ひー寒い寒い。3月も今日で終わりだと言うのに(早すぎ)雪ってどゆコト? ちょっと前までもうコートは要らないなーと思っていたのに。
寒くなりだした木曜日は小劇場でしか通用しない芝居を見に雨のなか下北沢まで行ってきた。かと言ってつまらなかったワケじゃない。ちゃんと笑わせてもらった。桟敷席で膝を抱えて見るような芝居は久しぶりで、油断してジーンズをはいて行ってしまってちょっとキツかったけど、面白かったので何とかガマン。どこまでがアドリブだか分からないような、長ーいコントのようなお芝居で、時々役者さんが観客を置いていってしまう。これが大劇場で料金が5千円を超えるようだったら許せないケド、小劇場だと時々スベったりつっかえたりするのまで楽しい。とにかく勢いだけは文句なしでした。
んで金曜は年度末で慌しい1日を過ごしてから友人の家に泊りに行った。なんか悩みを聞いてと言っていたらしいんだけど(私が)、何を話すつもりだったのかすっかり忘れてしまっていた。大したことじゃなかったとは思うが、ちょっとこの忘れっぽさは異常ではないのか。仕方がないのでいつものようにいろんな話をしつつ夜更かし。彼女とはもう長い仲なのでどうもくつろぎすぎちゃっているような…。いつもごめんよ。
んで起きたらもう12時。我ながらよく寝たもんだ。寒くて帰りたくなかったけどがんばって帰ったら郵便受けにインターネットで注文した本が届いていた。高群逸枝さんの『火の国の女の日記』。フェミニズムの本を読みたい病になったときに注文したモノだ。ネットで検索して高群さんの生まれ故郷の熊本県の古本屋でやっと見つかったのだ。嬉しい! 熊本から本を買えるなんてネットって便利だわ。…ケド、きっと読むのはもうちょっと先になる。なんせ彼女の本は気合を入れないと読み始められないのだ。これを読むためにも来月はもうちょい計画的に生きようと思う。月末にいつも思うように。
例えば美形の規格から外れた顔を個性的と言ってみたり贅肉がゆたかな体型を肉感的と言ってみたり、モノは言いようというか丸い卵も切りよで四角な例はいくらでも挙げられるのだけれども、先日うちに届けられた某通販カタログによるとAAA〜Bカップのバストはプチバストで(これはそのままか)お尻の大きい人はメリハリのある体型だそうである。私はどちらにも当てはまるので“プチバストでメリハリのある体型”になるハズなのだが、これってどんな体型なんだ。矛盾してるじゃん。
昨日NHKで再放送されていた『プリマバレリーナをめざして−ロシア・17歳の旅立ち−』を見た。以前バレエが好きじゃないとか書いたような気がするが、舞台上での表現でなければ好きなのだ。きれいに伸びた手足とか小さな顔とかしなやかな筋肉のつき方だとかはホントに美しいと思う。バレリーナ特有の指の使い方やあごのあげ方なんかも好き。だから練習中のバレリーナは大好きなんである。昨日はそういうプリマバレリーナのたまごたちをたくさん見れて楽しかった。
それにしても彼らの環境は羨ましい。もちろん学校に入れるのも選ばれた極一部の人だけだし、趣味でやるのとはプレッシャーも桁違いだとは思う。それでも専属の医者がいてくれるとか、最初の何年かは正しい筋肉をつけさせるために徹底的な基礎を叩き込むとか、そういう環境は日本にはないんじゃないか。趣味でやるバレエももちろんアリだけど、本気でプロになりたいと願う人のためにそういう選択肢があったらいいのにと思う。
これはバレエに限らないんだけど、私の好きな舞台にしたって、それだけで食っていける人が何人いるのか。最近ではあちこちで「文化活動を応援します」とか言って町ぐるみで演劇祭とかをやったり大きな劇場を建てたりしているけど、違うんだよう。どうもああいうのを考える人ってのは、もう有名になっている大きな劇団しか知らないんじゃないか。町のあっちこっちにある小さな劇場の良さなんか知らないでしょ? 役者さんの熱気を肌で感じる近さが分からないでしょ? だから小さな劇団が売れる→大きな劇場を使うようになる→劇場の使用料を払うために無茶なチケットの売り方をする→にわかファンが増えて劇場どんどん大きくなる→役者と客が遠くなる→ファン離れる→劇団解散。のパターンを辿る劇団が多いんだよう。
大きな劇場に向いている劇団ならいいけど、そうでない劇団もいっぱいある。そういう劇団も続けていけるようなバックアップをして欲しいよ、どうせ応援してくれるのだったら。バレエもそうだけど、日本は底辺にいる人たちに冷た過ぎると思う。トップはもてはやすくせに。底辺にいる人たちの中に将来のトップがいるかも知れないのに、そういう人が生活のために活動できなくなっちゃうなんてもったいなさ過ぎるよ!
……なんか『エースをねらえ!』で似たようなことが書いてあったような気がするなぁ…。藤堂さんに影響受けてるのか私? って言って一体何人に分かるのか。
ヘイ・ブルドッグでおすすめサイトにしてもらいました。愛・蔵太さんからその旨メールをいただいたのですが、正直ホッとしましたよ私。メールをもらう前からヘイ・ブルドッグの存在は知っていたので、ReadMe! に登録したときからいったい何を言われるかとドキドキしていたのです。サイトを公開している以上酷評される覚悟も必要かとも思うのですが、生来の小心者気質は簡単には変わりません。今回はえらくあっさり褒めて(?)いただきました。へへ。嬉しいです。ありがとうございました。
桜が大分咲きそろってきました。会社の前に見事な桜並木があるので毎年楽しみにしているのですが、どうも今年は様子が違います。イヤ、違うのは様子じゃなくて私です。いつもだったら桜前線のニュースを見て「そろそろだなー」と開花を心待ちにしているのですけど、今年は気がついたら咲いていました。忙しくて周囲を見る余裕がなかったワケじゃないのに。むしろその逆だったのに。しかもなんか急かされているような気さえします。桜に。何なんだ。……って答えはわかっているんですけど。やらなきゃなんないことをずるずると先延ばしにしてきた結果です。ああ、桜にまで責められる…。
先週のアリー、良かったなぁ。久しぶりに歌と踊りと和解に満ちていて、第3シリーズの最終回なだけありました。最後にジョージアが出てくれたのも嬉しかった。彼女の身のこなしはやっぱり魅力的だ。ホッとしたのは事務所にネルが戻ってきたこと。彼女まで降板しちゃうのかと思ってガッカリしていたのに、どうやらそうではないようだ。
ドラマがシリーズ化されて人気が出てしまうと、役を降りたくなる役者さんが出てくるのは分かる。単純に忙しすぎるとか、役のキャラクターと自分が同一視されちゃうとか、顔が売れてもっと魅力的な仕事のオファーが来たとか、理由はいろいろあるだろう。だから役者さんの交代は仕方ないとは思う。残念ではあるが。ただ気になるのはその交代のさせ方で、主要キャラをいかに退場させるのかってのが脚本家の腕の見せ所だと思うのだ。ネルの場合は、もしあのままホントに退場してしまっていたら褒められない脚本だった。最初の頃は“絶対零度のネル”の仮面の下の、分かりにくいけど確かにある温かい部分や可愛らしい部分が魅力的だったのに、最近の彼女からはその可愛げが感じられなくて、それが役者さんの退場のためだとしたらネルが可哀想すぎると思っていたのだ。だけど結局それは私の勘違いで、最終回ではまたネルの可愛い部分が見られて安心した。秋から始まる第4シーズンも楽しみ。
土曜日はおやじダンサーズが見たいばっかりに『THE夜もヒッパレ』。今回の振付も大好きだ。もうケタケタ笑いっぱなしで幸せな気分になれた。ありがとう、おやじダンサーズ! ただ気になるのはTo-ko一押しの大津年金手帳さんがイマイチ目立っていなかったことだ。今まではどんな振付だろうとすっごい存在感があって自然と視線が吸い寄せられていたのに、土曜日は周囲に溶け込んでしまっていた。周囲が上手くなったのか、それとも大津さんが変わってしまったのか。まさか結婚して薄くなっちゃったワケじゃないよなあ。(<何がだ)
そうそう、免許取得後初めてのドライブにも行ってきた。ホントはドライブというよりただの練習。一応“親の義務”ということで同乗者は父。出発前に「あんまりゴチャゴチャ言われるとパニック起こして危ないから、ホントに危ないときだけ注意して」としつこく念押ししておいたので、あれでも本人はガマンしていたのだとは思うけど、でも結構いろいろ言われた。おまけに初心者マークをつけて運転している車に対し、世間は教習車に対するほどには優しくしてくれないのだなぁと実感。運転したのは正味1時間半くらいだが、その間に何度クラクションを鳴らされたことか。
“初心者マークってのは他人に気遣いを求める甘え”だという意見を耳にしたことがある。そうかも知れない。私だって「後ろでクラクション鳴らしてないで抜いてよぅ! そっちの方が上手いんだから!」と思う。でもでもでも、最初っから運転上手い人には分からないのよう! 豚に空飛べって言ってもムリなのよう! ……と、運転に関しては急に弱気の甘えん坊になってしまいます。土曜日に目黒通りを走っていた人、ごめんなさい。車線変更がなかなかできなくてフラフラしてたのは私です。
家に帰って、実家で教習所通いを続けている母に電話。運転に関しては母と私のダメな部分とか傾向は似ているようで「あれが怖い」「こうくるとダメになる」ってのがことごとく一致する。運転暦が無いに等しいので仕方のない部分もあるのかもしれないが、一番苦手なのは他の運転手の行動を読むこと。対向車・後続車・別の車線を走っている車が何をしたいのか、譲ってくれようとしているのか先に行こうとしているのか、それが分からなくて迷ってしまう。ああ、いつか気軽に「じゃ、私が車出すよ」と言える日がくるのだろうか…。
「キムチの気持ち」の3/25の日記「裏道は怖い」につくづく同感(私の怖いのは裏道だけじゃないけど)。よんひゃんさんの考えは神経質すぎない。考えてなきゃいけないことだと思う。
『エバー・アフター』で思い出したんだけど、探したい映画がある。やはりシンデレラ物語なのだが、『エバー…』と違って魔法使いのおばさんやカボチャの馬車も出てくる本格派(?)だ。たまたまTVでやっていたのを見ただけなのでタイトルも監督の名前も分からない。しかも見たのはもう15年以上は前。それでもいくつか記憶に残っているシーンがあって、ぜひもう一度見てみたい。下記を読んでお心当たりのある方はぜひご一報を。お礼は何もできませんが心から感謝します。
おとぎ話の例に洩れず王子の印象は薄く、ちっとも記憶に残っていない。多少は現代風のアレンジがしてあって、シンデレラはなかなか強い性格をしている。継母にイヤミを言われても「ここは私の家なのよ、あなたには何の権利もないくせに」と言い返す。ストーリーは舞踏会→ガラスの靴のイベントと順調に進み、王子はシンデレラを見つけ出す。原作ではここでめでたしめでたしなのだが、ここでちょっとしたアレンジ。2人の結婚に王と王妃が大反対するのだ。王子の国は弱小国なので大国の王女と政略結婚をしない限りこの国の未来はない、と。王子は泣く泣く王女との結婚を承諾。結婚式場に再登場した魔法使いのおばさんは「仕方がないね」と王女に魔法をかけ、その場で王子の国の大臣(たしか)に一目惚れさせてしまう。王女が大臣と結婚することよって大国の援助も受けられるようになり、王子は心置きなくシンデレラと結ばれるという、王女の気持ちはどうなるんだ!って力技で大団円。特別面白いという程ではなかったと思うが、魔法で作られるドレスとシンレラがこき使われる台所がすごく素敵だったような気が…。
これに出てくる台所ってのはある意味私の理想の台所だ。ある意味とつくのは実際の使い勝手が悪そうだから。まあおとぎ話の時代の台所に現代の利便性を求めてもどうかと思うが、アクマで“フィクションの中の”理想の台所。条件としてまず広い。中央には大きなテーブルが置いてあって、その下にはじゃが芋とか玉ねぎとかが山盛りになった籠がぽんぽんと並んでいる。天井からは各種ハーブがぶらさがっていて、窓からは西日が差し込んでいる。そして欠かしちゃいけないのは豚一匹丸焼きできる暖炉! ……使い勝手の問題じゃないか、“ある意味”が付くのは。豚の丸焼きなんか作れないもんなー。まあとにかくこの映画を見た時は「こんな素敵な台所にいられるならこき使われてもいい」と思ったもんです。どなたかご存知ないですか?
さて、シンデレラから話は180度変わるが、私はフェミニストである。かと言って真面目に勉強してもいないし何らかの活動をしてもいない。フェミニズムにもいろいろあるから、その全てに賛同はできないが、多くに共感を覚えている。その程度の(?)フェミニストだ。だから昨日の夜NHKで再放送された『痛快トーク・わが“女の一生”』にチャンネルを合わせたのは、どんなモノか一応見ておくかくらいの軽い気持ちだった。誰が出るのかも知らなかったし、特別見たかったワケでもない。それなのに、いつの間にか見入っていた。
出演されていたのは俵萌子さん、吉武輝子さん、樋口恵子さんのお三方。私が知っているのは樋口恵子さんだけで、それも著書を読んだことがあるだけだ。更に言うなら何が書いてあったのかも全然覚えていない。多分たいした感銘は受けなかったんだと思う。だから始まったときはホントに横目で見ていた。ところがこの3人の喋り方が可愛らしいのだ。特に吉武輝子さん。内容も「女性はこうあるべきだ」みたいな啓蒙論調ではなくて、それぞれがどんな場面でフェミニズムに目覚めたのか、いつ差別を感じたのか、その時どう思って何をしたのか、という実に自然に面白く聞ける話ばかり。
彼女たちの青春時代よりも今は女性差別が見えにくくなっていると思うのだけど、でも彼女たちの若いころだって女性差別が当たり前の状況で、あえてそれを差別だと思うことが難しかったのかーとか、今の現状でも気付かない人もいるもんなーとか、気付かない以上反発もできないもんなー、どっちが幸せなのかなーとかぼーっと考えながら、3人の話に引き込まれてしまった。この辺の感情は自分でもよく整理できていないが、そのうち書けるようになったら書きたい。
私は時々発作のようにフェミニズム関係の本を読み漁りたくなるのだけど、どうもスイッチを入れられちゃったような気がする。とりあえず吉武さんの本を探してみよう。あと樋口さんのも読みなおしてみようかな。今なら新しい目線で読めるかも。
借りてきたビデオ『エバー・アフター』を見る。ドリュー・バリモア主演のシンデレラ物語。ぼーっと見るにはちょうどいい映画で「おとぎ話の王子ってどう解釈しても情けないよね」とか言いながら妹と一緒に見ていたのだが、最後の方で分からない箇所が出てきた。シンデレラの父親は原作通りに亡くなっているのだけれども、彼の身分は何だったのか。後妻は男爵夫人だ。爵位ってどう継承されるのか? 結婚相手やその子供には何の身分もないのか? その辺が不勉強でよく分からない。画面ではシンデレラが王子の前で「私は召使です」「ただの農民だから」と言っている。
私はぼそっと呟いた。「つまり彼女のお父さんは富農だったの?」 「えっ!!」 妹が妙な反応を示す。「いや、だからさ」「なんでそうなるの? どういう脈絡?」「?……あぁ」
妹よ、この状況で「フノウ」を「不能」と漢字変換するあなたの方がおかしい。
買うべきか買わざるべきか。パスネットとイオカードを一度に落としてしまって財布が軽いこの時に無駄な出費は許されるのか。でも彼を見れば元気になれる気がするのだ。見たい。一度生で見てみたい。でも元気がないのは今なのだ。ツアーは6月だ。まだ2ヶ月以上先だ。それまで元気がないままでいるつもりはない。だが、元気になっていてもいいではないか。ダメな時ならば立ち直る反動を与えてくれ、元気な時ならよりハッピーにさせてくれる、それが彼ではなかったか。だけど私は彼をTVでしか見たことがない。実物がたいしたことなかったら……。イヤ、あの粘着質のオーラは本物だ。信じろ。信じて買うのだ。
おやじダンサーズの“絶倫ツアー 2001〜イク時はいっしょ〜”(もちろん大津年金手帳さん目当て)のチケットを。
↑これで立ち直れちゃう私の人生っていったい…。でも多分買います。問題は誰と一緒に行くか。いや、誰が一緒に行ってくれるかだ。
初めて免許証を他人に見せたら大笑いされて、ちょっと救われました。
昨日はパルコ劇場に芝居を見に行ってきた。内容は全然知らなかったが、西村雅彦さんや近藤芳正さんといった役者に惹かれて7,500円の高いチケットを買ったのだ。しかし見終わっての感想は「……いかにも翻訳劇って感じだったね」だった。あとから調べて、脚本を書いたのがフランス人だと知った。一応“名脚本家”らしい。それもいかにも、って感じである。だがもし書いたのがアメリカ人だとしても「ああ、それっぽかったね」になるだろう。フランス映画とアメリカ映画に抱くイメージはかなり違うのに、なぜか日本で訳されて上演されるような芝居というのは、どっちの国で作られたのも同じような印象を受ける。はっきり言ってツマラナイのが多い。
これは何なんだろう。外国のモノでも小説とかTVドラマとか映画だと面白いものはいくらもあるのに、なぜ芝居はこんなにツマラナイんだろう。芝居に求めるものが違うのか、日本人が外人を演じるところに無理があるのか、宗教や世界観の違いなのか、そのうちの全部なのか。そういえば私は何年か前まで海外移住を半分本気で考えていたのだ。今は(今のところは)その気はなくなっているんだけど、その理由はNZで生活したときに見た芝居の質の低さと観客の質の低さだったっけ。
私の好きな芝居のタイプはいくつかある。派手な舞台と派手な演出で見せるショーのようなのも好きだし、全部手作りの小さな舞台も好きだ。中でも好きなのは笑わせて最後は泣かせるもの。途中はゲラゲラ笑いながら見ているのに、なぜか最後の方になるとセツナクさせられる作品が大好きだ。有名どころで言うと三谷幸喜さんのや鴻上尚史さんの。小さいモノを積み上げて積み上げて、気がつくと想像もしなかった大きなモノができあがっているという感じ。これが私のみたいお芝居の形だ。
昨日見た芝居は、それとは両極にあるモノだった。小さなモノはどんどん出てくるんだけど、それがどこにも繋がらない。何もできあがってこない。だから観客の方が気をまわして「何ができるんだろう?」「ひょっとしてこれを作ろうとしているのか?」「これとこれは最終的に繋がるのか?」と先を予想してしまう。なのに最後まで観てもやっぱり何もできあがらない。疑問だけを投げかけて、それで終わり。観客に残る小さな断片ばかりだ。これでは観客に頼りすぎだと思う。
たとえどんなに完成された作品が提示されたとしても、観客の受け取り方は同じではない。そういう意味では、観客の想像力に結論をゆだねるのは卑怯なことではない。だけど脚本家/演出家が見せたいモノをまず示してくれなくては始まらない。評価の仕様がないと思うのだ。…って割には散々文句を書き連ねてるケド。以上、7,500円分の恨み。
11月末から延々と続いた免許取りの最後のイベントで、午前中会社をサボって試験場へ行ってきた。試験と言えば一夜漬けで、昨日の夜はひたすら問題集とにらめっこ。夜更かしは珍しくはないものの、鉛筆を握って頭を抱えて暗記に努めるなんてのは長らくやっていなかったので、なんとなく懐かしいような気にさえなってくる。あぁ試験勉強とくると夜食だよなぁ、そういえば高校受験の時は母に頼みこんで作ってもらったけ。それを日記に書こうかなぁ…と感慨にふけりながらせっせと勉強して、気付くと3時を回っていた。
午前中の試験を受けるためには朝6時に起きなくてはいけない。てことは、睡眠時間が3時間? えっ、ヤバい。このところの自堕落ぶりでは完徹なんぞできようハズもない。慌てて支度をして布団に潜りこむ。さあ3時間でもキチンと寝て明日、イヤ今日に備えねば。しかし、まるで遠足を前に興奮している小学生のように全然眠れない。ウトウトしたかと思ったら、6時に起きなきゃという緊張からか頻繁に目を覚ます。ダメだ、寝なくちゃ寝なくちゃ…。やっと眠りにおちた瞬間、アラームが鳴り出す。ちくしょう。
往生際悪く問題集の残りを解きながら試験場へ。教習所が混み合っていただけあって試験場も混雑している。試験は思ったよりも難しい。ような気がする。もしかして眠いだけなのかも知れない。よく分からないうちにも試験終了。ほとんど待たされることなく、結果が発表される。ドキドキしたが合格していた。会場の3〜4割くらいは落ちたんじゃないだろうか。免許は即日発行してくれるので、その場で写真を撮られる。簡単な講習を受けて1時間ほど待つと免許を手に入れられるのだ。
待ち時間に食事をしたので眠気がピークに達し、気が抜けてボケボケしていた私だったが、免許を渡されたときはさすがに嬉しかった。頬のゆるんだだらしない顔で免許に視線を落として、次の瞬間、泣きたくなった。そこから私を見上げているのは…どう見ても冷水にさらされた水死体だった。「免許の写真、変に写ってるから嫌いなの」ってのはよく聞く台詞だ。だけどだけど、水死体はないでしょう!? 下手に仮免のときの写真がマシだっただけにガッカリだ。こんな写真をあと2年ちょっとも(←更新まで)人目にさらさなくてはいけないなんて、あぁ…。
私が免許を見せるであろう皆さんに言っておく。「そんなにヒドくないよ、ちゃんと写ってるよ」ってのは慰めにはなりませんので念のため。
とある専門学校の夜間科に通っていたことがある。1年半の学校だったが、1年通った段階でその業界でプロになりたくはない(なれない)ことに気付き、中退した。同級生たちの何人かとはその後も付き合いがあったが、年に一度会えばいいくらいで、それもここ何年かは途絶えていた。
金曜日の夜、電話がきた。上記の専門学校の元同級生からで、いきなりだが集まることになったのから来ないかというお誘いだった。懐かしかったし暇だったので、土曜日の夜、下北沢の居酒屋に行ってきた。聞けば今でも付き合いのある2人が「今集まらないと永遠に集まらないだろう」と相談して、今回の会合になったのだという。数えてみると、なんと卒業から10年経っているではないか。吃驚。私は自ら声をかけるタイプではないので、こんなコトでもない限り皆には会わず仕舞いになるところだっただろう。彼女たちには感謝感謝である。
もともと女性の比率が高い学校だったので、集まったのは私を含めて女ばっかりが9人。会ってないコになるとホントに卒業以来、10年ぶりに顔を合わせることになった。これが嬉しい驚きだったのだけれども、皆全然変わっていなかった。成長がないという意味ではない。可愛いけれどぽっちゃりタイプだったコはすっきり痩せて表情の豊かな美人になっていたし、ボーイッシュだったコはめちゃめちゃカッコイイ女になっていた。下ネタ話をすると「そんな話人前でするのは好きじゃない」と言っていた清らかな彼女は、居酒屋で大声で下ネタ話をするようになっていて「ああ、隣の席に丸聞こえだよ…。あのコがこんなになるなんて…」と私を驚かせてくれた(成長なのか?コレは)。とにかくどのコもイヤな女にはなっていなかった。それどころか、素敵な女になっていた。
学校に通っていた頃の私たちは17から20代の前半くらいだった。その頃は2つ3つの年の差がすごく大きなモノに思えたけれど、10年経ってみればそのくらいの差はヘでもない。会ってみれば10年の空白があるなんてとても信じられないくらい、私たちは何の遠慮もなしに話せた。イヤ、日常的な接触がないから却って遠慮がなかったのかも知れないが。初心を貫徹して業界で仕事をしている人間も何人かいたし、趣味としてそれを続けている人もいたし、すっぱりやめてしまった人もいた。結婚した人もいたし、お母さんになった人もいた。それぞれ生活は全然別のモノになってしまったが、でもどのコもイイ女になっていた。イイ女だけど、10年前からちっとも変わっていなかった。すごく嬉しかった。
他人と自分を比べても仕方がないのは分かっているし、そんなことをしたら苦しいだけなのも分かってる。でも流石に同年代の、全然別の生活をしている人間と接触すると、つい自分と比べてあせらないでもない。私はホントに先のことは何も考えないで生きているので、先々ミジメな将来を迎えるかもしれない。それでも生き方なんかそうそう変えられるワケもなし、多分私はこのままいくしかないだろう、と思う。昨日私たちは「次に会うのはまた10年後かもね」と言って別れた。できればもうちょい近いうちに会いたいが、たとえ再会が10年先になってしまっても彼女たちはイイ女でいてくれるのではないかと思う。願わくば私もその仲間でいたい。
私もがんばろうと思って帰ってきたのに、今日はいつもと同じように自堕落に過ごしてしまいました。てへ。
心配してくれた皆、ありがとう。本日無事に教習所で卒業証書をもらいました。やったよ、危なっかしかったけど一応ストレートだよ! 来週中に学科の試験を受けに行って、それで私もペーパードライバーの仲間入りです。嘘です。ペーパーにならないように努力します。でも今のところ私の助手席に乗ってもいいと言ってくれたのは父だけです。他の人は「半年間無事故だったら」とか条件つきです。父に頼んだら「……親の義務だからな」と快く了承してくれました。まあ今日もウィンカーを出さずに車線変更をしたりしましたので、条件をつけた人は賢明な判断のをしたといえるかもしれません。それを認めるのとムカつかないのはまた別ですけれども。
今すごく温泉に行きたいです。私はひどい肩こり症なので、温泉とかマッサージには弱いのです。海が見える高台の露天風呂でゆっくりしたいです。青い海を見て青い空のもとで温泉…ああいいなぁ。今まではそうそう気軽に遠出もできなかったけれど、これからは“車を出す”という選択肢が増えると思うと、浮かれます。…ってまず車を手配しなくちゃいけないけど。それでもやっぱりちょっと行動範囲が広がった気がして嬉しいです。ああホントにペーパーにならないように努力しようっと。
中澤裕子さんのモーニング娘。卒業がなぜだかショック。
妹に「私たち、ハイソな会話してるよね」と言われた。そのとき話していたのは菅原道真の「東風吹かば」と源実朝の「軒端の梅」の歌が混ざってしまうという話。和歌の話がハイソかどうかはともかく、確かに私たちにしては珍しく文学チックな会話だったから、そうだね、と答えた。直前にレディースコミックの話をしてなきゃもっとハイソにもになれただろう。佐々木倫子さんのマンガに出てきた姉妹の「美人姉妹ごっこ」みたいだ。
レディコミの話と言っても、そっちは私たちの守備範囲に入っていないので、作品の話ではない。子供のころに好きだったマンガ家が、いつの間にかレディコミに描くようになっているのはちょっと悲しいだろう、という話をしていたのだ。昔は少女マンガ少女マンガした作風だったのに、その見覚えのある絵柄でくんずほぐれつされては堪ったモノではない、と。で、なんでそんな話になったかというと、那須雪絵さんの最近の傾向が気にいらないからである。
那須雪絵さんの代表作『ここはグリーン・ウッド』はもちろん、他の単行本も家には全部揃っている。『グリーン・ウッド』以外の彼女の作品、特に短編には、派手ではないけど読み飽きないイイな話がいくつもあった。私たちにとって彼女は“外れのないマンガ家さん”の一人で、妹は新作を見つけると毎回買ってきてくれた。ところが妹が買ってきた最近2冊の那須さんの単行本は、やおいというのかボーイズラブ(この呼び方、馴染めない)というのか、要するにホモマンガだったのだ。レディコミに行かれるほどではないにしろ、ちょっとショックな転向である。
別にジャンルがダメなのではない。こっちは守備範囲だ。人気があるのも知っているし、私にも好きな作品の1つや2つや3つや4つや……はある。だけど那須さんの作風は、このジャンルに向かないと思うのだ。少なくともこの単行本に入っている話はどれもホモの要素がなくても成立する話だし、かえってないほうがいい、と私は思う。読者の勝手な言い分であるのは分かっている。今の作品が好きな人だっているだろうし、第一本人が描きたいのだろうから、文句を言うワケにもいかない。(ここで言ってるけど。)だけどやっぱり彼女の作品の変化は、私にとっては残念なものでしかない。
「青春の時期ってのは、最も楽しい時期だと言われるけれども、私にとってその時期は苦しい時期だった。最高の時がこんなに苦しいなら、この先の人生はどんなに辛いものかと思って真っ暗な気持ちになったけれども、実際に年をとってみたら生きていくのはどんどん楽になった。だから今苦しいと思っている人に『大丈夫だよ、その時期はいつかは終わる。ちゃんと楽になれるから』と言ってあげたくて、この作品を描いた。」 手元に単行本がないのでウロ覚えではあるが、『ダーク・エイジ』の中で那須雪絵さんはこんな風なことを書いている。これは私にはすごく分かる、ササる言葉だった。刺激されていろんなことを考えた。おまけに長々とそれを書き綴って友人たちに送りつけた。那須さんはこういうササるモノを描ける人であり、私は彼女にそういう作品を描いて欲しいのだ。
彼女が戻ってきてくれるか、でなければ彼女の持ち味を生かした男男作品を描くようになるまで、この「残念な気持ち」は後を引く。昔の作品は良かったよね、の人になって欲しくない。
先日アップした雑文に、「不死」で「ふじ」と読むかどうかを書いたのだけれども、友人が答えを教えてくれた。『不死身』。うわ、よく使う言葉じゃん。自分のバカさ加減を痛感してちょっと凹みます。生きていくことが少しずつ恥をさらしていくことだと言うのなら、たしかに私は生きています。
昨日会社帰りに友人お薦めの『ギャラクシー・クエスト』を見てきた。けっこうあちこちでイイ評判を聞いているのに映画館はガラガラでびっくり。噂にたがわず面白い作品で、途中からずっとニヤニヤしながら見てしまった。ストーリーは、往年の人気TVシリーズ『ギャラクシー・クエスト』で宇宙船の乗組員を演じていた俳優たちが、その番組を“歴史的ドキュメンタリー”、俳優たちを“宇宙のヒーロー”だと思いこんだ宇宙人に依頼され、本当の宇宙戦争に巻きこまれてしまうというもの。依頼してきた宇宙人や、番組の熱狂的なファンがもう可愛くて可愛くて、口許がゆるみっぱなしになってしまう。でも笑いだけではなくホロリとさせるシーンもあって、久しぶりのヒットだった。シガニー・ウィーバーが“お色気だけの女性乗組員”の役にめちゃハマッていて、これも必見。
以前、野田秀樹の舞台で、ミュージカルのパロディのシーンがあった。それは“死にかけている人が朗々と歌いだす”とか“通行人たちがなんの打合せもなくいきなりハモって歌い、踊る”という、ミュージカルの不自然要素を上手く抜き出して強調したものだった。ミュージカル嫌いの人なら「そうそう、ミュージカルのこういうところが嫌いなんだよ!」って笑え、私みたいなミュージカル好きなら「あるあるこういうの!」って笑えるような作りになっていて、さすがに上手いなぁと感心したものだ。
『ギャラクシー・クエスト』にも同じような上手さを感じる。この作品の『スター・トレック』のパロディ部分も面白いのだけれども、これはこれだけでちゃんと独立している話なので、『スター・トレック』を嫌いな人や知らない人も楽しめるようにできていると思う。そしてそれこそが“よくできたパロディ”の条件だと思うのだ。逆にダメなのは元ネタにおんぶに抱っこしている作品、仲間内だけで面白がっているような感のあるモノだ。『ギャラクシー・クエスト』にはそんな心配は一切いらない。ほんわかと嬉しくなれる映画だった。
ネタばれを気にしない方は、こちらの対談が私の言いたいことをほとんど全部カバーしてくれているので、飛んでください。(←手抜き)
あーばか! 23:35からのNHKアーカイブスの水俣のドキュメンタリーが見たかったのに! 23:00までは覚えていたのに! 『コレクター』見終わって、30分の余裕があるからメールチェックでもしよう、と思って、そのまま…。なんで30分で忘れるかなあ>自分。呆けるにはまだ早すぎる。
日曜洋画劇場で『コレクター』を見た。それなりに楽しんだのだが、気になったのはヒロインが料理をする場面。最初にリンゴを切っている場面で「おいおい!」と叫び、クライマックスの人参の切り方に「やめてくれよぅ」と泣いた(嘘)。私は「食べ物を粗末にしちゃあいけない」と育てられている。食事に行けば出されたものはなるべく食べきるようにしているし、どうしても無理なときは心の中で「お百姓さん、ごめんなさい」と呟いているのだ(本当)。一緒に見ていた妹もモチロン同じ家庭で育っているので、2人で「(リンゴの)芯は? 芯はどうするのよ!」「齧れ! 齧るんだ!」と声をかけてしまった。ヒロインが襲われているのにそんな場合じゃないだろう>私。…イヤ、どんな場合でも食べ物は大事にしなくちゃいけません。
NZでホームステイをしていたときに、よく夕食の付け合わせのサラダを作る手伝いをした。お決まりの野菜を切って出来合いのドレッシングをかけるだけの単純なモノだったのに、ホストマザーたちは「To-koの作るサラダは美味しいわ!」といつも言ってくれていた。私はてっきり気をつかって言ってくれているものだとばかり思っていた。だってその家の台所にあったナイフはとても切れ味が悪くて、ハッキリ言って大したサラダじゃなかったのだ。だがどうやらそれは気遣いではなかったらしい。ある日私がいつものように野菜を刻んでいるのを、ホストファーザーが後ろでじっと見つめていたかと思うとこう言った。「To-koはまるで自分の指のように包丁を使うなぁ。」…はぁ!? ホントに、謙遜しているワケでも何でもなくて、私の料理の腕は特別ではないのである。私が戸惑っていると隣にいたホストマザーが口を挟んだ。「To-koのサラダの美味しさの秘密がやっとわかったのよ。To-koは野菜を全部細かく切るの。それが秘訣よ。」…だ、だから秘密も秘訣もないんだってば! その後、ホストマザーはその秘訣を使ってサラダを作ろうとしたらしい。後日の夕食時に彼女は言った。「今日はTo-koのように細かく切ろうとしたの。でも途中であきらめたわ。難しすぎるわ」
例外はあるにしろ、やっぱり外人(欧米人)は料理が下手なような気がしちゃうのは偏見だろうか。
昨日は親戚の告別式に出席。亡くなったのは近しい人ではなかった。ハッキリ言ってしまうとあまり好きじゃない人だった。それでも悲しい気持ちはあったし小さい頃から知っている人だったから、お別れを言いに行ってきた。今まで知らなかったが彼は某宗教団体に所属していて、葬儀はその形式で行われた。親戚以外の参列者はほとんどがその宗教団体の人で、なんか今まで知らなかった雰囲気の中で行われた葬儀で泣けばいいのか笑えばいいのか困ったが、やはり『最後のお別れ』の時は涙がこみ上げてきた。それは故人を悼んだ涙ではなかったけれど。そんな泣き方をした反動なのか、献杯の音頭のときに、別の人の葬儀で叔父が思いっきり『乾杯!』と言ってしまったのを思い出して吹き出してしまい、ごまかすのに必死だった。笑ってはいけないときに限って笑ってしまうのは何でなんだろう。
そして今日はウチに母がやってきた。「体調を崩しているから、今日はマグロになってるからね」と宣言されたので、母が来ているにしては珍しく、私が夕食を作った。台所に立っていると、隣の部屋から母が声をかけてきた。「マグロでもできることがあったら言って。手伝うから」 私は、じゃあ大根をおろしてくれる? と聞いた。母は答えた。「いいよー。……普通マグロは大根おろさないけどね」
ほんっとウチの家族は可愛くない。