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雑文の置き場。雑文と日記との違いは聞かないでください、私にも分かりません。気分だけで置き場を変えています。

1.頭に花が咲いている(2001.3.1)

私は名前を覚える能力に欠けている。高校のときの同級生や教師はすでに忘却の彼方だし、芸能人だってよっぽど有名にならないと名前を覚えない。覚えないのは人間だけではない。魚の名前も野菜の名前もブランドの名前も覚えられない。特に苦手なのが地名だ。私に日本の白地図を渡して都道府県の名前を入れさせれば、それはすぐに分かる。間違えない自信があるのは北海道と沖縄くらいだ(←ちょっと誇張アリ)。それでも、日常で困ることはそうそうない。地名が分からなかったら地図を見ればいいし、魚や野菜の名前はたいてい書いてあるし、人の名前は聞けばいい。だが困るのは、世の中には人の弱点をあざ笑う人間がいるという事実で、もっと困るのは、うちの家族がそういった種類の人間だということだ。

うちの家族は揚げ足取り一家である。人のちょっとした間違いを、鬼の首でもとったかのように大喜びするニクタラシイ奴らだ。私は無知なだけでなく妙な思いこみも持っているので、よく槍玉にあげられてしまう。妙な思いこみとは、たとえば

といった、自分でもなんでそんな風に思いこんだのかが分からないモノばっかりで、恐らくまだ間違いが判明していないモノも多々抱えているとは思う。だがしかし! ちょっと足りないのは私ばかりではない。偉そうに私を責める家族たちだって、間違えることはあるのである。ここではそれをハッキリさせたい。

あれは私と妹が揃って帰省していたときだから、たしか去年の正月だったと思う。父母と私たち姉妹の4人は富士山の話をしていた。そのうち富士山はいつから富士山と呼ばれているのかという話になったので、私はとある説を教えてあげた。「竹取物語ではもうそういう話があるよね。かぐや姫が月に帰るとき、育ててもらったお礼として自分が着ていた着物と不死の薬を置いていったの。でもおじいさんとおばあさんは、かぐや姫のいない世界で不死になっても仕方ないと考えて、その着物と薬を山の上で焼いちゃったの。で、その時の煙が富士山の火口から出る煙で、不死の薬を焼いたところから富士山って名前がついたんだよ。」 自信ありげに話しているが、そんな話を読んだような記憶がぼんやりあるだけで、出典はモチロン明らかではない。だけど、こういう知識は先に言い出して「へぇ、よく知ってるね」と言われた方が勝ちである(ウチでは)。ここまでは良かった。だが話題は“不死”を“ふじ”と読むかどうかという話に移っていった。

今考えれば“ふしさん”がなまって“ふじさん”になったという話だったと思うのだが、その時は4人とも酔っていたのかも知れない。なんせ正月だったから。とにかく私たちはそういう事例があるかどうかを考え始めた。「不老不死はふろうふじとは言わないよね」「不死…不死ってつく言葉って少なくない?」「あっ不死鳥!」「ふじちょうとは言わないでしょ」「うーん…」 私たちは考えに考えた。だが他の言葉は思いつかない。終いには父が広辞苑まで引っ張りだして調べ始めた。その時、母が嬉しそうな声をあげた。「あっ! 『ふじのやまい』があった!」…(間)…「そっかぁ! それがあったか!」×3人分。私たちは思いっきり納得した。謎は解けた。難しい問題を解いたときの満足感、充足感がそこにあった。

次の話題に移るまで、数秒の間があった。誰かが何かを言いかけたとき、妹がおずおずと口を開いた。「ちょっと待って。『ふじのやまい』って…死なない病気じゃなくて、治らない病気…」…「あっ、不治かぁ!」×3。

『不死の病』。これでは吸血鬼かゾンビ、アンデッドになってしまう…。

どうだろうか。こんな人間たちに私を責める資格があるのだろうか。家族だけではなく自分の足りなさ加減も書いてしまった気がするが、そこは目を瞑ってほしい。“罪のない者がまず石を投げよ”と言うではないか。彼らに石を投げる権利はないと私は思うのだが、どうお考えだろうか。ところで不死をふじと読むかどうか、私は未だに知らない。

※友人から「不死身がある」と指摘されました。その通り。こんな言葉も思いつかなかった自分が情けないです。やっぱり酔っ払っていたというコトで、勘弁してください。これを書いたときは素面だったのには気付かないフリをしてください。(3/6追加)

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2.真夜中の勉強(2001.3.14)

私が受験勉強というものをしたのは、今のところ1回だけである。高校受験のためのがそれだ。大学に進学するつもりはなかったので、たぶん一番大変であろう受験勉強の経験はない。でも私にとっては、この高校受験はなかなか大変なモノだったのである。最近免許を取るために久しぶりに夜中に勉強をして、それを思い出したので書いてみる。

小学校から高校まで、私の成績は良かった。まあ高校の時は同じような学力の人間が集められるのだからそう目立つほどではなかったが、それでもそう苦労せずに真中より上辺りにはいたと思う。賢かったからではない。本当に賢いなら『ガラスの仮面』の姫川亜弓の行動を真似て、階段から落ちて怪我をしたりはしなかっただろう。

問題の姫川亜弓の行動とは→『奇跡の人』で三重苦のヘレン・ケラーを演じることになった亜弓さんは、役を掴むために施設を訪れ、実際に目の見えない/耳の聞こえない/口の聞けない人たちに混じって生活する。そこを取材のために訪れた記者が「所詮真似事だ。それ証明する」と階段を降りてくる彼女の足元にリンゴを置く。亜弓さんは見えているにも拘わらずリンゴの上に迷うことなく足をのせ、転落する。記者は当然施設の人に怒られるのだが「普通は本能的にかばってしまうはずなのに、そんなそぶりも見せなかった」と、亜弓さんのなりきりぶりに驚嘆する。←というモノである。

これを読んだ私は、本当にそんなコトができるのか不思議で、確かめてみることにした。リンゴがなかったので、まず電気を消して階段を降りてみた。だが暗くても、そうそう階段を踏み外したりはしない。仕方がないので足を階段から外し、その宙に浮いている足に体重を乗せてみた。当時の私が何を考えていたのか自分でもよく分からない。当然落ちた。すごい音がした。居間にいた人が駆けつけて来たが、落ちた理由はモチロン言えなかった。小学校高学年のときか、下手したら中学生のときの話である。

話がズレたが、私が賢い子供ではなかったのはお分かりいただけたかと思う。ではなぜ成績は良かったのかというと、テストが上手かったからだ。数学など全然理屈は分からないくせに、公式だけを丸暗記して点数を稼いだ。そう、暗記ができたのである。しかし私の記憶力は一時的なものだった。だから当然、勉強法は『一夜漬け』しかなかった。普通のテストは文字通り一夜の勉強で乗り越え、中間/期末試験は1週間〜10日の勉強で乗りきった。そして乗りきった後は忘れ去った。

ところが受験勉強となると、こうはいかない。なんせテスト範囲が広いのだ。さすがに10日やそこらではカバーしきれない。具体的には忘れてしまったのだが、短くても3ヶ月は勉強した…と思う。ここで私は途方にくれた。今まで長くても10日くらいしか勉強したことがないのだ。何ヶ月という単位での勉強スケジュールの立て方が分からない。どこから手をつければいいのかも分からない。特に暗記モノの歴史や地理などはどうすればいいんだ? 最初っからやればいいんだろうけど、3ヶ月先には最初の頃覚えたモノが抜け落ちているのは確実である。うーん…。

いっそのこと全然勉強をしないという手もあった。だが万が一落ちてしまうと、もう一度受験勉強をしないといけない。それはイヤだ。だいたい私が試験前に勉強をするのは、追試になって再勉強をするのがイヤだからだ。『動物のお医者さん』のハムテルと同じである。小心者の私はその“万が一”を考えないわけには行かなかった。それに私には受験勉強をしなければいけない理由がもう一つあったのである。

私は夜食が食べたかった。

夜遅く、勉学に励む子供。ドアがノックされ母親がお盆を手に入ってくる。お盆の上には温かい夜食。「○○ちゃん、遅くまでお疲れさま。これを食べてもう一息がんばってね」 …こんな家庭があるのかどうかはともかく、私はこのシチュエーションに憧れていた。イヤ、もっとはっきり言うと、お盆の上の夜食に憧れていた。ハイキングのときに食べるお弁当が美味しいのと同じように、いつもと違ったシチュエーションで食べる食事というのは魅力的なんである。

私は母に頼みこんだ。ウチの両親は「勉強しろ」というタイプではなかったので、最初この頼みは断られた。人のために夜更かしして料理するなんてご免だと言うのである。だが私はしつこかった。なんせバリバリの食べ盛りである。交渉の末、週に一度、毎土曜日に夜食を作ってもらえることになった。なぜ土曜日なのかと言えば、翌日が日曜でその分寝ていられるからである。なんか本義が見失われているような気がするが、とにかく私は目的のモノを手に入れた。

こうして私は受験勉強に励んだ。少なくとも土曜日だけは。母の作ってくれたラーメンや鍋焼きうどんや雑炊やその他いろいろは美味しかった。父もなんか作ってくれたような気もする。夕食が済んでからすぐに勉強を始めると間がもたなくなるので、最初のうちは本を読んで過ごして、9時すぎから参考書を開くようなこともしたが、まあとりあえず夜食の前後2時間くらいは勉強した。そのかいあってか、目的の高校には無事合格した。

このとき覚えた公式も年表もすでに記憶から抜け落ちているが、夜食のおかげか私は大きく育って今に至る。運転免許の学科を勉強しているときも夜中にお腹が空いた。体の要求は相変わらずだ。ここで「今度は自分で夜食を作った」と書けばカッコがつくような気がするが、面倒だったので冷蔵庫のチーズを食べてガマンした。何かが間違っていると自分でも思う。

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3.長男長女コンプレックス(2001.6.13)

昔、1つ年下の妹に強いコンプレックスを抱いていた時期がある。兄弟姉妹の性格を評するとき、よく、長男長女は“おとなしいいい子”で、下の子は“活発でちゃっかり者”だと言われる。実際、下の子は兄や姉の失敗を見て育つからか、身の処し方が上手い、要領のいい子が多いような気がする。それに対し、長男長女は不器用だ。もちろん世間にはこれにあてはまらない兄弟もいるだろうし、弟や妹にもそれぞれ大変な面はあって兄や姉に対しての言い分もあるのだろう。が、そういうのは無視する。なぜなら私は長女だから。そしてこのパターンに当てはまる姉妹であったと思い込んでいるから。

さてこの黄金パターンでいくと、実は兄(姉)は弟(妹)に劣等感を持っている。下の子が産まれたときに、親の関心を引くためにがんばってしまったので、いつの間にか、自分はがんばらないと愛してもらえないと思ってしまっているのだ。だって、ちゃんとしていれば「さすがお兄ちゃん、偉いね」と褒められるけど、わがまま言うと「お兄ちゃんのくせに!」と言われるのだから、無理でもいい子にならなちゃいけないと思っても当然だろう。そのうちにわがままを言ったり、怒るのが下手になって、どんどん苦しくなっていく。それなのに能天気な下の子は、わがままもいっぱい言うし、何だって自分よりも上手くできないのにちやほやされているではないか。おとーさんもおかーさんも、下の子の方が好きなんだ!

あーもう。ひねくれてるなぁ。でもわかる。長男長女の受難に関してなら何時間でも喋れる気がします。ホントに、今では笑えるけれども、私は小さいとき…いやかなり大きくなるまで、こう思い込んでいた。母親に泣きながら「お母さんは私よりも妹の方が好きなんだ!」と言ったこともあるらしい。(そして母は「やばい、バレてる」と思ったそうである。おい!)それは覚えていないんだけど、小さいころに何度か見た夢ははっきり記憶している。この夢も分かり易すぎて笑えるんで、ちょっと書いておこう。

暗い森の茂みの中で一人しゃがんでいる私。すると向こうの方から楽しそうな声が聞こえてくる。伸び上がって見てみると、光に包まれた父と母と妹が笑ったり喋ったりしながらこちらにやってくるところだ。私は仲間に入れてほしくて、一生懸命呼びかける。だけど私の声は届かず、暗いところにいる私の姿に気付いてももらえず、彼らは私のいる茂みのすぐ傍を通り過ぎてしまう。3人の姿がどんどん遠ざかっていく…。

だいたいこの辺でぴーぴー泣きながら目覚めました。なかなかスゴイ夢だが、この夢を見たのは小学校の低学年の頃までで、当時何をどこまで悩んでいたのかはちっとも覚えがない。でも相当強く親に愛されていないと思い込んではいたようだ。夢を見なくなっても、妹に対するコンプレックスは長く続いた。嫌われるのが怖くて、すぐに人の顔色を伺ってしまう自分が大ッ嫌いだったし、妹の要領のよさ(私にはそう見えたのだ)や、イヤなことをイヤと正直に言える性格を憎んでいた。

もちろん今は大丈夫。そりゃ今でも人の顔色を伺ってしまうことがあるし、人目を気にして思うままに振舞えなかったりすることはある。そして自分のそういう面は、やっぱり好きになれない。だけど妹と比べてどうこうとは思わないし、どちらが優れているとも思わない。だいたい、この年になってまだやってたら怖いでしょう。でも、後遺症は残った。それがフィクションの中の長男長女に対する、あるいはその性格をもつキャラクターに対する、異常なまでの思い入れである。

明るくいい子で何の屈託もなく常に前向きで皆に好かれる人気者よりも、ひねくれていて自分の感情を素直に表に出せない人。好きなものを好きと言えないくせに、実は誰よりも寂しがりやで、わかってほしいと願っている人。どんなにベッタベッタな性格設定だろうが、こういうタイプが出てくると無条件で感情移入して、彼らの幸せを祈らずにはいられない。アベルよりもケイン(ジェフリー・アーチャー『ケインとアベル』)、光流先輩よりも忍先輩(那須雪絵『ここはグリーン・ウッド』)、ベンジャミンよりもティルト(清水玲子『月の子』)である。誰が何と言おうとそうなのだ。

それなのに、それなのに、長男長女が物語の中で差別されることの何と多いことか。特に長女だ。今私の頭の中にあるのは、児童文学の4人の兄弟姉妹が冒険する物語群なのだが、長男はまだいい。年長の彼はリーダーとして優遇される。冷遇されるのは長女だ。彼女はたいていノリの悪い現実家に描かれ、真っ先に冒険を卒業してしまう。いい例がC.S.ルイスの『ナルニア物語』である。この物語では、大人になってしまうとどの子もナルニアには行けなくなる。だけれども最終巻『さいごの戦い』で、ナルニアが滅び、新しい世界に向かって扉が開かれるとき、かつてナルニアで冒険をしたことのある子供たちは、どの子もそこに迎え入れられる。ただ一人、一番最初にナルニアにやってきた四人兄弟の長女、スーザンを除いて。

ふざけんなー、なんでスーザンが仲間外れなんだ。彼女だって皆と一緒に冒険をしたじゃんか! 「彼女は今の年齢になろうとして今までの人生を台無しにして、今の年齢にとどまろうとしてこれからの人生を台無しにする」って何だ。冒険の最中にそんなそぶりを見せたか? 多少現実的でノリが悪かったかもしれないけど、こんな仕打ちを受けるほどではない。それを「もはやナルニアの友ではありません」で切り捨てるなんて。小さい頃に大好きだった『ナルニア物語』に今イチのめりこめなくなった要因は、キリスト教的な世界観や説教臭さよりも何よりも、このスーザンに対する裏切りのせいである。許さじ。ああ、エドマンドが魔女にもらうプリンは今でもあんなに美味しそうなのになー。

そう、萌梨ちゃん(山口美由紀『V-K(ビビッドキッズ)☆カンパニー』)じゃないけど、冒険を楽しく続けるにはある程度の現実感覚が必要なのだ。お弁当も持たずに森に出かけたらおなかがすいて泣きたくなるし、地図を持たずに山に入ったら道に迷うのだ。暗くなっても帰らなかったら次から外に出してもらえなくなるし、パラシュートをつけずに飛び降りたら潰れるんだってば! 皆が「飛び降りよう、飛び降りよう、わーいっ」とやっているときに、「ちょっと待て」とストップをかける人間もいた方がいいのだ。たとえそれが盛り上がりに水を差すとしても。

この辺をきちんとわきまえているのが、アーサー・ランサムの『ツバメ号シリーズ』である(魅力はそれだけではないので、シリーズの感想はまた改めて書く)。この物語では、現実家も仲間外れにされずに、ちゃんと一緒に冒険を楽しんでいるのが好きだ。やはり現実家の役割は長女スーザンに振られていて、彼女もときどき口うるさくはなる。だけど彼女が実際的であるからこそ、後の心配をしないで冒険を楽しめるというのを、他のメンバーがちゃーんと理解しているのだ。泣かせるではないですか。

でもこのパターンは相当珍しいと思う。ケインはアベルを恨んだままで死んじゃうし、ティルトもセツに尽くして死んじゃうし、忍先輩だって負けちゃうんだもんなー。がんばれよ長男長女!(ってこの3例とも別に兄弟の話じゃなかったか、ありゃ)

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4.同人誌の密かな愉しみ(2001.10.10)

(※注. 今回「ばか」を使いますが、今回に限り、これは褒め言葉です。)

マンガ好きを長年続けていると、誰でも一度や二度は(たいてい中学か高校の頃に)、今まで知らなかった世界から誘惑の魔の手が伸びてくるコトがある。私の友人にはマンガ好きが多かったが、地方に住んでいたせいか、または現在ほどその活動が市民権を得ていなかったせいか、悪友が「To-ko、こうゆうの知ってる?」と囁いてきたのはかなり遅く、高校生に入ってしばらくした頃だった。彼女の手にあったのは菊地秀行の『吸血鬼ハンターD』のパロディ本、いわゆる同人誌であった。

それまでも、同人誌の存在を知らないワケではなかった。でも私のイメージでは、それらはせいぜいコピー本の域を出ない、たいして面白くもない内輪受けの本のハズであった。しかし彼女から渡されたS同盟というサークルの出している本は装丁も立派で、絵も下手なプロよりよっぽどキレイだった。私はその本を隅から隅まで熟読し、そして作り手たちの、キャラクターに対する愛情の深さにハマッた。その愛情の深さがはっきりとわかるのは、作品そのものからよりも、手書きでぎっしりと書かれた対談ページからである。そこで作り手の彼女たちは、ストーリーやキャラクターのどこがどういいのかを熱く熱く語っている。しかも誰もが同じ作品を読み込んでいるものだから「誰々ってカッコいいよねーきゃーっ」では話は済まず、「誰々があそこでああいう台詞を吐くのは、実は内心こう思っているからではないか」のような、分析というか妄想というかのレベルにまで達しているのだ。

考えてみれば私は、その当時から今に至るまで、人が何かについて愛情を込めて熱く語るのが大好きであった。その対象が自分の知らないコトでも、よっぽどピントがズレていない限りは興味深かった。しかも対象がたいしたモノでもないのに(失礼)、それについて真剣に議論したり研究するような姿勢、これがもう好きで好きで。例えばシャーロッキアンたちがいい例だ。私もシャーロック・ホームズはキライじゃない。でも、原作が夢中になるほど面白いとも思わない。発表当時には素晴らしい物語だったのだろうが、その後の探偵小説を読んで育った身には、推理も描写も物足りない。惹かれるのはその雰囲気くらいだ。しかし、シャーロッキアンは違う。シャーロッキアンたちにとって、原作は“聖典”なのである。

ホームズが解決した事件を時系列順に並べようとすると、どうしても矛盾が出 てくるらしい。私は原作を読むときに、まず時系列順に並べようなんて思わないし、 もし思って矛盾に気付いたとしても「ああ、コナン・ドイルはいきあたりばったり で書いていたんだなぁ」で済ませてしまうだろう。しかし。シャーロッキアンたち はそこで諦めない。彼らにとって“聖典”は絶対なので、矛盾をなくすためにはど うすればいいかを探すのだ。そして「この事件は××年と書いてあるけど、違う。 この日付だと天候の描写に合わないから (天候データは現実の記録を持ってくる)、 これは○○年の誤りだ」と結論を出す。更にはその矛盾が起きた原因についても 「数字のこれとこれは見間違えやすいからタイピストがミスをしたのだ」とか「書 き写すときに間違ったのだ」とか「要人の身元を隠すためにあえて違う年を書いた のだ。そしてその要人とは、○○年に訪英した誰々だ (この辺も現実のデータをも ってくる)」とか、ちゃーんと推理するのだ。

それどころではない。本物の精神科医のシャーロッキアンにもなると「ホームズの言動は、母親に愛されずに育った人間特有のものだ。どの事件のあの台詞からは、女性に対する憎悪がはっきりと読み取れる」だの「ホームズはこれこれという名前の女性に特に冷たい。そこから見ると、ホームズの母親の名前はこれこれか、これに似た名前だろう」だのと専門的な知識を持ってきて推理を働かす。それ以外にもワトソン博士のフルネームは何かとか、彼は何度結婚したかとかを、長年に渡って喧喧諤諤とやっているのだ。ああもう! なんてばかなんだー! 愛しいぞぅ!

もちろんシャーロッキアンたちの出す本は、こうゆう研究書ばかりではない。“新しく発見された原稿”として、原作に忠実な雰囲気で新しい事件を書いたモノもあるし、「実は本当の名探偵はワトソンだった」ってモノも、単にホームズの推理を茶化すモノもある。その中で好きなのは、ロバート・L・フィッシュの『シュロック・ホームズ』シリーズだ。これはホームズを茶化している作品だが、茶化し方に愛があるし、ホームズがばかな以上に周囲の登場人物がばかなので、素直に笑える。ただ惜しむらくは原語で読まないとわからない洒落が多様されているので、翻訳ではその魅力が充分に味わえない。このようにパロディの中にも好きな作品はあるが、しかし私が何よりも愛するのは、別に証明されてもされなくても誰も困らないような問題を、大の大人が真剣にああでもないこうでもないとばかばかしくも真剣に論議している、そういった研究書の類なのである。

そして質のいい同人誌の対談コーナーとか後書きとかには、このばかばかしさに通じる面白さがある。というか同じだ。大手出版社から出ていて歴史の重みがあるだけで、シャーロッキアンの本は同人誌と変わらないと思う。話をS同盟の本に戻そう。その中に主人公の名前の“D”はどこから来たのかって対談があった。もともと原作の『吸血鬼ハンターD』っていうのは“ねっとりと体にまとわりつく、重みさえ感じる闇に、銀の刃が一閃した。Dの手から放たれた必殺の一撃であった。しかし闇をまとって立つ美貌の男の表情はあくまで静かで、ただその瞳だけが月の光の愛撫を受けて冴え冴えと輝いていた。” みたいな(ごめん、文章適当。今私が雰囲気を思い出して書きました。)作品で、その無駄に耽美な描写が面白く、またちょっとは乙女心をくすぐられてもいたのだけれども、その寡黙で美貌の主人公も、S同盟にかかれば形無しだった。

原作でのDは吸血鬼と人間のハーフで、それだからこそ吸血鬼ハンターになりうるという悲劇を背負ったヒーローだった。そして今は落ちぶれた吸血鬼たちに崇められているのが、吸血鬼の世界を作り上げ人間の上に君臨した“神祖ドラキュラ”で、どうやらDはその直系らしいというベタベタな設定がちゃんとあるのである。Dに負けた吸血鬼が「も、もしやあなた様は…Dとは…神祖の…(ドラキュラのD?)」と言いながら死ぬシーンだってあるのだ。素直に読めばそれで済むではないか。しかーし。彼女たちは素直に読まない。それとは別のシーンの、(1)Dは女に欲情すると吸血鬼の方の半分の本能が騒いで血を吸いたくなる、という説明と、(2)Dは鉄の自制心を持っているので吸血本能が出ても実際に血を吸ったことはない、という説明を思い出すのだ。そして(1)と(2)は全然違うところに出てくるにも拘らず、即座にその2つを結び付け、欲情しても本能を押さえつけなくてはいけないなら女といたすコトはできないのではないかという、多分原作者さえも意図していない結論を引き出し、さっきのシーンも「「も、もしやあなた様は…Dとは…(童貞のD?)」とおちょくるのだ。ああ、ばかだー。思考回路が見てみたい…。

彼女たちは『D』の他に『魔王伝』の本も出していて、その中で彼女らに溺愛されていたのが魔界医師メフィストだった。そして彼女らが愛すれば愛するほどその愛は歪み、「ホントに愛してのかよ〜!」ってくらいにそのキャラクターはおちょくられるコトになる。その分析力というか妄想力は素晴らしく、私はその力の前にひれ伏すしかなかった。その歪んだ愛情を彼女らは「ヘドロの愛」と呼んでいて、実は当サイトの感想文コーナー「愛のドロ沼」って名前もそこから来ている。愛してるからこそ、いろんな矛盾にツッコミたくなったりするんですよねー。

それほどハマッた割に、幸か不幸か私には同じ素質も熱意もなかった。あれば地方に在住していようがいまいが、ちゃんとコミケに足を運び、お気に入りのサークル前で列を作り、下手すりゃ自分でも本を作ってみようとしていただろう。しかしそこまではしなくても、やはり私は同人誌が好きだ。あの愛情を、「なんでこのシーンからそんな妄想を膨らますのーっ?」って思考回路を、その無駄なエネルギーを愛している。「あーもう、この人らばかすぎーっ」って叫ぶのが好きなのだ。方向性は違えども立派な同人女といえよう。

何だかマーケットが巨大になりすぎてしまったせいで、肖像権問題やらなにやら、トラブルも多いと聞く。実際にひどい同人誌もあるのだろうし、私も男同士がくっついていればそれでOKみたいなジャンルは好きではない。私の好きなサークルはエロを描かないところばかりだし(エロがキライなんじゃないけど、ない方が面白いだけ)。しかしそうゆう問題を抱えつつも、ああいう熱狂っぷりを見るために、何とか同人誌ジャンルは生き残って欲しいと思っている。ああ、同人誌よ、永遠に(笑)。

くっすん、長くなりすぎちゃって大好きなフェザーンBについて書けなかったよぅ。それが書きたくて始めたのに…。

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5.真実が露見する瞬間(2001.12.24)

現在NHKで放映中の『アリーmyラブ・4』を見ていたら、主要キャストのジョン・ケイジといい雰囲気になっていた女性が、「私は大学生までサンタクロースを信じていたわ」と言っていて、ちょっとドキリとしてしまった。なぜならこの女性は30になってもママ同伴でないとデートができない、対人関係に問題を抱えたイタイ女として描かれていて、これとは別に、現実に私は、20すぎまでサンタを信じていた女をよーく知っているからだった。

彼女が子供の頃の話から始めよう。彼女のクリスマスはまず、サンタへの手紙から始まった。ハガキに「北極 サンタ様」と宛名を書き、欲しいものをお願いする。「サンタさんは有名人だから、北極と書いておくだけで番地がなくてもちゃんと届く」と言うのが、彼女の親の説明だった。クリスマスイブには、コップ一杯のミルクとサンタさんへのお礼の手紙を用意してから、寝る。サンタにミルクを用意するってのは、確か外国の風習にあったと思う。彼女がクッキーを焼くようになると、これにクッキーが加わった。まあクッキーを焼く動機のほとんどは、自分が食べたいからだったのだが。手芸をするようになると、フェルトで作った小物入れなども添えられた。もちろん小学生の作るものだから、不細工だった。そしてクリスマス当日に目覚めると、用意したものは無くなっていて、その代わり枕元にはちゃーんとプレゼントが置いてあるのだった。

置いてあるのはプレゼントだけではなかった。毎年必ず、英語で書かれたメッセージカードが添えられていた。英語なので彼女に読めるハズもない。彼女は親に訳してもらおうとする。すると彼女の両親は「英語ができないから、なんて書いてあるか分かんないなー。○○さんちに行って聞いてみよう」と言うのである。○○さんとは、彼女の家と家族ぐるみで仲良くしている英語に堪能な女性で、その家には同年代の子供もいたから、毎年のように一緒にクリスマスパーティーをしていたのだった。○○さんにカードを訳してもらい、プレゼントを見せ合ってケーキを食べる。彼女の家のクリスマスは毎年こうゆう感じだった。

しかし蜜月は長くは続かない。小学校には「サンタなんかいるハズないじゃん。あれは親がやってるんだ」と主張するガキどもが溢れているものなのだ。どうしても耳に入るそうゆう意見のせいもあり、また自分でも「サンタが空を飛んでプレゼントを配って回る」ってのを信じるのが難しくなってきたせいもあり、彼女は親に疑いの目を向けた。が、彼女は徹夜ができなかった。プレゼントを置く現場を掴まえようとがんばって目を開けていても、布団に入った状態で眠らずにいるのは難しかった。それから彼女は、プレゼントのお願いのハガキを、親に見せずに投函するようになった。親に見せずに出した手紙は、サンタがいる・いないに関わらず北極には行くのだから、親がやっているなら希望通りの品が届くハズないと思ったのだ。

だが希望のプレゼントは届いた。いや違う。彼女たち(書き忘れてたが彼女には妹がいた)のリクエストは無茶なものが多かったので、希望通りではなかった。だがカードには「希望の××は〜であげるワケにはいかないので、代わりに…」とあって、ちゃんと彼女たちのリクエストがわかっている内容だった。それにそのカード。これは親が書いているワケがなかった。読めないのに書けるハズがないではないか? 彼女は混乱した。その後次第に「親がやっているのだろう…」という方に傾いてはいたのだが、彼女は親のしっぽを掴まえるコトができなかった。だから彼女のクリスマスの行事は、変わらずに続いた。

やがて彼女は「ま、いっか」と思うようになった。「多分親がやっているのだろう」の、「多分」と「だろう」をムリに取らなくてもいいじゃないか? そして彼女が中学に入る年に、サンタは「あなたはもう大きくなったので、私があなたのところに来るのは、今年が最後です。ステキな大人になってください」というメッセージカードと最後のプレゼント(目覚まし時計っていう、やたら現実的なプレゼントだった)を残して、姿を消した。その年になると友達同士で「サンタはホントにいるのか?」なんて話をすることもなくなっていたので、彼女はサンタに対して「ま、いっか」と思ったまま、育っていった。

高校を卒業して上京し自活を始めても、彼女の「ま、いっか」はそのままだった。自分が結婚して親になることもなかったから、20を過ぎても彼女の「ま、いっか」は残っていた。それをもってして彼女がサンタを信じていた、と断じるのは言い過ぎかもしれない。さすがにトナカイに引かれたソリやら、赤い服のおじいさんやらは、信じていなかった。「クリスマスには何か不思議な魔法が働くの」みたいなメルヘンチックなコトも、考えていなかった。何をもって「信じる」というのかってのは、大変難しい。だがまだ、「多分」と「だろう」は消えていなかった。そんな状態でやってきたある年の、夏のことである。

彼女はお盆休みで田舎に帰省していた。田舎は東京よりも寒かった。自分の服では足りなくなった彼女は、母親に服を貸してもらうコトにした。「適当に借りるねー」と声をかけて、彼女は母親のタンスを漁った。引き出しの下の方からシャツを1枚引っぱり出した、そのときである。足下にぽとりと、何かが落ちた。拾い上げてみると、それは赤いフェルトで作った小物入れだった。小物入れとは言っても、500円玉が1枚入るかどうかの、もし自分がもらったら使い道にめちゃくちゃ困るであろうって、ひどく拙い代物だった。しかし人の記憶とは不思議なものである。彼女には一目でそれが何だかわかった。子供の頃に自分がサンタさんにあげたハズの、小物入れだった。

彼女はシャツを羽織るのも忘れ、それを掴んで母親の元に走った。そしてその小物入れを掴んで、母の目の前につきつけ、言った。「ねえ、これ、なに?」 その時の母親の顔は、見物だったそうである。顔にはっきり「しまった…!」と書かれていたのだ。やはり記憶とは不思議なもので、母親にもそれが何であるか、一目でわかったようだった。「なんでTさんが(←彼女は母親を名前で呼んでいる)これを持っているの?」「いや、それは…」「いいんだよ? いいんだけどね! なんで私が見る可能性のあるトコロにこういうもの置いておくのよーっ!」 彼女の怒りは、もちろんサンタがホントにいなかったとか、親が嘘をついていたとかって理由ではなかった。「ナゼ今になって、今更、ボロを出すんだよぅ!」「…ごめん…」

彼女が落ち着くと、母親はカードは○○さんが書いていたコト、ハガキは宛先不明で戻ってきたのを見ていたコトを教えてくれた。「あんたたちが疑うから大変だったんだよー」と言ったあと、母親はこう続けた。「でもさ、サンタっているんだよね。そういう風に大変な思いをしても人にプレゼントをあげたいって、そういう気持ちそのものが、サンタクロースなんじゃないかと思うよ」………「Tさん……、それ、違うときに聞いたなら感動したかもしれないけど、今のこれの後じゃ、言い訳にしか聞こえない…」「はっはっはー、そうだよね」…はっはっはーって、アンタ…。

…こうして書くと、彼女、ばかですね。いやこうして書かなくったってばかなんですが。そして賢明な皆さまがもうお気付きのように、彼女とは私なんですが。うひー、あまり引かれないように言い訳しておくと、サンタを信じてた…ってのはちょっと違うと思うんですよ。私これでも人並みの知性はあるんです。でも理性がないんです。…あれ、逆、かな。わかっていたけど、あえて考えないようにしていたといいますか、あえて白黒つけないようにしていたといいますか。母の種明かしを聞いたときも「やっぱりね…」って感じで別にショックじゃなかったし(←当たり前じゃん!)。でもあの不細工な小物入れを見たときの感情を説明するのは、難しい。やっぱ10年も経ってからあんな簡単にボロを出された怒りですか。「嘘をつくなら最後まで」ですね。

しかし書いてみると、ウチのクリスマスは凝っていたなー。あのミルクを置いておく、なんて習慣は誰に言われて始めたんだっけ。ウチがメルヘンチックな家庭だったなんてコトは決してなく、「子供ってどうやってできるの?」って質問には、コウノトリやキャベツや妖精なんて欠片も出てこなかったくせに、どうしてクリスマスだけはあんなにこだわったんだろ? 謎だ。

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6.手紙(2002.10.5)

えーっと、ココには「真夜中に書いたラブレター」を推敲せずに載せていたのですが、やっぱ恥ずかしいので消しちゃいました。えへへのへ。「真夜中のラブレター」は起きたら即ゴミ箱へ出すのが賢いです。>うっかり読んじゃった皆さま。変なモノ読ませてすいませんでした。

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7−1.My Dark Age(2006.10.31)

やけに「いじめで自殺」のニュースが多いなあ。あれは連鎖反応起こすんだよね。死のうかと思い詰めてる子が、実行した子のニュースで背中を押されてしまうんだろうか。そう言えば私が中学生の頃も自殺が流行った……なんて思い出していた今日この頃。あんまり仕事が暇なので久しぶりにネットのあちこちを巡っていたら、やっぱりいじめに言及しているサイトがいくつかあって、読んでるうちに急に私の経験を書きたくなっていた。いじめの顛末と、今それをどう思っているのかを。あくまで個人的な体験話で、いじめについて考察したようなもんじゃありません。―――って誰も私に考察を期待しないよね。

何度か書いたけど、私はいじめられっ子だった。今と同じで大人しく控えめだった――と言うと友達には「けっ」とか言われちゃうんだけど。失礼な!――というか人見知りで初対面の人とすぐに打ち解けるような才能は持ち合わせていなかったので、要はいじめられやすいタイプだったのだ。東京の小学校では仲良しグループの中でいつの間にか仲間はずれになってしまったコトもあったし、転校した先の東北のド田舎分校ではいじめられグループに属しちゃったりもしたコトもあった。けど、それらは長く続いたモノではなかったし、今では、そんなにハッキリ覚えていない。一番ヒドかったのは中学生のときだった。ほぼ3年間ずっと続いたけど、1年後半から2年生の頃がピークだったと思う。

どうしてそうなったのかをいちいち書くと長くなるので省くが、私はいろんな点で標準からズレていた。まずは東京生まれでイントネーションが違った。中学に入るまでに2年以上の田舎暮らしをしていたが、それでも「変な喋り方」だと何人もに言われた。親戚のほとんどが東京にいたので、休みのたびに東京に行っていたが、その話をするだけで自慢していると非難された。家にテレビがなかった。皆が夢中になっているアイドルも、面白いテレビ番組も知らなかった。

お小遣いが月に300円だった。学校帰りに駄菓子屋に寄って、順番に奢りあうような付き合いにも参加するコトができなかった。学校で1人だけ、親に車で送り迎えをしてもらっていた。家から学校まで車で30分以上かかるうえに、バスも通っていなかったのだ。これまた学校で1人だけ、給食を食べずに弁当を持ち込んでいた。見かけに反して運動は全然ダメでドンくさかった。そして、テストが上手かった。

試験の結果が貼り出されると、いつも私の名前が最初にあった。2番に落ちるのは極々たま〜にだった。一度だけ、たしか一夜漬けさえもしなかったせいで4番にまで落ちたコトがあったが、あまりに皆が喜ぶのでなんだか癪に障って、次の試験ではまた1番に返り咲いた。(いじめられてるのに無駄に負けず嫌いを発揮する奴である。ちなみに今は何一つ覚えていない。数学なんか、今やったらクイズ感覚でけっこう面白いんじゃないかと思うのだが……。)

それでも、私が社交的な性格だったら、いじめは無かったかもしれない。でも私はとにかく人見知りが激しく、いきなり知らない子ばかりの学校に放り込まれて、すぐに友達を作れるようなタイプではなかった(他の生徒は地元の2つの小学校から来ているので、すでに仲良しグループはできあがっていたのだ)。休み時間は1人で本でも読んでいれば満足だったし、トイレに連れ立っていかなくても良かった。―――それが、拒絶されて孤立している状態なので、無かったら。

うーん……引きずってはいないつもりなんだけど、やっぱり書いてると辛くなってくるなあ。

いじめがどう始まったかは覚えていないが、たぶん何かはっきりしたきっかけがあったワケじゃなかったと思う。付き合いの中で、毒のあるからかいをされるコトが徐々に増えていき、気がついたらすごく辛い状態になっていた。「気持ち悪い」とかは普通に言われたし、席替えで私の近くになった人は大げさに嘆いてみせた。テニス部で前衛をしていたのだけれど、ボレーの練習では私のときだけボールをわざとはずされ、練習中に一度もボールに触れなかったりもした。

仲が悪くなかった頃に始めた部活仲間の交換ノート(←おお、時代だ)に、私の悪口が増えていった。私が書いた内容は無視された。「ペンの色が読みづらいんだよ、普通使わないよねこんな色」とか、そんな反応を除いては。試合に負けたのは全部私のせいだったし、野球部が試合に負けたのさえ私のせいだった(←私が応援席に入ってから逆転されたから。他のテニス部員と一緒に応援席に入ったのにね)。

部活のいじめっ子と、クラスのいじめっ子はまた別だった。クラスのいじめっ子たちは常に攻撃的ではなかった。彼女たちはよく話しかけてくるのだ。「マンガ描いて」とか「宿題写させて」とか。一度何人もが、国語の文章で答える問題の答えを丸写しして、先生にバレて怒られたコトがある。「人の答えを写した奴は頭が空っぽだが、To-koは心が空っぽだ」と言われたのは、今もはっきり覚えている。

「友達の為を思うなら宿題を写させるべきじゃない」という意味で。後で考えりゃなんで友達でもない奴の為を思わなきゃいけないんだって話だが、私はこの先生が嫌いではなかった。面白い大人ではなかったし、彼女(そう、女の先生なのですよ)の価値観はありがちもいいところだったけど、その自分なりの価値観がゆるぎなく、生徒に媚びるところがなかったから。

常に攻撃的ではない、という状態は、余計に怖かった。にこにこ笑って話しているので気を許して、反抗的にも取れるような言葉を口走ろうものなら、豹変するから。1度学級委員を押し付けられて(あれは人望とか全然関係ないよね!)、うっかり「W子ちゃん、私に入れたでしょ〜」と言っただけで、数人にトイレに連れ込まれたコトがある。んで何をするかというとW子ちゃんが私に土下座するのだ。「ごめんなさい、ごめんなさい、嫌な思いさせてごめんなさい」とか言いながら。んで他の子は「W子ちゃん可哀想〜」「許してあげなよ〜」と口々に言い立てるワケ。もちろん私がその場から逃げるコトは許されない。―――うーむ、いかにも女の子の陰湿ないじめだなあ―――。

こんなの、いじめに入らないんだろうね。なんせ「殴る蹴るの暴力行為がなかった」ら「いじめじゃない」んだそうだから。それでも私は辛かった。怒って逆襲するなんて真似は絶対にしなかった。できなかった。悪口は聞こえていないフリをしたし、意地悪も気にしていないフリをした。前の日に何があったとしても、次の朝に「宿題見せて〜」と言われたら「いいよ」と笑ってノートを渡した。何とか皆と同じになりたかった。仲間に入れて欲しかった。必死だった。

親にも先生にも、何も話さなかった。

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7−2.Our Dark Age(2006.11.1)

(2006.11.2 ちょこちょこ修正)

いじめがどう始まったかも覚えていないが、どう終わったかも覚えていない。が、卒業する頃にはほとんど無くなっていたのは確かだ。私も、いつからか言われたコト、やられたコトを前ほど気にしなくなっていた。私が気にしなくなったからツマラなくなっていじめが減ったのか、それともいじめが減ったから私が気にしなくなったのか、よく分からない。とにかく3年のときには、私を積極的にいじめてた子たちのうちの1人がいじめられっ子になっていた。彼女に「To-koなら私の気持ちがわかるよね」とばかりに擦り寄ってきたときにはさすがに「なんだこいつ」と思った。私があんまりツレなかったので、彼女はすぐに他に味方を探しに行ってしまった(見つかったのかどうかは知らない)。

男の子たちは、消極的な関与はあったにせよ、あまりいじめには加わらなかった。いじめっ子がいない場所では話してくれる女の子が、徐々に増えていった。3年生のときには何人もと親しく付き合っていた(だから、他に話せる人ができたから、いじめを気にしなくなったのかも)。そして何より、テニス部で私とペアを組んでいたH子は、一度も、無視に加わるとかそんな消極的な方法でさえも、私をいじめる側に回らなかった。可愛くて明るくて、誰からも好かれる彼女がいてくれたコトは、本当に私の救いだった(そのワリには現在没交渉だが。元気でやっているだろうか)。

高校に入って、さらに楽になった。給食はなくなったし、市内各地から生徒が集まるので遠くから通うのも目立たなくなったし、奨学金を受けたので自由に使える金が一気に増えたし、それほどドンくさくなくなったし、成績は中の下になった。余談だが一度(ちゃんと試験勉強したらどうなるんだろう)と思って真面目に試験勉強をしたら、一気に何十番だか成績が上がってしまった。三者面談のときに「To-koさんはやればできるんですよ!」と担任が興奮してたけど、私は(やればできるんだったら必要になったらやりゃいいや)と思ってそれきり勉強をやめてしまった。あれ以来必要が生じたコトは一度もない。

高校でも部活に出るのがツラくなったときは、ある。けどあれは、求められたものを私が全然クリアできなかっただけで、いじめではなかった。たとえ誰かと仲違いしたとしても、別の誰かと仲良くなれた。友達が「今朝、私の前歩いてた人たちがTo-koの噂話してたよ」と教えてくれたコトがある。「『変わってるけどいい人だよね』って言ってたよ」。―――たいした意味もなく教えてくれただけなんだろうけど、すごく、嬉しかった。中学生のときは「変わっている」と「いい人」は両立しなかった。

要は、私たちは少しだけ、大人になったのだ。こないだ何かでいじめの話になって、「中学のときは辛かったけど、高校に入ったら楽になった」という話をしたら、友達に「それはTo-koの学校の特色じゃないと思うよ。どこでもそうだよ」と言われた。日記のどこかでも触れたけど、マンガ家の那須雪絵さんが『ダーク・エイジ』というマンガの後書きに、「青春時代は苦しかった。最も楽しい時期だと言われる青春時代がこんなに苦しいなら、この先の人生はどんなに辛いものだろうと思ったけど、実は大人になるに従って人生はどんどん楽になった」と書いている。

幸いなコトに、いじめっ子たちに対する恨みつらみは残っていない。「例えどんなに反省しようがやったコトはやったコト。消せるものではない」という意見もあるだろうが、もし彼女たちがすごく魅力的な女になって私の前に現れたら、友達になりたいと私は思う。その顔を見て「子供の頃はよくこいつにいじめられたよなー」と思い出すだろうけど、それは「人間変われば変わるもんだ」という感慨のためだろう(変わっていなかったら「人間そうは変わらないよね」と思ってそっと遠ざかる)。今でも憎くてたまらないとか、絶対に許さないとか、怖いとか、そんな気持ちは自分の中に感じない。

ただ、あのときのコトを思い出すと、あのときの自分の不甲斐なさに叫びたくなる。あそこまでバカにされて利用されて、文句一つ言わずに人の顔色を伺ってへらへら笑っていた、抵抗の一つもしなかった、卑屈な自分をはりとばしてやりたくなる。―――いじめられる方が悪い、という話ではない。いっくら根暗だったにしろ変わっていたにしろ、いじめられて当然って理屈はない。私が「卑屈だった、不甲斐ない」と言うのは自分のコトだからで、人に対して言うつもりもないし、誰かが「To-koの性格が悪かったんだからいじめられたのは当然」なぞと言おうものなら今でもマジギレすると思う。

(全っ然関係のない話なのだが「自省の欠片も感じられない被害者」に対して抱く、このモヤモヤは何なんだろう。素人がカメラ向けられて舞い上がって自分のドラマチックな台詞でまた興奮して……みたいなのをニュースで見るコトが増えた。確かにあんたは被害者だけどさー、全部人のせいにするのはどうなのよ?」と思ってしまうのが複雑だ。「騙される方が悪い」「隙がある方が悪い」「不用心なのが悪い」という、被害者をむち打つ理屈は大嫌いなのに。)

鳥頭なせいでそれほど傷も残っていないし、私の人格形成に大きな影響を与えたのはその後の数度の海外旅行の方だと思っているけど、今でもしつこくこだわっている「常に視野を広く、選択肢を複数もたなきゃダメだ」という意識の根っこには、この中学時代の体験があるんじゃないかと思う。あと、人の顔色を読むのがキライなのも。誰かが話している最中にちらっとこっちを見るだけでドキドキした。たぶんほとんどは私の自意識過剰で、彼女らはただたわいない話をしてたんだろうに。言葉の裏を読もうとしたり、人の視線に過敏に反応したり、今はなるべくしないように気をつけている。

中学生の頃って、なんであんなに苦しかったのだろう。自分ができると思っているコトと実際にできるコトが乖離しすぎているからだろうか。自分と自分以外のものとの距離感が掴めないせいだろうか。とにかく私たちの世界は狭かった。学校の中だけが世界だった。学校の友達に受け入れられなければいけなかったし、学校で居場所を見つけなくてはいけなかった。異物があってはいけなかった。他人を受け入れるコトができなかった。たぶん、自分が不確かだから。

私も、大人になるに従って生きるのは楽に、楽しくなっている。自分にいるもの、いらないものがハッキリ分かってくる。違いを楽しめる。1つの場所に受け入れられなくても別の場所があるコトを知っている。失敗してもやり直せるコトを知っている。選択肢は常に複数あるコトを知っている。自分の選択の結果と向き合う楽しさとキツさを知っている。誰かと別れても誰かと出会えるコトを知っている。―――信じられなくなるコトもあるけれど、知っている。“Dark Age”には終わりがあるコトを知っている。辛かったら逃げられるし逃げてもいいコトを、逃げる道が一つだけではないコトを知っている。

それだけで、人生はずいぶんと楽になるのだ。

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