしさー、プロバイダへの接続料金にちょっと上乗せするくらいでOKだしさー、アッカで判定したら8Mオススメって結果が出ちゃったしさー、うちは未だにアナログだしさー、それどころか毎回電話線引っこ抜いて接続してるんだしさー、重たいサイトは多いしさー……やっちゃおうかな……。←や、何で飛びつかないのかというと、買い物面倒とかやり方調べるの面倒とか、そんな怠惰な理由と、あと、歯止めがきかなくなるのが怖いから…。
人形の国のアリス、コンプリート(予定)! 友人から更にも1つもらえるコトになり、アーンド「譲りましょう」との予期しないお申し出を頂き、びっくりするやらありがたいやら。いや、ありがたいです、嬉しいー。ああこれで枕を高くして寝…られないんですよ、今。布団が気持ちいいシーズンなのに。昨夜も調べ物があって3時すぎまで瞬きも控えめにTV画面を睨みつけ、繰り返し繰り返しビデオを見ていたので、目がしょぼしょぼ。ヒドイ顔になってます。やりたいコトとやらなくちゃいけないコトが山積みで、生活費を稼がないワケにはいかない以上もう睡眠時間を削るしかないのだけれど、私は寝ないと途端に壊れるのだよなー。睡眠が3〜4時間でも大丈夫な人には、この時点ですでに引き離されている気がします。
あ"あ"あ"あ"あ"あ"…。どんどん悲しくなってゆく『指輪物語』字幕翻訳問題。「魅惑のFotR日本字幕版」で指摘されているとおりにシロツグさん(4/23)も末上さん(4/25)も誤解されたそうで…お二人の映画の第一印象を読むと、頭抱えたまま突っ伏してそのまま地面にずぶずぶ沈みこんでゆくような気分になります。サムの献身に涙したのも、ボロミアが悪人だとかデネソール(ボロミアの父)が故人だとか思わなかったのも、ゴンドールの国の状態を把握できたのも、全部全部私が原作を読んでいたからだとは。「まだ友情があるだろう」で椅子からずり落ちなかったのも、脳内フィルターを通して適当な台詞に変換していたからだとは(←こんな台詞があったの覚えてないんだもの。あんなに一生懸命見てたのに)。…原作読み込んでる強みで、それほど字幕を鵜呑みにしないので済んだのですね、きっと。
それにしても末上さん…「ボロミアがフロドをレイプしようとしてんのかと思った」って…!!! あーん、誇り高いボロミアが…ボロミアが…(でもちょっと笑った。ごめんボロミア)。戸田さん、恨まずにはいられませんよう。あそこのシーン、確かに原作を知っててもちょっと唐突に見えましたけど、DVD化されるときには「ボロミアとアラゴルンが言い争い、フロドが旅の仲間の離散を予感する」って前振りのシーンが、ちゃんと入るそうです(情報元:eiga.com)。でもなーあの字幕じゃなー。一度気になったらもう無意識に変換して楽しむのはムリですよー。頼むからファンの声を聞いてーっ。
みなさま、よろしければゼヒ字幕改善署名活動にご協力を。微力ではありますが、当面バナーを貼って意思表示するコトにいたします。
今年のG.W.はちっとも遊べないようだ。いい気候なのに、多分連休のほとんどを屋内に篭って過ごすコトになる。ああ遊びたい呑みたい喋りたい〜っ。/…さて以下、ちょいと暗めのぐちぐち自分語り。
なんかね、突然ですけど、もう止めよう、と思いました。思えました。今まで自分でも全然整理できなくて、今も整理できてるかどうかは微妙なんだけど、頭ではわかっていても気持ちが納得してくれなかったコト、それでクヨクヨするのはもう止めよう、と。
白状すると、私の自己評価って、意味もなく高いんです。自分のイヤなところは山ほどあるし、自分が人並みはずれて優れていると思っているってのとは、また違うんですけど、でもナゼか根拠のない自信に満ち溢れている。落ち込んだりしても、どこかで「でも大丈夫」と思っています。たとえ何が起ころうが、一時的に悪い状況にハマろうが、まあ何とかなるだろう、と。そうゆう意味では自分を信じているし、すごくお気楽なのです。キライな人や、どうでもイイ人の前でも、その評価は崩れません。てか、そうゆう相手には影響受けないんです。だいたい私は好きな人に会いに行くためなら何時間かけても苦にならないのに、どうでもイイ人のためには隣の駅に行くのも面倒くさいとゆう、非常にわかりやすい人間ですので、自分の関心のない人たちによって自己評価が変わるなんてありえません。女王さまとお呼び、というくらい傲慢です。まあ向こうも私のコトなんか気にしてないでしょうが。
ところが相手が好きな人になっちゃうと、途端にこの強気な態度が崩れます。あんまり表面的には出しませんが、内心けっこう弱気です。説明しづらいんですが…一緒にいて楽しくて、刺激をもらって…といろんな点で、相手に一方的にもらってばかりの気になっちゃう。自分も相手に有益であるとは思えないんです。…うーん何か違うな。こう書くとやたら理屈っぽい感じ。貸し借りで考えてるみたいだし。それも違うんです。「あなたがこれだけやってくれたんだから、私もこれだけやってあげる」ってのは違います。それを裏返した「私がこんなにやってあげてるのに…」って言い方はキライですし。ただやはり、基本的にいい人間関係は対等でなくちゃ成立しない、とは思ってます。で、どうしてもその実感が持てないのです。ここで自己評価がぐぐっと下がってしまう。わかりやすく言うと、好意を持ってもらっても「私はそんな好意に値するほどの人間じゃない」と思っちゃうのですねー。やだやだ。
褒められてもそうです。ちょっと面映いなんてレベルじゃなくて「いや、あなたは過大評価してるよー」とついムキになってしまいます。謙遜じゃなくて本気で。好意を持ってもらった場合も、褒められた場合も、自分の実力以上の評価だと思っちゃうので、いつか私の本性がバレたときに呆れられるに違いない、と不安になります。言葉にするほどはっきり考えているワケじゃないですけど、漠然と。だからムキになって「いや私はそんなたいしたもんじゃ…」と言っちゃうのです。
けっこう前から、自分のこの態度は問題だなーと思ってて。だって相手にも失礼な話じゃないですか。信じていないみたいで。そうじゃなくて信じてないのは自分なんだけど、でも「同じコトじゃん。具体的にどこが違うの?」と聞かれれば、ちゃんと説明できはしません。自分自信に対しても、こんなコトで卑屈になっていて、何のいいコトもありません。相手に何されたワケじゃないのに勝手に不安になって、寂しがって、ばかみたいです。だいたい、こんなに自分のコト、自分の評価ばかりを考えちゃうのが自意識過剰でイヤです。
この辺、頭ではわかっていたのですよ。でもそう考えていても思えなくて。それでも、以前は口にさえできなかったのに、次第にココで書いたり(読んでくれた方、ありがとう)人に言ったり(聞いてくれた方、ありがとう)できるようになって、自分でもいろいろ考えて…そして、長く長くかかりましたけど、とうとう飽きました。ええ、同じようなコトでくよくよ悩むのは、もう飽きました。フォントを変えてもう一度言っておこう。飽きました。もう十分だと思います。うんざりです。だからもう止めます。
てね。そう決めても揺らぐコトはあると思いますけど、方向性は決まりました。とりあえず「飽きた」と言えたのが第一歩。褒めてもらって素直に「ありがとう」と言えるように、変に卑屈にならないように。迷路にハマりそうになったらココを読み返して「あんた飽きたって言ったじゃん!」と突っ込もう。おう。
『ホテル・ニューハンプシャー』について昨日書き忘れたコト。フラニーのように子供を産めるってのは、ホントにホントに幸福だと思う。産むだけ産んで育てるのは人任せってトコロじゃない(あの物語を読んでそう思う人は少ないだろうけど、一応)。そうじゃなくて、子供の所有権を主張しあうんじゃなくて、一緒に愛していくコトができるなら、子供の周りにはなるべくたくさんの人間がいた方がいい。その周囲の人たちと親が、お互い“ちゃんと話ができる”同士なのは外せないけど。
さて。書いてなかったけど熱が冷めたワケじゃありませんの人形の国のアリス。「手をあげるアリス」と「にせ海亀」の2種類を残して、順調(?)に集まっている。友人から3種類もらう約束になっているが、自力でも13種類集めた。24箱買って。つまり11個はダブり。これって打率悪すぎ? 友人はほとんどダブらないでもうコンプリートを達成しているというのに。残り種類が少なくなったので、この後も更にいくつかダブると思われ……貧乏なのに、こんなコトやってていいのかしら。…違うか。こんなコトやってるから貧乏なんじゃんねぇ。
ジョン・アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』読了。彼の本を読んだのは『ガープの世界』に続き、これで2作目(有名で名前は知っていても未読の本って、私には山のようにある)。『ガープ』の感想は「わかるようなわからないような…でも惹かれる部分はある」って感じだった。設定が設定なので素直な感情移入はしにくいが、ぼんやりと書きたいものは感じ取れた気がした。あくまで、気がした、だけ。『ニューハンプシャー』も途中までは似たようなものだった。でもかなり「わかる」方に近づいてきていた。状況はやっぱり特殊だったけど、物語の語り手であるジョンを、遠いとは感じなかった。
そして終盤部分、ジョンの姉フラニーが自分をレイプした犯人に復讐する辺りからラストにかけての部分で、ぐぐっと引き込まれてしまった。レイプ・テロ・同性愛・近親相姦・死(自殺含め)…と、重たく、救いようのない話になりうる素材を扱っているのに、この優しさはなんだろう。こんなに優しい物語はそうそうない。こんなに強い物語はそうそうない。深く深く深く傷ついてもお互いに手を伸ばし支えられる、乗り越えられる、“おとぎ話”を紡ぐコトができる、というメッセージ。…いや、願い。切ない優しい強い願い。そんな願いを投げかけられたら、たまらなくなってしまう。
「そのようにぼくたちは夢を見続ける。このようにしてぼくたちは自分の生活を作り出して行く。」「夢を見続け、そしてぼくたちの夢はそれをありありと想像できるのと同じくらい鮮やかに目の前から消え去る。(中略)そしてそれが起ることであるから、ぼくたちには、利口な、よい熊が必要なのだ。」 −『ホテル・ニューハンプシャー』より−
私にも利口な、よい熊が必要だ。いつか持てるだろうか。それともすでに持っているのだろうか。
詳しくは書かないけどまたまた貴重な経験をして「大金が手に入ったら」妄想ネタを手に入れたり、詳しくは書けないけど思いがけないトコロから反応があって「ネットって怖いなー」と実感したり(このサイトとは全然関係ない話。トラブルでもない。)しながら、友人たちと雨の週末を過ごしました。盛り沢山で疲れたけど最後に温泉に入ってきたのが効いたのか、月曜にしてはちゃんと起きられました。雨の中の露天風呂もまたよろし。
シロツグさんトコのBBSから飛んだ指輪物語翻訳問題のサイト。ここを見る以前からやたら字幕版の悪評が耳に入るので(私はあんまり気にならなかったのですが)、「2度目は吹き替え版にして比べてみよう」と思ってはいたのです。でも第2部の予告編が字幕版にしか入らないと聞き、そっちも観たくなって揺れていて…。だけどココ読んでやっぱ次は吹き替え版にしようと決めました。
読んで改めて気付いたんですが、上記のサイトで指摘されている誤訳箇所を、私は脳内で変換して映画を楽しんだようです。前にも「説明が足りない場所は全部脳内補完した」と書きましたが、同じように「あれ?」と思う翻訳も、勝手に補ったり変換させたりしてたみたい。英語が聞き取れるからではなく、原作を知っているから出来た技です。それでも「あの言葉は原作に合わせて欲しかったなー。戸田さんって原作読んでないんだろうなー」ってのはありましたし、ボロミアの死の場面の出来は「原作ほどじゃなくて残念だなー」と思ってました。それが誤訳に起因するものだったとは、この指摘を読むまで自覚してませんでしたが。それに角笛もね。大事な小道具なのにね。
ボロミアの死のシーンって、すごく好きなんです。長い期間、王が不在だった国の執政の嫡男として生まれ、誇り高く強く、故に頑迷で人の下に立つのを潔しとしない面もあって、弱い…って人物設定も人間らしくて好きで、指輪の魔力に負けてしまった彼が、せめて“小さい人たち”を守ろうと命を賭け、最後の最後にアラゴルンに後を託すあのシーンは、涙なしには読めません。そんな人だからこそ、メリーやピピンに慕われるんですよ。映画版でもメリーとピピンに剣を教えてるシーンがありましたよね。死の場面がちょっと残念だっただけに、“小さい人たち”との関係を垣間見させてくれる、あのシーンが入っていたのは嬉しかった。そう、ボロミアは悪人ではないんですよ!
更にも一つ。これ読んで初めて「原作読んでない人の目線」が少〜しだけ分かった気がします。な、なるほど、その辺で引っかかるのか〜って。なまじっか原作を読み込んでいると違う目線で見るのは難しいと思っていたのですが、私の場合は極端なのかも。サイトの管理人であるサックビル=バギンズさんは、私よりもよっぽど原作を読み込んでいるでしょうに、ちゃんと違和感を感じ取れるのはスゴイなーと思いました。無意識に補完しちゃうのも良し悪しですわ。これからはあの映画を駄作呼ばわりする人に、もう少し優しくなろうと思います。
…でも知らなかったわ。日本にもこんなにファンがいっぱいいたのね、『指輪物語』ってば。嬉しい!
今、目次から日毎に飛べるように日記の過去ログの整理をしていて、ついでCSS使ってみたりイロイロいじっているのですけど、そのせいで何ヶ月分もの日記を一気に読み返して、ちょいと恥ずかしい気持ちになってます。…だって似たようなコトばっかり書いているんですもん…。定期的に落ち込んでは、美味しいものを食べるか/面白い芝居を観に行くか/友達に会うかして立ち直る、の繰り返し。しょっちゅう「こんな怠惰じゃいかん!」だの「もっとガンバろう」だの書いてるし。同じようなコトで迷ってるし。ひーん進歩がないよぅ(←ってのも、きっとどこかに書いてあるに違いない)。1年ちょい続けてやっと過去ログ消したくなる人の気持ちがわかりました。まだ消さないけど。
願わくば輪に沿って同じところをグルグル回っているじゃありませんように。そう見えても、実はほとんど目に見えないくらいの傾斜がついた螺旋状のところを回っていて、気が付くと登っている…なんて風だといいな。てか、そう信じなくちゃ、やってけませんがな。
ここ最近ぱらぱら読みしかしてなかった氷室冴子さんの『ホンの幸せ』を読んでいたら、「見知らぬ街にたつと、今ここで私が心臓発作をおこして倒れても、それはただひとつの死で片づけられるんだろうなと思う。それが清々しい感じがして、いい。」って文章が出てきて、ちょっと驚いた。というのも、こないだ1人旅で見知らぬ田舎道を歩いているとき、不意に「もしここで私が車にはねられて死んじゃったら、すぐには身元が分からないだろうなー。ふふ」って考えが頭に浮かんだからだ。直後、「ふふ? ふふって何? そうゆう…人知れず死にたいとかって願望あるワケじゃないよねえ?」と自分でびっくりも、した。そう。別にそんな願望はないと思うのだが、でもそのときの、ふっと身軽になるような感じは、確かに心地よかった。
だから上記の文章を読んだときは「はあー、同じようなコトを感じる人がいるんだなぁ」とまず思ったのだけど、考えてみればその本はすでに何度か読んでいて、私はとっくにこの文章を目にしてるハズなのであった。てコトは、ひょっとすると影響受けたのかもなーと思いつつも、たいして気にせず読む進むと、今度は少女マンガについて書かれた文章が出てきた。ここでまたハッとした。確か私も同じようなコトを日記に書いた覚えがある。ありゃ。
まあ私が氷室さんに影響を受けてるのは間違いないし、「自分本来の考え」なんて言ったって、そんなのは周囲からの影響を受けつつ培われるものなのだから、別に影響受けててもいいのかしら…、でもたった1人の人に片寄るってのはどうなの? そもそも、もともと似たような考え方を持ってる人だからその文章に共感しただけなのか、それとも影響を受けすぎちゃって他人の考えをそっくりコピーしてなぞってるだけなのかってのは、どこで見分ければいいんだろう、その境界は難しいよな、氷室さんの文章読んでの感想は「こんな考え方があったなんて!」って感じじゃなくて、「そうそう、これが言いたかったんだよ!」なんだけど、それじゃ証明にならないかしら……。
なーんてぐるぐる考えながら更に読む進むと、トドメとばかり、「読みすすむうちに、いつのまにか自分の体の中に沁みこんできて、「そうそう、私もそう思ってたのよ。どうして、こんなにピッタリ同じこと、考えているのかなあ」とあらぬ錯覚、誤解をしてしまう 」って文章が出てきた。彼女は田辺聖子さんのエッセイのコトを言ってるんだけど。でも、うわ! なんだか思考のパターンを読まれてるようで、こうなるともう力なく笑うしかない。うーむ、自分の感じ方とか考え方とか言ってても、案外頼りないものだよなあ。……て、一番頼りないのは、何度も読んだハズの本の内容をきれいさっぱり忘れてこんな風に感じてる、私の記憶力かも……。
昨日「カウンタが壊れて直し方がわからない、困った」と書いた日記をアップして、30分後にはカウンタが復活していた。や、それまでもイロイロやってみてたんだけど、全然上手く行かなくて、こりゃ問い合わせした方が早いかしら、確かパーミッションの変更とかよく分からなくてやってもらったんだよなー、と思いながらも、聞く前にもう一度だけやってみるべぇといじったら直っちゃって、あら日記アップしちゃったよ、カウンタ壊れたとか言いながらカウンタが動いてるのってどうよ、と迷ったけど、どうせ気がつく人もそうそういるまいと放っておいたら、そんな時に限ってテキスト風聞帳に取り上げてもらって、おかげで直ったばかりのカウンタが順調に回り、なんか申し訳ない気分に…。
さて。人形の国のアリスを買おうと、いそいそと会社近くのコンビニに寄ったのに、影も形もない。「ここで扱ってないと毎日買えないなぁ」とちょっと足を伸ばしても、見つからない。ムキになって会社帰りに近所のコンビニからスーパーから、思いつく限り全部回ったのに、ない。ナゼ!? 関東発売でしょ? うちは関東じゃなかったの? ひょっとして人気で売り切れ? がーん。しかし無いとなると欲しくなるのが人情で、物欲は募るばかり。やっと10軒目のコンビニの棚にあるのを見つけたときには、両手で品物を引っさらってしまった。と言っても4つしかなかったんだけど。しかも1個ダブリ。しかし出来は…ごめんグリコ、あんなに夢中になっておきながら何なんだけど、君の負けだよー。今回のはダブっても全然OKなんだもの。魚の召使い、2つ並べると超可愛いです。めろめろ。
ああ、食玩なんて興味なかったハズなのに! グリコに続いて今度は人形の国のアリスにハマりそう…。昨日友達が買ってて、中から出てきたハートの女王の出来の良さに惚れ、その場で「あたしも買うから、ダブったら交換しようね!」と持ちかける羽目に。ちなみに狙い目は蛙の召使(ペアの魚もいいなー)とハンプティ・ダンプティ。ハンプティ・ダンプティが友人仲間では一番人気だったので、取り合いになりそうです。…こうして人は転落していくんですね…(遠い目…)。
さて、昨日は一日中出かけていたので、日付が変わってからネットに接続したら、このウェブスペースを提供してくれているADAMからメールが届いていた。どうやら接続障害があったらしい。が、2通目のメールも届いていて、すでに復旧したようだ。ならイイや(←その時間に見に来てくれた方にはゴメンなさい)、と思ったが、よく読むと「ファイルが破損しているかも」とある。実際カウンタが表示されてない。ありゃ、困った。カウンタの設置方法なんかもうすっかり忘れてる。どうやったんだっけかなー。
でも全然怒る気になれないのは、ちゃんとユーザ1人1人にメールで障害を知らせて「ごめんなさい」と言ってくれたからである。これって有料のサービスでは当たり前なんだろか。今まで無料サービスのいい加減なサポートでヤな思いしかしてないからなぁ。他の有料サービスは知らないが、何か問い合わせても必ず約束の期限内に返事がくるし、なかなか当たりなんではないかと思う。しかし何のサービスにしろ、トラブルを起こさないように努力するのはまず当たり前だとしても、万が一トラブルを起こしてしまった後の対応の仕方で、こっちの印象は大きく違うんだなーと実感。ニュース沙汰になるのは、ちゃんと対応できないトコロばかりだもんね。
で、とりあえず破損していた「雑文」と「まんが」は復元しました。一応全部チェックしたつもりですが、もしどこかおかしいトコロに気付いたマニアな方は、ご一報いただけると嬉しいです。問題は…カウンタの設定の仕方がどこに書いてあったか思いだせないコト…。
稲本正さんの『木の聲』を読んで、以前みたTV番組を思い出した。なんせ数年前に1度見たきりでウロ覚えなので、間違いがあったらごめんなさい。この前からこんなんばかりね。
番組は、明治神宮の杜がどう作られたのかってドキュメンタリーだった。確かNHKだったと思う。あの杜は当時海外(ドイツ?)で実践されていた森林計画の技術を学んだ人が計画したもので、明治神宮の中だけで生態系が成り立つようになっているそうだ。最初にまず成長が早い何とかと何とか(木の種類)を植えて、次にその木々が作る日陰で育つ種類の木が出てきて、さらにその落ち葉で栄養をもらった土地から何々が生えてきて…と何十年の単位での木々の世代交代までちゃーんと長期的に考えられていて、初めは針葉樹の林だったのが、やがて豊かな広葉樹の杜になるハズである、と。全部計画的に「自然な美しい杜」を作ったのだと。参道から掃き集められた落ち葉は、今でも捨てたりせずに木の根元に返すのだと。そんな番組だった。
その当時私は小田急線沿線に住んでいて、明治神宮にもたまに行っていたので、これを見たときはちょっとびっくりした。あの杜がそんな風に作られたなんて知らなかった。もともと森があった場所を拓いて神宮を建てたのだと、それまで漠然と思っていたから。でもこの番組で、なるべく人の手を必要としない「バランスの取れた美しい森」を作ろうとした人たちがいたって話を知って嬉しくなった。同時に少し悲しくなった。だって明治神宮が作られたのは明治天皇崩御の後だから、大正時代。そんな前からこうゆう考え方や技術があったのに、今現在その考え方を身近に感じられるかというと…答えはNOだから。ちゃんと活動を続けてる人はいるんだろうけど、積極的に知ろうとしない限り、あまり耳には入ってこないと思う。
私はド田舎で育った。家は山に囲まれていて、その山はウチの敷地ではなかったけど、誰も入ってはこなかったので、その景色はウチのもの(って感覚)だった。山には各種の広葉樹が生えていて、季節の移り変わりごとにその色を変えた。雪が融ける頃の山は茶色の枝ばかりが見えていて寒々しい。そこに新芽が出てきて、山は優しい柔らかい緑に装いを変える。ところどころに山桜、梅、桃の淡いピンクが混じっている。緑はだんだんと強く鮮やかになってゆき夏を迎える。気の早い木々はこっそり紅葉を始める。何の木だか、白い花をつけている。寒くなると黄や赤の色が勝ち始め、やがてまた茶色の山に戻り、雪が降る…。
私は山を見ているのが好きだった。季節による木々の色の変わり方は変化に富んでいた。他の木々が葉を落としているのに、その中でそこだけ緑色を残す針葉樹も、アクセントになっていた。何度季節を繰り返しても飽きない眺めだった。その山が、伐採された。ありがたいコトに全部ではなかったが、伐採された後には針葉樹だけが植えられた。景色は途端にツマラナイものになった。敷地内を流れる川にも影響が出た。山にいた生き物たちはもっと奥に行くか、あるいは逆に人家に近づくようになった。とても悲しかった。
成長が早く建材になりやすい針葉樹は、短期的に見れば利益をあげてくれるのだろう。でも人工的に作られた針葉樹だけの森はツマラナイ。そしてどこか不自然だ。『木の聲』には、自然の保護と林業とは両立するとあった。長期的に見れば、広葉樹も混じった森を育てた方が豊かになれる。そうゆう森に増えて欲しい。人間1人が呼吸する酸素を供給するのに16本の木が必要だそうだ。車に乗ったり電気を使ったりの生活をするためなら、280本以上。これを読んで、私も木を植えてみようかと思った。「環境問題を考えてる人が陥りがちな悲観的な未来観」から、そろそろ卒業したいもの。東京でもできるのかしら。私今まで植物いくつか枯らしてるのに…。何にしろ勉強が必要だけど、でもできるならやってみたい。
とココまではマジメな話。ココから妄想女王の本領発揮します。私は「宝くじが当たったら…」ってときどき真剣に考えます。お金はもちろん欲しいけど、あんまりお金を持っているコト自体に喜びを感じられるタイプじゃないので、「3億円なら、自分にいくら。これは何々に使って。あとは親にいくら。あの人にいくら…」と使い道から分配まで、いろいろと考えるワケです。金額によっていろいろバージョンがあります。さらに妄想の中で金額を吊り上げてみたりもします。5億円なら…10億円なら…と。だけどあんまり金額が大きすぎると、どうしたらイイか分からなくなっちゃうんです。使い切れなくて。海外に別荘持つくらいしか思いつかない。
だけど、この本読んで相当費用がかかりそうな使い道が一つ増えました。島か山を買う! 開発で森が失われてしまったような場所。で、専門家を呼んで勉強させてもらって、そこに緑の森を蘇らせるのです。明治神宮みたいに100年先を見越した計画立てて、木を植えるの。20年もすれば途中経過でも成果が見える(そうです)。ああステキ…うっとり。大金を手に入れたら仕事を辞めるかどうかってのが私の悩みのタネだったんだけど(←ばか)、これなら仕事辞められるなー。1人じゃできないプロジェクトだから、そっちで外界とかかわりたいって欲求は満足させられるし、体を使う仕事の方が好きだし。
…って地道な努力を続けてる方々から怒られそうだ。とりあえず私はドングリを拾ってくるところから始めるくらいが分相応でしょう。いやまずは何ができるんだか調べなくちゃ。あ、あと本に出てきた屋久島と宮崎県の綾渓谷にも、そのうち行ってみたいです。
『蝶々夫人』と『ミス・サイゴン』行きまーす。まずは粗筋のおさらいから。両方とも舞台を1回ずつ見ただけなので、細かい点は違ってるかもしれませんが…まあ大筋は合ってるでしょう。
『蝶々夫人』の舞台は明治初期の長崎。日本に駐在しているアメリカ海軍のピンカートン中尉は、日本娘の蝶々さんと結婚します。彼にとってこの結婚は正式なものではなく、最初っから捨てる気ばりばり、期間限定のモノでしかありません。だから際限なく甘い言葉を囁いておいて、任務が終了したらさっさと祖国に帰って、アメリカ娘のケイトと結婚しちゃうのです。蝶々さんのことは「きっと今ごろ新しい夫を見つけて楽しく暮らしているさ」と考えています。ところが蝶々さんは正式に結婚をしていたつもりで、ピンカートンが本国に帰った後も彼を待ちつづけます。子供も産んじゃいます。数年後ピンカートンはケイトを連れて日本を訪れます。そこで初めて蝶々さんが自分を待ち続けていたコトを知ったピンカートンは深い後悔の念に駆られます。一方、蝶々さんもやっとピンカートンの気持ちを知り、ケイトの存在を知り、「名誉ある死を」と自害してしまうのでした…。
『ミス・サイゴン』はその『蝶々夫人』の舞台を、ベトナム戦争時のサイゴンに持ってきた物語です。アメリカ兵士クリスは娼婦キムと恋に落ちます。キムの初めての客がクリスだって辺りがあざといです。2人は周囲の反対を押し切って結婚。しかしサイゴン陥落の折、アメリカ兵クリスはヘリで脱出しますが、キムは混乱の中で置き去りにされてしまいます。そのときキムはクリスの子を妊娠してます。アメリカ帰国後、クリスは戦争の後遺症で心を病んでしまいますが、アメリカ娘エレン(幼馴染だったかなー)に手厚い介護を受けて立ち直り、アメリカで生きてゆく決心をしてエレンと結婚します。しかしキムのことは忘れられず寝言で彼女の名前を呟いて、エレンを不安に陥れます。キムはサイゴンで生きのび、子供を連れてアメリカに渡るため、難民となってまずバンコクに行きます。そこで子供の存在を知ってやってきたクリスとエレンに会うのですが、自分がいては息子を引き取ってもらうこともできないと悟ったキムは、息子をアメリカ人として育ててもらうために、自らの命を絶つのでした。そしてクリスとエレンは「邪魔者が死んじゃってラッキー」と…。ごめんなさい、これは嘘。でもそう見えるのよねー。
さてこの話題、昨日の「『フレンズ』のロスに苛つく」って話から繋がっているんです。ナゼかとゆうと、彼が自分の不幸に酔い、「こんなにもツライ僕」を喧伝して人を傷つけ、周囲の人に気遣ってもらうのを当たり前だと思っているからです。私はこうゆう態度が大キライです。ですから上の例で行くと、私がムカツクのは「蝶々さんとは遊びよ遊び。ここにいる間だけ楽しく遊んで、ちゃんとした結婚はアメリカ娘とするのさ」ってピンカートンではなくて、「キムを愛してる。あああの時キムを連れて帰れさえしていたら…。でもアメリカに戻った僕を支えてくれたのはエレンだし、彼女も愛してるんだよぅ」ってクリスなのでした。妹にそう言ったら「そっかあ? どっちもどっちじゃん」と言われました。や、私も別にピンカートンが好みってんじゃないんです。どーしてもどっちかと対峙しなくちゃいけないのなら、ピンカートンを選ぶって程度です。
そりゃピンカートンはバカです。自分が去ったあと蝶々さんが「シアワセにやっているだろう」と信じていられる…待っているかも、と想像もしないなんてのは、「あんたの方がシアワセもんだよ!」って感じです。でもこれは仕方ないのです。だってピンカートンにとって、蝶々さんは人間じゃないんですから。金で買ったちょっとキレイな珍しいおもちゃで、飽きたらポイするものなのです。「愛の日々」とか言っても、所詮おままごとです。遊びの時間が終わったらおもちゃ箱に放り込んで忘れてしまう程度のものなのです。もしも蝶々さんを人間と認識しているならば、ピンカートンはちゃんと期間限定を明記した上で、恋人(愛人?)契約を結ぶべきでした。あるいはせめて、帰国するときに蝶々さんをきっちり捨ててゆくべきでした。ついでに言うなら避妊もしておくべきでした。明治初期の避妊ってどうやってたのか知りませんが。ごめんなさい時代を無視して書いてます。
しかしクリスは恋愛して結婚したワケです。少なくとも結婚式のときは、一生添い遂げるつもりだったのです。それにしちゃ現状の認識が甘すぎやしませんか。彼は占領下とはいえ、敵地にいるのです。戦争中に。その地がずっと安全だという保証などありません。非常事態になったらどうなるのか、キムを連れて脱出できるのか、その方法は? 万が一連れて行けなかったらどうするのか? クリスは何一つ考えずに結婚したんですよ。そりゃ人間、全てを予測するなんてできません。いくら万全の手立てを講じていようが、予想を超えたハプニングは起きるもんです。だからクリスがキムと結婚したのは、まあ100歩譲りましょう。「何とかなるだろ」で行動する人は、決してキライじゃありません。どころか憧れもします。けど、予想外の事態に直面したときの対応が好ましいものならば、です。「こんな事態になるなんて聞いてない!悪いのは僕じゃない!」ってクリスみたいなタイプは願い下げです。そんな台詞があるワケじゃないんですけど。そうゆう態度に見えるのです。結果エレンもキムもシアワセにできず、自分もシアワセになれず、うじうじうじうじ。ああ苛つく。クリスとエレンの間に子供ができたときの、キムの子供への扱いが気になります。
「蝶々さんを人間扱いしてない」ピンカートンの方が、ひどく聞こえるかなぁ。それもそうなんですけどね。でもピンカートンは考えを変える可能性があると思えるのです。実際、最後には自分の仕打ちを悔やむんだし。そこでやっと蝶々さんを人間として認識したんじゃないでしょうか。でもクリスの「自分のやったコトを反省してるつもりで、苦しんでるつもりで、実際何もしない」って甘え方は、気持ち悪いです。好きな人が甘えてくれるのは嬉しいけど、自分が甘えてると自覚してない甘えん坊は、優しくされるのが当然だと思ってて、求めるばっかで、救いようがありません。ロス、君のことだ。
定時に帰れない日々が続いて疲れ気味だったので、久しぶりに『フレンズ』(第5シーズン)を借りて帰った。安心して楽しめるコメディを見て笑って、気分を変えようと思ったのだ。それなのにしばらく前から癇にさわりだしていたロスのヤな部分がますますパワーアップして、微妙にイライラする羽目に…。微妙に、というのは他の部分は相変わらず好きで大笑いできるからなんだけど。
『フレンズ』は男3女3の仲良し6人組が主人公のコメディ。そのうちの1人のロスは番組開始時にすでに“結婚後、奥さんがレズに目覚めてしまって離婚。バツイチ”という設定を背負っていて(離婚後、奥さんが妊娠していたのが発覚。子持ちにもなる)、それは全然良かったんだけど、その後仲間内のレイチェルと恋愛を始めた頃から、「コメディにしても何だかなー」な言動が多くなった。異常な独占欲を発揮してレイチェルと破局→うだうだ→レイチェルに気持ちを残しながらも、新しく出会ったエミリーと結婚→結婚式で名前を呼び間違える→エミリーと破局、と恋愛方面はことごとく失敗し、昨日見た分では部屋も追い出され、仕事も休職扱いにされ、泣きっ面に蜂状態。コメディでは「登場人物を苛めて遊ぶ」みたいなトコロがあるし、他の面子だって例外なくヒドイ目にあわされている。だからその状態がつまらないってんじゃない。問題はその不幸の連鎖に対するロスの反応だ。ヤ。キライ。笑えない。
例えば他の女の名前を呼んでしまった結婚式の後、「やり直そう」と言うロスにエミリーは条件をつける。「もうレイチェルとは会わないで」と。ロスは妻を取るのか親友を取るのか悩むんだけど、結局エミリーの提案を受け入れてしまう。その決断を責めるレイチェルに言うのが「僕もツライんだ、わかってくれ!」。……っ! 更に、「どうせなら全部はじめからやり直したい。だから今までの家具も全部売り払って。住む部屋も変えて」と要求をエスカレートさせるエミリーに、決して納得してないクセにほいほい従うし。他の面子が「エミリーの要求はちょっと理不尽なんじゃないか。そこまで全部受け入れなきゃいけないの?」と忠告すると怒りだして「君らは独身だから気楽なんだ。人が結婚生活を何とかしようと必死になっているのに、支えてくれないなんて友達甲斐がない」と言い出す始末。おーい。
ロスが必死にやらなきゃいけないのは別の部分だと私は思うので、ここで他の面子が謝っちゃったのは残念だった。結局エミリーとも破局するんだけど、交渉中は「僕が悪かったんだから」と言ってたロスが、破局後は「エミリーもひどい」に変わってて、腹立ちが倍増。「なんで僕ばかりこんな不幸な目に…(←ほとんどは自業自得)」ってグチるばかりのロスが、6人とは腐れ縁の「うんざりさせる女」代表ジャニスに、「あなたの愚痴には耐えられない」とフラれたのには快哉を叫びました。こうゆうフォローが好きだなぁ『フレンズ』は。エミリーの要求を受け入れたと、ロスに告げられたレイチェルが、ホントに真剣に怒るのも気持ちよかったし。ここで悲劇のヒロインみたいになられて「私は身を引くわ」とでも言われたら、見てるこっちが引いちゃうもの。
ああそうか。ロスが癇にさわるのは、悲劇のヒーローに酔ってるからか…。この後『蝶々夫人』と『ミス・サイゴン』について書くつもりだったんだけど、時間がなくなっちゃったので、また明日。
よんひゃんさんの「I'll be here」のこの文章からとんだ、「1行読むだけで読書感想文を書くために」。あっははー。いい。ホントに面白い。あんな感想文(『走れメロス』の)を出してくる生徒がいたら、大好きになっちゃうなあ。読んでて、飲んでたココアを吹きそうになっちゃった。その後に続く実践編も、立派っぽい感想文にちゃんとなってて、笑える。私、こうゆう口から出任せの読書感想文書くの得意だなぁ、きっと。もう宿題しなくちゃいけない歳じゃないのが残念なくらいだ。ちぇっ。
サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』読了。面白かった! フェルマーの定理
「xn+yn=zn
この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない。」
がアンドリュー・ワイルズによって証明されるまでの、3世紀に渡る歴史を描いた物語。とは言っても、難解な数学書ではない。そんなの読めない。私の数学は高校で終わっているし、その当時は知っていた公式も今は忘却の彼方。ピュタゴラスの定理「直角三角形の斜辺の二乗は、他の二辺の二乗の和に等しい。」はさすがになんとなく覚えているし、証明の仕方を説明されればついていける。でも自分で証明してみろ、と言われれば、それは出来ない。その程度の人間が読んでも、ちゃんと面白い本である。以下、斜線部は全部引用。
ただ、訳者あとがきで青木薫さんが「本書には難解なことは何一つ出てこない」と書いているのは、嘘だと思う。少なくとも私にとっては難しかったぞ。物語を読む分には難しくはない。しかし書いてあるコトを理解しようとすると、途中でついていけなくなる。この本では数学の初歩の初歩から書いてあるので、最初の方は言ってるコトが理解できるのだけど、その調子で最後まで理解しようとすると…ムリ!! だって、「私の想像では、もしもEがQ上の楕円曲線で、E上の位数3の点についてのガロア表現が何らかの仮定を満足するなら、Eはモジュラーだという証明をしようとしているのだと思う。」と言われて、わかる人が何人いる? あ、ちなみにこれは数学者が他の数学者に書いたメール。こんな文章が延々と並んでいるワケじゃないです。
でも、難しい公式は分からなくても、フェルマーの定理を巡る数々のエピソードはわかる。これがどう数学者を魅了したのか、何人もの数学者がどう取り組んだのか、そしてそこから派生した新しい数学の分野…。もう下手な小説なんかより面白い。特に「女性が数学をやるなんて!」て時代に生きた女性数学者のエピソードには泣かされた。その時代の女性は、社交界の会話に数学の話題が出たら、それに加われる程度の知識を身につけているのを期待されていたそうで、淑女のための数学手引き書も一応あったそうではある。それが面白いので、ちょっと長いけど引用。
「女性はロマンスにしか興味がないと思っていたアルガロッティは、ニュートンの発見の数々を、ある公爵夫人とそのお相手との浮わついた会話のなかで説明することにした。たとえば、お相手が重力の逆二乗則についておおまかな説明をすると、公爵夫人はこの原理の根本原理に彼女なりの解釈を加えるのだった。「わたくしこう思わずにはいられませんわ……距離の逆二乗に比例するということが……愛情においても認められるのではないかしら。それゆえ八日のあいだ離れていると、愛情は最初の日の六十四分の一になってしまうのですわ」」
どわはははー。この手引き書読みたーいっ! でもそんな時代でも、偏見に負けずにガンバった女性たちがいたってのには、じーんときちゃう。ホントすごい情熱だよなー。パズルは私も好きだし、前にも書いたように、高校の頃の図形問題なんか大好きだった。や、解けないとイライラするんだけど、解けたときの喜びったらね。きっとこうゆう数学を志す人々ってのは、そうゆう傾向(難しい問題に取り組み、それを解いて喜ぶ)をもっともっと強く持っている人なんだろうな。そう考えるとなんか親近感わくではないか。文中に何回か出てくるのが「なんてエレガントな数式なんだ!」って表現。そういや図形の問題でもいろんな攻略法があって、「そっかー、その公式を使えばもっと簡単に出来るか」って感心した覚えがある。そうゆうコトを言っているんだろうなー、と思うと「なんてエレガントな!」と言われると、自分ではサッパリわからなくっても「おおそうか! エレガントなのか!」と思ってしまう。単純。
しかし、これ読んで思ったんだけど、私、論理の矛盾やらパラドックス(ん?同じ?)を考えるのって、ホントだめだ。すぐに頭がこんがらがっちゃう。だってさ、あの有名な問題「A点からB点まで矢を射るとする。矢はまずA点からB点までの半分を進む。さらに残りの半分を進む。さらにまた半分進む……という過程を繰り返すが、距離の半分は0にはならないので、矢は決してB点には到着しない」ってのがあるじゃない? 恥ずかしながら、私にはその矛盾がどこで生まれるのかわからないのだ。「それは時間を無視しているからだ」って答えは知ってる。けど、じゃあ何で時間を考慮に入れれば、矢はB点に届くの? それがわからない。…どなたか、分かりやすく説明できる方、いませんか?
ふう。やっと年度末の仕事が一段落。更新したい〜と思ってたのに、時間がありませんでした。でも書かなかったのは、たったの4日…。やだ日記書き中毒になってるかも。
篠田節子さんの『弥勒』読了。面白かったんけど、のめり込むほどでも、強い刺激を受けるほどでもなかった。ただ、引っかかったトコロがある。主人公(日本人)の、食に対する感謝の気持ちの無さだ。この話は、宗教だの文明だの理想だの幸せだの救いだの…とにかくテーマは重い作品だったのに、そんな些細な部分かい!と言う人もいるかもしれない。ちっちっ。些細じゃないです。重要です。この主人公は20kmもの米を道端に捨てようかと思うし(←ぎゃー、お米1粒には7人の神さまが宿っているのようっ!)、「ステーキの肉がかつて生きていたなんて、考えたコトもなかった」(←ばか!)とか言っちゃうし、救いようがない。まあそうゆう、いかにもな“現代の日本人”として描かれているんだけど。
今の日本、特に都市部では、こうゆう食に対する感謝の念が薄い人、あるいは持ち合わせていない人が多いのは知っている。私はそれがすごく残念だ。や、はっきり言って腹が立つ。残すな!捨てるな!必要ないなら頼むな!頼んだら意地でも食え! 状況によっては、私だって残すコトもある。会社の飲み会なんかだと特に。体調が悪かったり、あまりにもマズくても、残す。家でもうっかり食べ物を腐らせちゃうときもある。食べられる部分を捨ててたりもしてると思う。けど基本ラインは「出されたものはちゃんと食え」だ。「残したら、ごめんなさい」だ。実際、食べ物を残すたびに毎度、軽い罪悪感を覚える。作ってくれた人に対しても、食べ物そのものに対しても。肉も野菜も美味しく食べてあげなきゃ浮かばれないじゃないのよ。これを意地汚いなんてバカにする方が、間違っている。
もうこれは理屈じゃない。体に叩き込まれているのだ。この感覚は、全ての親が子供に叩き込むべきだと、強く信じている。食事を出す店の方も、小食の人や食事制限をしている人が残さずに済むような工夫をして欲しいと思う。そりゃ全部の量を加減しようとするのは、手間がかかりすぎて実際問題難しいだろうけど、でもせめてご飯の量だけでも。半ライスをメニューに載せるだけでも違うと思うし、少ない方に合わせて、足りない人だけおかわりできるようにしてもいい。セルフサービスで、必要な分だけよそわせてもいい。自分でよそって残した人からは割増料金。いい大人なのに、自分がどれだけ食べられるかも分からないなんてのは情けないの極地。躾がなっちゃいないのだ。
…書いてみると、街でよく目にする光景に、だいぶ鬱憤がたまってたみたい。まったく食事を粗末にする人多すぎます。こゆコト言うから、ときどき友達に「To-koってババくさいよねー」と言われるのだ、きっと。でも古臭かろうが何だろうが、大事なものは大事なの。とりあえず私は、ほんの一口分残っている大皿料理を店員が「お下げしてもよろしいですか?」と取りに来たときに、「えっダメです、食べます!」と声を揃えて言っちゃう友人たちと巡り合えたのを、ホントにシアワセだなぁと感謝。日々感謝。人と人とは完璧には分かり合えないけど、こうゆう大事なトコロが合う人と出会って一時でも一緒に過ごせるのは、それだけでとっても嬉しいコトだよなぁ。ああ飲みに行きた〜いっ!