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修道士カドフェルシリーズ/エリス・ピーターズ

長編20冊・短編集1冊のカドフェル・シリーズ。大好きです。作者のエリス・ピーターズ女史は21巻目を執筆中に亡くなられ、自分の死後は続きを書くコトを禁じられたそうなので、このシリーズは20巻目で止まってしまいました。とは言っても、話は一巻ごとにちゃんと完結していますし、20巻目はちょっとムードが違って、作者本人が完結させるつもりで書いたと言っても納得できるような作品ですので、尻切れトンボの感はありません。もちろんご本人による続きがあったならそれに越したコトはないのですが、途中で亡くなられるならココしかないだろうというくらい、キレイな場所で終わっているのです。

カドフェルシリーズの舞台は、基本的に十二世紀のイングランド、ウェールズ地方にほど近いシュルーズベリの街です。たまに旅にも出ます。折しもイギリスはスティーヴン王と女帝モード(マティルダ)が国を二分しての内戦の時期です。正確に言うなら、第二話から内戦が始まります。第一話でヘンリー王の一人息子であり世継であったウィリアムが海難事故で死亡、第二話ではヘンリー王も亡くなっていて、彼の娘のマティルダと彼の甥のスティーヴンが争いはじめます。この内戦はシリーズ最後まで続いているので、それに絡んでのエピソードは、物語にもちょくちょく出てきます。

さて主人公のカドフェルはウェールズの人。修道士としては変り種で、若かりし頃には第一回の十字軍遠征にも加わって戦ったという経歴の持ち主。俗世でやりたいことはやりつくし、中年になってから終のすみかとしてベネディクト派のシュルーズベリ修道院を選びました。今は薬草係として修道院の菜園と野草園とを取り仕切り、心静かに暮らすことに満足しています。が、何せ人生経験豊富な彼です。おまけに人の心の機微にも敏い。好奇心だって未だに健在。つい世間知らずの修道士たちと俗世の人たちの間にたったり、悩める若い人たちの問題に首を突っ込んだり…。こうゆう人が何にも巻き込まれずにいられるハズがありません。

余談。作品中でカドフェルが「ウェールズ人としては十六親等までをそらで言えなくては恥」と言うシーンがあるのですが、これってホントなのかなー。最初に読んだとき「十六親等ってどれぐらい?」と思って、母親の協力の下に(自力じゃ絶対無理)分かるだけの家系図を書き出し、数えてみたけど九親等までしか判明しなかったよー。

そう。カドフェルがこのシリーズの探偵役であり、このシリーズはミステリなのです。カドフェルはその観察力と行動力を活かし、周りで起こる殺人事件を次々に解決していきます。自分なりの筋は持っているのに頭が固いワケでなく、場合によってはあえて規律も破るコトも辞さず(てか破ってばっかり)、日常を楽しみ、そこから必要な満足を得るコトができ、堅実で油断がなくへこたれず、自分の手の届く範囲をわきまえていて、俗世の罪を見下すのではなく、共感を抱いて愛するコトができる彼は、ホントに魅力的な探偵役です。年下の登場人物たちに慕われるのもむべなるかな。見た目のタイプとしては全然違うのですが、芯の部分、エッセンスとしては、紫堂恭子さん描く『辺境警備』の隊長さんと同タイプに思えます。(確か紫藤恭子さんも『カドフェルシリーズ』が好き、とどこかに書かれていた気が…)。

そうですね。もしカドフェルシリーズをマンガ化するとしたら、紫堂恭子さんにやって欲しいです。その他にも作品に共通点があるのですよ。イギリスの、草のにおいを感じるような風景描写しかり(紫藤さんの描くファンタジー世界はイギリスチックです)、やたら出てくる美男美女しかり(笑)。カドフェルは美男ではありません。ガニ股で背も高くはなく、元・船乗りらしく身体をゆすって歩く、がっしりとした中年男です。でもそれぞれの巻に出てくる恋人たちときたら、美々しい若者と娘ばかり。このシリーズには秘密の恋や身分違いの恋や、たまには何の支障もない恋がいっぱいなのです。一目惚れして、命を賭すほどの恋におちてしまうパターンが多いのは、おそらくエリス・ピータズ女史の好みなのでしょうね。ちょっとメロドラマティックな傾向も、実はけっこう好きだったりします。

カドフェル以外の魅力的な登場人物ももちろんいます。まずはヒュー・ベリンガー! もう大好き! ヒューと言ったらベリンガー!ってくらい好き。(ネタバレ→)彼の何がいいって、初登場の巻の得体の知れないトコロです。川で挨拶ともとれる仕草をするトコロなんかやりすぎなくらいカッコいい! その後彼はレギュラーになってくれるので、まあいつまでも謎めいた存在でいるワケにはいかなくなってしまうのですが、初登場のインパクトだけでその後もずっと好印象をキープし続けます。いや、その後も充分に魅力的なキャラなんですが。彼の妻・アラインもステキな女性です。登場時はちょっと影が薄い女性なんですが、四巻の彼女が大好き。それから第三巻から登場する、自分にも他人にも厳しいラドルファス院長。七巻冒頭の彼、カッコいいったら! 僧衣をむちのように一閃! きゃー、絵になるーっ。それから異色の経歴を持つマグダレン修道女もステキ。彼女が自らの才覚でのし上がってゆく物語が読みたいくらい好き。ああもう、一話だけに出てくる登場人物まで含めたら、いくら名前を挙げても足りません。

カドフェルが情熱を傾けて世話をしている薬草園がまた魅力的なんですよねー。ローズマリーにマヨラナ、ケシ、タイム、ウイキョウ、イノンド、セージ、ラヴェンダー、ヤエムグラ、モウズイカ、アマヤブニンジン、ヘンルーダ、カキネガラシ、マージョラム。こうして挙げるだけでワクワクします。呪文みたい。カドフェルは収穫したそれらを薬草園の傍らに建つ小屋で乾燥させたり、磨り潰したり、抽出したりして、更に独自に配合し、薬を作るのです。うわー、想像しただけでたまらん〜。もちろんお酒も仕込みます。酒は百薬の長ですもん。

あと何せ舞台が中世なものですから、忠誠心だの誇りだの誓いだのってキーワードがごろごろ出てきます。ええ、好きなんです、そうゆうの。敵であっても感嘆できる人物に対しては賛辞を惜しまないとか、誰が気付いていなくても、自らの犯した罪を自らが許さない心の持ちようとか。女史の描く中世は、恋愛模様も含めてですが、全般的にロマンティックです。…キレイすぎる、と言い換えてもいいです。人々は、誘惑に負ける弱さも持っていながら、基本的に善良で敬虔。中世にしては長生きの人が多いように思えるし、しかも矍鑠としています。考え方も生活様式も、現代的にすぎるかもしれません。

私はその辺もひっくるめて、このシリーズを愛しているのですが、もう少し生々しいのが好きな方にはケン・フォレットの『大聖堂』をオススメします。これはカドフェルファンにとっても必読の作品。カドフェルと全く同時代が舞台なので、カドフェルで馴染みのある人物の名前がごろごろ出てきて楽しめるし、ピーターズ女史の描く中世イングランドとは一味違った、いい意味でドロ臭い世界を味わえます。

そうそう、カドフェルシリーズは本場イギリスでドラマ化されています。日本でもちょっと大きなレンタルビデオ屋なら置いているかもしれません。ただ、単行本一冊を1時間ちょいのドラマにしちゃっていますので、内容は詰め込みすぎで、ドラマだけ見ても話が唐突でワケわからないです。それでもイングランドの風景や、衣装の質感、髪の結い方、石造りの修道院の暗さ…などなどを、映像で見られるのは嬉しい限り。カドフェル役のデレク・ジャコビも、なかなかイメージに合っています。ただヒューがなあ…。くるくる天パなんですよねー。しかも背が低すぎ。確かに原作でも「小柄」とありますが、ドラマの彼はまるで見習い修道士のようで、いただけません。小柄でも、独特のしなやかな身のこなしをする、一目で騎士とわかる人じゃなくっちゃあ。

ああ…。修道院に入ってカドフェルの助手になりたい…。

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アン シリーズ/ルーシー・モード・モンゴメリ

有名な、あまりに有名なアンシリーズ。訳者の村岡花子さんの後書きによると、『赤毛のアン』から始まって『アンの青春』、『アンの愛情』、『アンの友達』、『アンの幸福』、『アンの夢の家』、『炉辺荘のアン』、『アンをめぐる人々』、『虹の谷のアン』、『アンの娘リラ』と続く計10冊を、日本ではアンシリーズとしているそうです。しかしこのシリーズ、有名な割には全部を読んでいる人は少ないのではないのでしょうか。アンが大学に行ったり、校長先生として奮闘したり、ギルバートと遠距離恋愛したり、7人もの子持ちになるコト、ご存知? アニメとかジュブナイル版しか知らない方、多くありません? でもこのシリーズの良さは、ジュブナイル版では絶対に分からないのです。「ああいう善意の少女の、キレイキレイな物語ってダメ」って方は、せめて『赤毛のアン』だけでもちゃんとしたのを読んでから、好き嫌いを判断して欲しいと思います。

物語の舞台はカナダのプリンスエドワード島にある小さな村、アヴォンリー。ここに暮らすマシュウとマリラの兄妹は、孤児院から男のコを引き取ろうと心を決めます。内気なマシュウと頑固なマリラは、結婚もせず子供も持たずにずっと兄妹で生きてきたのですが、マシュウの体が若いときのようには動かなくなってきたので、農場を切り回すのを手伝ってくれる男のコを引き取って育てようと決心したのでした。が、何の手違いか、2人のもとにやってきたのは空想好きで桁ハズレのお喋り、やせっぽっちの赤毛の少女、アンだったのです。なんやかやの騒動の末、マシュウとマリラはアンを引き取るコトにします――と、ここからアンとその周囲の人々との、長い長い物語が始まるのでした。

私はこの話が『少女パレアナ』のような、“今までを知らずに生きてきた寂しい中年女(男)の元に、愛情に溢れた心優しい純粋な少女(少年)がやってくる。中年女(男)は少女(少年)に関わるコトで初めて愛を知り「ああ今までの私の人生はなんて寂しく空虚なものだったのだろう。これからは心を入れ替えて、人にもっと優しくなろう!」と反省し、今まで閉ざしていた心の扉を開けるのであった。ちゃんちゃん”系の物語として扱われるのが、昔から不満で不満で仕方ありませんでした。確かに1つのシーンとか、ある台詞だけを抜き出せば、『パレアナ』と『アン』の間に、そっくりなトコロはあるのです。でも私の中で、両者は全然違うものでした。

それなのに、その決定的な違いがどこにあるのかを言い表す言葉は、ずーっと見つかりませんでした。その私がようやく膝を打ったのは二十歳の頃、氷室冴子さんが『マイ・ディア―親愛なる物語―』の中で、アンシリーズについて書いている文章を読んだときです。「そうだよ! 私が言いたかったのはこれだよ! ずっとこう思ってたんだ」と、人の言葉を聞いてから主張するのって、何となく後出しジャンケンのようで卑怯くさい気がするんですが、実際にそう思ってしまったのだから仕方ありません。以下に、氷室さんの文章を引用させてもらいます。

「アンの物語がアニメ化されたり、映画化されたりしたときに、アンが最初から、なんの屈託もない、天真爛漫なコとして出てくると、
(なんか、ちがう)
としっくり、こないものがある。
アンが現れて、周りの大人たちがアンに感化されてゆく―――という、どうやってもイイコちゃん物語になるのは、さびしい女の子をしらないオジサンたちが、アニメや映画を作るせいだなあと思ってしまう。
『赤毛のアン』は、おしゃべりすることでしか自分を主張できなかった、器用そうにみえて、ほんとはすごく不器用な女の子に、世界が少しずつ扉をひらいて、優しくなってゆく物語なんです。ほんとはね。」

氷室冴子『マイ・ディア―親愛なる物語―』より

そう。そうなのです。逆なのです。『赤毛のアン』は、アンがその明るさで人々を変える物語ではなく、アンが受け入れられてゆく物語なのです。赤ん坊の頃に両親をなくし、それからはいくつもの家を転々として、役に立たなければ存在を認めてもらえなかった孤独なアンが、自分の居場所をやっと見つける物語なのです。氷室さんも指摘されていますが、アンの異様なほどのお喋りは、彼女の自己主張であり、自分を守る盾でもあるのです。アンが人に自分を認めてもらおうと、自分を好きになってもらおうと、そればかりを気にしてしまう理由もわかります。アンは愛されるコト、そして愛するコトに飢えた少女なのです。そのアンが、「あんたはここにいていいんだよ。何もしなくても、私たちはあんたが大好きなんだよ」と抱きしめられて、無条件に愛されるコトを知る物語なのです。

もちろん、愛情は一方通行ではありませんからね。マシューもマリラも、アンの存在によって変わっていきます。「アンを知るまでの私の人生はなんて空虚なものだったのだろう」って感じの台詞もでてきます。でも、特にマリラの変わりっぷりは可愛いくて、好きです。最後の最後まで「優しいおばさん」にはなれないんだけど、でもちらっと見せる愛情表現がとても可愛いの。内気なマシューはアンにべた甘です。隣の家のダイアナがアンの腹心の友となり、最初のうちはいろいろトラブルもあったものの、基本的に周りの大人たちにも愛されて育ったアンは、やがてくる悲劇も乗り越え、とても魅力的な女性に育ってゆくのです。

ところで子供の頃は、アンシリーズに出てくる色とりどりのお菓子に憧れたものです。とくに「砂糖衣のかかったケーキ」という言葉に、まるで夢のように美しいお菓子を想像していたのですが、大きくなって実際の砂糖衣がどんなモノだか知ったときには、とてもとてもガッカリしました。でも今でもシリーズを読み返すと、あの頃のワクワク感が蘇ります。レモンケーキにジンジャークッキー、くるみのケーキ、チョコレート。衣装談義にも胸が躍ります。ふくらんだ袖に憧れるアンの気持ちはよく分かるし、成長するにしたがって着る様になるドレスの描写も憧れでした。バラの蕾の刺繍を一面に散らしたドレスとか、綺麗なグリーンの裾を引きずるドレスとか、乙女心を刺激しまくりです。「アン、あんたってば妖精の女王のようよ」とかいう台詞を楽しめる人なら、この世界を堪能できるコト請け合いです。

モンゴメリ女史は、ちょっぴりシニカルです。人を見る目線が、ちょっぴり意地悪で、ときどき手厳しい。そこも好きです。子供のアンに「あまり正論ばかり言われたら、反対のコトをしたくなる」と白状させたりね。友達が他の人と仲良くなって自分から離れていくのではないかと不安になったり、嘘をついたり、意地を張ったり、落ち込んだり、好きな男のコが別の女のコといるのに嫉妬したり、つい心にもないコトを口走ってしまったり、カッとなってバカなコトをやって後で死ぬほど落ち込んだり、そうやって育っていくアンに対する共感は今も昔も変わっていません。つまらないコトやくだらないコトに一生懸命になって、泣いたり笑ったり怒ったりしているアンは、いつも変わらず魅力的な存在です。

あとこの時代の、「理想を持っている」姿が好き。『アンの娘リラ』は第一次世界大戦中の話になります。その中では兵役拒否者(これがまたイヤ〜な感じに書いてあるんだ)を卑怯者呼ばわりしたり、愛国心と犠牲を叫んだりと、ふと物語世界から現実にかえってしまうと「あれ? 私の考え方とは違うなー」って“理想”もあるのですが(でも全体的に見るとリラの成長物語であるこの話は大好きなのです)、でも「こうあるべき」というイメージを持ち、それについて熱く語るコトができる、この時代のこの感覚が私はとても好きです。人間理想を持ってなんぼ、というのが私の持論なんですもん。

好きなシーンやエピソードや台詞や人物を挙げればキリがありません。アンが大学時代に経験する、女友達たちとの共同生活。ギルバートとの友情と恋愛。ふと触れ合った人々とのエピソード。校長として、見知らぬ街に赴任。下宿生活。新婚生活と新しい街、新しい人々との出会い。少女らしい夢想を抱いたり、それを砕かれてガッカリしたり、人間関係に悩んだり……。中年になって「まだギルバートは私を愛しているのかしら」と不安になってみたり、なんとなくイライラして子供に当たってしまって後悔したり。アンを取り巻く環境もまた素晴らしいんですよ。アヴォンリーの自然の描写も、街の描写も、住む家の間取りから家具、飾り付けに到るまで、モンゴメリ女史は細やかな筆致で鮮やかに描き出してくれます。アンの周りの人々もね。彼女の本には魅力的な人が次から次へと出てきます。思うようにならないコトも、人間の醜さもあるのだけれど、でもそれでも人生を人間を世界を愛そうとしているこの物語を、私も愛し返さずにはいられません。

-2004.08.16-

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