私は気に入った本は何度も読む。読み飛ばすので、何年かたつとまた新鮮な気持ちで読めるのだ。得なんだか損なんだか。だが推理小説のトリックはなかなか忘れられない。だから何度も読むためには、トリックの他の魅力が必要だ。その点、エルキンズは上手いと思う。彼自身が読んで知識を得られるモノが好きだそうで、流石に彼の作品も毎作何かしら面白い知識が得られる。それにキャラクター作りも上手いのだ。
男性作家の書くキャラクターには、どうしても感情移入できない人間が多い。本人はクールでタフな男を書いているんだろうなぁと見当はついても、私に言わせりゃただの独り善がりのヒーロー気取りだったり、「謎めいた女」がホントに何にも考えていないバカ女にしか見えなかったり。もちろん女性作家にもそういうタイプはいるけど、割合的に見て男性作家の方に魅力のないキャラクターが多い。男と女では「いい男」「いい女」像が違うというし、そのせいかも。特に、男性作家で「可愛げのある男」を書ける人は少ないと思う。エルキンズはホントに珍しい例外。彼の書く男性は男が書いたものだとは信じられないくらい、可愛い。
このシリーズの主人公、ギデオン・オリヴァーは40歳前後。形質人類学者(具体的に何を差すのか知らず)で、大学教授。骨の専門家としてFBIの捜査に協力したりもする。ユーモアがあって、頑固で、ちょっと怒りっぽくて、シリーズ第2作の「暗い森」で出会ったジュリーにべた惚れ。仕事柄、腐乱死体を扱うこともあるが、骨は古ければ古いほどいいと思っている。隠れ男性優位主義者(たいしたことはない)。骨を鑑定するシーンは毎回あるのだが、ギデオンはその骨から人種・性別・年齢・特徴・死因などを鮮やかに見つけ出す。ホントにこんなにいろいろ分かるものなんだろうか。
「暗い森」はシリーズの中でもちょっと毛色が違っている。他のものは、何人かの登場人物の中から犯人を見つける伝統的なミステリのパターンなのだが、「暗い森」はクライマックスまで犯人が出てこない。ミステリとしては不公平だと思う。それに最初に読んだときは、設定に無理があるように思えた。国立公園の雨林の中に、文明から隔絶されたインディアンが住んでいるって話なのだ。いくらアメリカが広いったって限度があるだろうと思ったが、これは狭い日本に住んでいるから実感できないだけなのか。だが、この作品中のギデオンは特別可愛い。インディアンを探して、森に単身行くシーンが大好きだ。装備万端を整え意気揚揚と乗りこむのだが、あっさり迷う。おまけに用意してきた装備も充分ではなく、惨めさ倍増。泣きたい気分になっているところで、颯爽と登場してきたこの公園のレンジャー、ジュリーに助けられる。もう可愛さ爆発なのだけど、こんな彼、男性の目から見るとどう見えるのか興味がある。情けない男に見えるのかしら。今回読みなおして、インディアンとの別れのシーンの美しさに泣けた。
脇役もいい。妻のジュリー、親友でもあるFBI特別捜査官ジョン・ロウ、恩師のエイブ・ゴールドスタインは私のお気に入り。一つの作品にしかでてこない人でも、魅力的だったりする。
もう一つの魅力は、舞台が各国にまたがっていること。フランス、ユカタン半島、イギリス、アラスカ、ハワイ、etc. 旅行好きの私にとっては堪らない。その土地に行ったら絶対ギデオンと同じ場所を訪れてみたい。あ、食事のシーンも多くて嬉しい。美味しいものを食べるシーンは大好きだ。
エルキンズのもう一つのシリーズ、クリス・ノーグレンものもお薦め。
これは1972年にイギリスで出版されたアダムズの処女作なのだが、とても処女作とは思えないほど完成度は高い。次の年には児童文学賞を2つ取ったそうである。…児童文学賞。子供が読むのか、これを。文庫本で上下2巻の、ちゃんと大人が楽しめる作品だ。タイトル通り、主人公たちはうさぎである。
とあるうさぎの村で平和に生活していた主人公たちだったが、未来を垣間見ることのできるうさぎ、ファイバーが迫り来る災厄を予言する。彼の言葉を信じた兄のヘイズルは、村の現状に不満を抱く数匹の若いうさぎたちと共に、新天地を求めて旅立つのであった。困難を乗り越え、新しい居住地を作った彼らではあるが、新たな問題が持ちあがり、更なる旅と闘いの冒険が始まる…。
動物が喋ったり冒険したりするのがダメな人でも、うさぎを人間に置き換えさえすれば、予言者あり勇者あり戦士ありのこの物語をファンタジーとして充分楽しめる…と書こうかと思ったんだが、それにはやっぱり無理がある。だって冒険とは言っても移動距離はたかだか数km(だってうさぎだし)、すぐに許容量をオーバーして呆然とする(だってうさぎだし)、人参に我を忘れる(だってうさぎだし)、極めつけはその辺ですぐに糞をする(だってうさぎだし)。やはりうさぎはうさぎのままに、素直に読む方がいいだろう。
話が盛り上がるのは、うさぎたちが新しい居住地に辿りついてからの後半部分である。この辺りになると、うさぎたちの名前も覚え、性格もだんだん分かってくる。この部分から俄然魅力的になるのが、スライリである。スライリにはビグウィグという呼び方もあって、作中でも普通そっちが使われているんだが、直訳すると悲しいし(=ビッグウィッグ=デカづら)、彼が一番カッコいいシーンではスライリの名前が使われているので、スライリで書く。
スライリは元々の村ではヘイズルよりも上の地位についていたうさぎである。年も上だし力も強い。彼は物語前半では、すぐに腕力に訴えるトラブルメーカーとしての色が強かった。しかし、旅の途中でうさぎたちが自然と長にしたのはヘイズルだった。スライリは長になるよりも、冒険をしたり力比べをしたりする方が好きなタイプであり、ヘイズルの権威を受け入れて自分のポジションを決めてからは、その本領を遺憾なく発揮する。
スライリの敵役として現れるのがウーンドウォート将軍だ。彼は軍事的に組織された村を統率するうさぎである。どちらも長であるから、立場的にはヘイズルに対する位置にいるのだが、実質的に将軍の前に立ちはだかるのはスライリである。詳しい話は控えるが、後半部分でスライリはある重要な任務を引き受ける。その任務に赴く直前のスライリが張り詰めてナーバスになっているところ、任務中の彼の仲間に見せるのとは違う顔、ラストでボロボロになったスライリが「なぜ、きみは、出てこない?」という将軍の問いに答えるところ、めちゃくちゃ好きだ。“あ〜っもうこの単純バカ! カッコいい!”と身悶えするほど。冷静に考えれば“うさぎに入れあげてどうすんだ”と思うのだが、物語を読むのに冷静になってもつまらないだけだ。うさぎでもカッコいいもんはカッコいいのである。ちなみに将軍も敵役として最後まで立派である。
地味だけど堅実なシルバーとか、弱いくせに忠実なピプキンなどの他のうさぎたちや、間にはさまれるうさぎの伝説的英雄エル・アライラーの物語も面白いので、児童文学だとか古いだとかバカにせずに、ぜひ一度読んでみて欲しいと思う。
そういえば“『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』に感動したあなたが待ち望んでいた本!”みたいなキャッチコピーを帯につけて売り出した本があったけど(メアリー・スタントンの『天界の馬』)、あれはお話にならない駄作。主人公が馬である必然性が全然ないわ、馬たちが何をしたいんだかが最後までよく分からないわ。やたら勿体をつけただけで内容が無いようの本だった。キャッチコピーに騙されたいい例だ。
惑星パーンに移住してきた人類は、その牧歌的な星にそぐわないものとして科学を捨て、環境にあった生活を作りあげた。だが移住に適していると思われたこの惑星には、とある危険が隠れていた。パーンの回りを巡る〈赤の星〉。この星が接近すると全てを焼き尽くす糸胞がパーンに降りそそぐのだ。人々は生き残るための闘いに必死になり、やがて母星との繋がりも絶たれた。人々はかつて別の星から渡ってきたのを忘れた。。そして現在。パーン人は独自の文化を築き〈赤の星〉との闘い方を学んだのだが……という『忘れられた植民星』モノ。
シリーズ第1弾の『竜の戦士』が出版されたのが1968年の、息の長いシリーズ。アメリカでは新作もどんどん発表されているようだが、邦訳されているものは正史7作、外伝3作まで。頼むから始めた責任もって最後まで出版してくれ、早川書房! マキャフリイ女史はもうとっくに70歳を越えているのに、執筆意欲はまだまだ衰えていないようで、ファンとしては嬉しいかぎりだ。長生きしてね。
先に断っておくが、このシリーズ、突っ込みどころは満載である。私は科学/生物学/物理学的に不確かな記述があってもあまり気にしない方なのだが、それでも首をかしげる個所はある。うるさい人ならガマンできないかもしれない。それにある意味行き当たりばったりの部分もあって、時々前後で物語が矛盾したり、登場人物の行動の意味が分からなくなったりもする。登場人物の性格も、人によっては拒否反応を起こすかもしれない。イヤもちろん魅力的な人物も出てくるし、そっちの方が多いのだけれども、マキャフリイ作品のキャラクターは概して短気で気分屋だ。すぐに怒る。忍耐って知ってる?と言いたくなる。
『竜の戦士』の主人公レサの場合はまあいい。生い立ちを考えれば、常に鎧をまとって周囲に攻撃されないように神経を張り詰めている態度も理解できる。実際その後の作品に出てくる彼女は徐々に落ちついた人間になっていくし。私が嫌いなのは『竜の太鼓』の主人公ピイマアや『白い竜』の主人公ジャクソム。特に後者。どうもマキャフリイの書く“自立しかけた少年”がダメみたいである。彼らは「認めてくれ、僕を認めてくれ」とうるさ過ぎる。さらに周囲の他の子供に対する評価が厳しい。思春期っていうのはそういうものなのかも知れないが、大人たちが成長もしていない彼らを認めてしまうから許せない。脇役たちに比べて特に成長著しくもなく優れてもいない彼らだけが、なぜか評価されてしまうのがイヤ。主人公だからって甘えるな。
さらに作品によって同一人物が全然別の性格になっちゃったりするし、かなりのご都合主義だ。また彼女の作品を“ハーレクインロマンス”と評する人もいるそうだが、そう言われてみると違うと否定するワケにはいかないと認めるのも吝かではないと言わざるを得ない、かも知れない…。
というようにマイナス要素をいくつもあげられるシリーズだが、初めて読んだとき以来、私の愛読書である。マキャフリイの作品には欠点をおぎなって余りある魅力がある。何と言うか、彼女の作品って勢いで書いている感じがするのだ。だから時にそれがマイナスにもなるんだけれども、その勢いがスゴイので巻き込まれたら抜け出せない。急流に呑み込まれて、スムーズにながれていくには障害物がゴツゴツしているのも分かるんだけど、障害物の岩にぶち当たっても流れが強いから結局押し流されちゃって、目的地に運ばれてしまう…。そんな感じ。
このシリーズでは重要な役割を果たす(というより第2の主人公の)竜たちの存在も忘れてはいけない。別のシリーズ〈頭脳船(ブレインシップ)〉モノでもそうなのだが、マキャフリイが力を入れて書いているのは“絶対の結びつき”である。パーンの竜はテレパシー能力を持ち、産まれた瞬間にやはりテレパシー能力を持つ人間と一対一の関係を築く。その絆は絶対で何人も立ち入ることはできないし、死によってしか絶たれない。絆を持った竜と人間は常にお互いを感じていて、お互いの全てを知っている。どちらか片方が死ぬと竜も人間も後を追うか、抜け殻になって残りの人生を過ごす。
現実にあったら気色の悪い関係じゃないか、とも思う。だが程度の差や自覚の有無はあるだろうが、寂しさを知らない人はいないんじゃないだろうか。私は友達もいるし親にも愛されているし精神的にも今のところ安定していると思うが、それでもどうしようもなく寂しいときがある。体温のあるモノなら何でもいいから傍にいてほしいと願うくらい寂しいときが。そんなときに自分が一人じゃないと確信できる存在が、常に自分を愛し受け入れ抱きとめてくれる存在があるというのは、どれほど心強いことか。パーンの竜と竜騎士との関係は、現実では見出せない関係なだけに、哀しくなるほど魅惑的だ。私はこの作品を通して、この絶対の関係を、そしてそれを失う痛みを疑似体験する。
今まで繰り返し読んでいるにも拘わらず、読み返すたびに涙が出る。その時の精神状態によって泣くところは違うのだけれども『竜の探索』のブレクに「私ガイル」と竜が語りかけるところと『竜の貴婦人』のレリの「それから私たちは行くのよ」の台詞は私の絶対の泣きどころである。お気に入りのキャラクターはブレクとフ−ノルのカップルとロビントン師、褐竜のカンス。彼らには幸せな結末を迎えて欲しい。まあハッピーエンドが身上のマキャフリイだから大丈夫だとは思うケド。
また古い作品を持ってきてしまったけど同年代で誰か知っている人いるんだろうか。シリーズ最初の『金曜日ラビは寝坊した』が発表されたのが1964年で、1978年まで14年かけて『○曜日ラビは〜した』が金曜日〜木曜日の7作発表され、ケメルマンが没する1996年までに更に5作が書かれているらしい。多分邦訳は途中で止まっている。本格推理モノに入るらしいが、それを期待して読むとミステリマニアには物足りないんじゃないだろうか。動機も殺害方法も目新しいものはないし、トリックと言えるようなトリックもない。探偵役のラビからして地味だし、謎解きもあっさりしすぎるくらいあっさりだ。でもその全然派手さのないところが、一度ハマると心地良いのである。
ラビというのは、ユダヤ教の律法学者だそうだ。舞台は架空の町バーナード・クロシングで、主人公デイヴィッド・スモールはその小さな町のラビである。私はユダヤ教はろくに知らないので、教会で祈りを先導し説教をするラビをキリスト教の神父や牧師のようなものだと考えてしまうのだが、どうやら全然別物らしい。というか元々は別物だったらしい。現代では、他の宗教の影響を受けてラビを教会の指導者として位置付ける傾向がユダヤ人の中にもあるようだが、元々ラビとは律法を研究し現実世界でそれを応用して争い事の審判をしたりする、教師とか裁判官の役割を担っていたそうだ。(〜らしい、〜そうだとうるさいですが私のラビに関する情報ってのはほとんどこのシリーズで仕入れたモノなので、もし間違いがあってもご勘弁or教えて下さい。)
デイヴィッド・スモールは学者肌の昔気質のラビなので、ユダヤ人社会の中でも“見栄えのいいラビ”を欲しがるような人たちには受けが悪い。だから常に教会の理事会との契約更新で揉めている。そのうち殺人事件が起きてラビが反対派の誰かを助け、契約も更新される…ってのがお約束のパターンである。このシリーズの最大の魅力はこの頭の固いラビにある。頑固な信念の人で、ユダヤ教の掟から見て間違っていると思うコトには絶対に同意しない。世渡り下手で嘘を言わないから年がら年中周囲と衝突しているけど、一部の人にはとことん信頼されている。いいではないですか。
それから警察官のヒュー・ラニガンとラビの会話も好きだ。ラビの友人である彼はカソリック教徒で宗教問答が好きで、自分の宗教ではこう考えるけどユダヤ教ではどうなんだ?って話をラビとよくしている。宗教なんてものは一面からだけ語ればどれもそれなりに素晴らしいモノになり得ると思うのだが、このラビの語るユダヤ教もなかなか魅力的だ。例えばユダヤ教では神の存在を疑うのが罪ではない、だからキリスト教徒のように不自然な罪悪感を抱かない、とか。多数派の意見ではなさそうなのが残念だけど。
ケメルマンはかなりのスローペースで作品を発表しているので、物語の時間の流れは現実世界とほぼ一致している。そのせいか物語の中でも時代の変化が見られて面白い。第7作の『木曜日ラビは外出した』では教会内で女性が男性と同じ扱いを求めてラビと衝突している。普段はかなり奥さんの尻に敷かれているラビだけど、このときは掟を守る側に立っているのだ。最後の作品の頃にはまた情勢も変わっているだろうし、ラビがどう変わっていったのかぜひ知りたい。邦訳されていない作品ではラビは町を去ってしまうらしいんだけど、どういう状況でそうなったのか…。やっぱり世間の変化についていけなかったのだろうか。彼は権力争いに巻き込まれないで研究をしたいと最初の頃から言っていたから、自然の流れでそうなるのかも知れない。彼があんまり辛い思いをしないでいてくれたんだったらいいなぁ。ああ、英語が堪能なら邦訳待つ必要ないのに! 悔しいぞ。もう今更出ないかなあ。ホント日本の出版社には一度出したシリーズを最後まで責任持って続けて欲しいんだけど、無理?
スウェーデンのマイ・シューヴァルとペール・ヴァールーによって書かれたの全10巻の警察小説。1965年から1975年までほぼ毎年1冊のペースで書き続けることによって、スウェーデン社会の変遷を描き出す狙いもあったそうだ。この作品に天才的な刑事は存在せず、事件は叩き上げの刑事たちの地道な捜査やちょっとした運によって解決される。よくエド・マクベインの『87分署シリーズ』と並び評されているが、キャラクターの魅力からもストーリの面白さからも、私が取るのは断然こっち。
ここを書くためにシリーズ全巻を読み返したのだが、作品に古さを感じないのに改めてびっくりした。いやもちろん服装の描写は『サダデー・ナイト・フィーバー』みたいだし、ヒッピーもベトナム反戦デモもが出てくるし、銀行の監視カメラなどの機器は旧い。だけど描き出される人間や生活は、現在とそう変わらない。シリーズ後半になるにつれ徐々に社会批判の色が濃くなっているのだが、そこで嘆かれている現象は今でもよく聞くものばかりだ。犯罪の凶悪化、人間関係の希薄さ、会社や警察といった組織の腐敗、行き場を失った若者たち、etc.etc.
作者は主人公のマルティン・ベックを通じて、何度も何度も「この社会はどこに向かっているのだろう、これからどうなってしまうのだろう」と疑問を投げかけている。ただ「社会はどんどん悪い方向に向かっている」と繰り返し繰り返し書いている割に、イヤな感じはしない。よくある「昔はよかった、それに比べて今は…」的文章を読むと、なんだかなー、と思ってしまうことが多いけど、それとはちょっと違うのだ。多分作者の社会に対する愛情が読み取れるからだと思う。今の社会を嘆いてはいるけど、それはスウェーデンを、ストックホルムを愛しているからで、本当に心底から心配しているのがわかるからだ。
またこのシリーズ、すごく読みやすい。まあ最初は地名や人名が耳慣れないかもしれない。特に人名。アールベリだコルベリだモーンソンだラーソンだと似たような名前が続出して、こんがらがる。それでも一度ストーリーに引き込まれてしまうと止められなくなって、一気に読んでしまうのだ。ちなみに私が引き込まれるのはいつも、3作目の『バルコニーの男』から。3作目からメンバーが出揃って賑やかになってくるのだけど、シリーズ最初の2冊はマルティン・ベックが出ずっぱりで、ちょっとのめりこみにくい。だってこの頃の彼はしょっちゅう風邪をひいて体調を崩してばかりいるし、結婚生活は上手くいっていないしで、ちょっと辛気臭く、ずっと付き合っていると疲れてしまう。
それでもこのシリーズは順を追って読んだ方がいい。一応1冊ごとに事件は完結しているが、社会の移り変わりにつれ登場人物たちの心情も生活も変わってゆく流れがあるから。もちろん再登場する人や、途中で退場してしまう人もいるし。…ここで私のイチ押しの話をあげようかと思ったけど、3作目から全部でした(笑)。どれも捨てがたい。
イチ押しキャラは、3作目から登場のグンヴァルド・ラーソン。巨漢で乱暴で粗暴でドアを押し破るのが大好きな人なのだが、マルティン・ベックやその親友のレンナルト・コルベリからはかなりヒドイ扱いを受けている。特にコルベリ! どうしてそんなにラーソンに冷たいんだよぅ、とかなり最後までヤキモキさせられる。だけど5作目『消えた消防車』では彼が大活躍してくれるので嬉しいし、8作目『密室』や10作目『テロリスト』では他の仲間たちと少しは仲良くなっているのがわかって、ほっとする。
他にもラーソンによくどやしつけられるパトロール警官、クリスチャンソンとクヴァントのダメダメコンビも憎めないのだが、彼らに肩入れすると悲しい思いをすることになる。うち一人が7作目『唾棄すべき男』であっさり殺されてしまうから。(←ネタバレ)
それにしても『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』のスライリといい、このグンヴァルド・ラーソンといい、私はよくよく乱暴者が好きなようだが、“人は自分に無いものに憧れるのだ”と解釈していただければありがたい。
古い作品ばかりを取り上げているかのようなこのコーナー。今回は一気に遡って1930年へ。12巻シリーズの口火を切る『ツバメ号とアマゾン号』が出版されたのがその年だ。私がこのシリーズを読んだのは中学生のときで、初出版から優に半世紀以上が経ってからなのだが、出会うなり夢中にさせられた。内容は一言でいうなら「理想の夏休み」。12作の中には冬の話もあるのだけど、やっぱりツバメ号と聞いて思い浮かぶのは晴れ上がった空と青い湖と飛ぶように走る小帆船の帆で、夏のイメージだ。ジョン・スーザン・ティティ・ロジャのウォーカーきょうだい(小さすぎて冒険には参加しない末の妹ブリジットもいる)は、休暇を過ごすためにイングランド北部の湖にやってくる。そこで湖畔に住むナンシイとペギイのブリジット姉妹と知り合って…で始まる物語。4作目からはドロシアとディックのカラム姉弟も仲間入りし、舞台も北部の湖から外国まで大きく広がる。ちなみにウォーカーきょうだいの船がツバメ号で、ブリジット姉妹の船がアマゾン号。
中学生で初めて読んだときは、自分がなぜイギリス人に生まれなかったのか本気で悔しくなった。イギリスでなければせめて海の近くに生まれたかった。物語の中ではツバメ号の乗組員たちやアマゾン海賊(ブリジット姉妹)が、子供たちだけで小帆船を操り、キャンプを張って自炊をし、思うままに冒険を楽しんでいる。彼らは冒険のプロで、どの子も船の操り方を知っているし、テントは張れるし、キャンプの仕方は全て心得ている。途中から出てくる都会育ちのD姉弟(カラム姉弟)の焚き火の作り方を見て「新聞紙を使って火をつけるなんて!」とあきれかえるシーンがあるくらいだ。その後スーザンの名台詞「人間って都会で育てっぱなしにしちゃダメね」はいい。スーザンは一番分別くさいキャラクターで冒険に水を差すようなコトもときどき言うのだが、彼女がこういう台詞を吐いたり誕生日プレゼントにキャンプで使う調理器具を欲しがったりするのが私は好き。彼女も彼女なりに冒険を楽しんでいるのがわかって、何だかほっとするのだ。
今考えてみれば、私は子供のときにいろいろと経験できた方だと思う。山にも遊びに行ったし、川でも泳いだし、雪に穴を掘って遊んだし、基地も作った。それらは休みのときだけのイベントじゃなくて、日常だった。だから当時はあまりありがたみがなかったってのも、ホントだ。せめてキャンプくらいはしたいと思って家の畑の真中にテントを張ってもらった記憶があるが、うちにあった古いテントを建てるのは難しくて子供の手には余ったし、たしか天気が悪くなったせいで一度も寝ないうちにつぶれてしまった。それと比べるとツバメ号たちの冒険は、物語なんだから当たり前なんだけど、派手で最終的には必ず成功を収めるので魅力的だった。彼らが夢中になっているのが帆船という自分には全然縁の無いものだったのにも、憧れた。もともと海は好きだったが、船乗りという響きに今でもひどく惹かれるのは、このシリーズの影響もあると思う。
初めて読んだときは、彼らの冒険に夢中になり、世話焼きの長女スーザンに完璧に感情移入して読んだこのシリーズだが、今読み返してみるとまた違った感想がある。子供たちの冒険は相変わらず面白い。読むのをやめられなくて何度も夜更かしをしてしまうくらいに。だけど前回と違うのは、彼らの性格や周りの人とのやり取りに何度もほろりとしてしまったコトだ。昔の物語には、登場人物たちの倫理観とかプライドの持ち方とか物事の見方とか、そういったものになぜだか泣かされてしまうものが、ときどきある。もちろん昔のが全部素晴らしいワケではなくて、考えなしの善意の塊の少女だとか独り善がりの正義感を振りかざす少年だとかがやたらに祭り上げられる小説も数多いのだけれども、そうでないものはホントに読んでて気持ちいい。ただこういった少年たちの物語は、今書かれたら嘘っぽくなってしまうような気がする。ひどく残念だ。
今回いいな、と思ったのは周りの大人たち。特にウォーカーきょうだいのお母さんはいい。彼女自身が出身国のオーストラリアで子供の頃に帆船を乗り回して遊んでいた、という設定なので、子供たちの冒険に理解がある。理解があるだけではなく、本人も子供たちの冒険を一緒に楽しんだりもしている。それからアマゾン海賊のおじさんのフリント船長。湖の屋形船に住む大きい子供みたいな彼も欠かせない仲間で、彼のおかげで子供たちの行動半径はずいぶん広がっている。またちょい役にも、農場の娘さんとか炭焼きのおじいさんとか魅力的な大人は盛りだくさん。敵役のいやーな大人も出てくるが、こういうステキな大人が多く出てくる物語は面白いし、嬉しい。
あとやたらと株を上げたのはジョンとナンシイ。ジョンは最初とある大人に誤解され、やってもいないいたずらをしたと言いがかりをつけられ、それを否定すると嘘つき呼ばわりされる。そのときの傷つきっぷりでもう私のハートを鷲掴みである。多分このシリーズの子供たちをいい子ちゃん過ぎると思う人もいると思う。たしかにできすぎた子供たちではある。でも彼らの自尊心や独立心…仲間たちに「彼は僕を嘘つきだと言ったよ」と白状するときのジョンの気持ちも、それを怒るほかの子供たちの気持ちも、私にはとてもリアルに思える。誤解がとけたときの描写もまたいいんだよこれが。ジョンが私を泣かせるとすれば、気持ちよくさせてくれるのがナンシイ。常に冒険を最優先させる彼女はある意味スーザンの対極で、感情移入できるというよりは憧れるキャラクター。エネルギッシュで潔い。友人をとことんかばう彼女は、もうカッコよくてカッコよくて。
他にも好きなところを語ればキリがないこのシリーズ。中学生のときと今現在の読み方に変わった部分があっても相変わらず面白いように、また10年経ってから読めば別の楽しみ方ができると思う。だから古本屋で見つけて買ってしまったのだけど、このシリーズの難を言えばえらく嵩張るコト。お願いだからこうゆう面白い物語は文庫版でも出してくれ。
好きな探偵のタイプは、いくつかある。見るからに頭のいい、謎解きでは「全員集めてさてと言い」の、典型的な“名探偵”もキライではない。付け加えるなら、こうゆうタイプは出来うる限り傲岸不遜であるのが望ましい。自惚れが強い自信家で、それが失敗して「なにもそこまで落ち込まなくっても…」ってくらい、しおしおになっている状態が可愛くて。でも名探偵であればあるほど、そんな可愛げが見られるのはごくごくタマになので、もっと好きなのは普段から可愛げがあるタイプ。大好きなギデオン・オリヴァーがその典型。彼ほど可愛い探偵役は、ちょっと知らない。男では、だけど。或いは、一見ちっとも名探偵には見えないタイプ。ミス・マープルとか黒後家蜘蛛の会のヘンリーとか。みんなに軽く見られてる人が意外な推理力を見せて「ええっ」とさせるって、このパターンも好き。
…って、この書きっぷりでわかるように、ミステリを読むときに…いや、どんなジャンルの小説を読むときにも、私が最重要視するのはキャラクターである。いくら奇抜なトリックが使われようが、キャラクターに親近感を抱けなかったら「わーびっくり」で終わってしまう。逆にキャラクターさえ気に入れば、多少ムリなトリックも、無茶な設定も、ご都合主義の展開も気にならない。トリックを見抜くのを楽しみにできるような、純粋なミステリファンではないんですわ、きっと。有名なエラリー・クイーンの「読者への挑戦状」でも、ちょっとは考えるんだけど、すぐに諦めちゃうし。
その点、『ゴミと罰』『毛糸よさらば』『死の拙文』…と名作をモジった題名が続くこのシリーズの主人公、ジェーンは親しみやすい。なんせ30代の主婦である。夫に死に別れ、3人の子供を育てるのに悪戦苦闘中。ミステリファンではあるが特に頭がいいワケではなく、暇さえあれば近所の仲良しの主婦仲間を相手に喋りたおす。殺人が起こっても、3人の子供を学校に送り迎えしなくちゃならず、料理を作り洗濯をし掃除をし、庭をつくり、バザーに出品する膝掛けを編み、噂話に精をだす。要するに決して日常から離れないのである。後書きによると、こうゆうのを“ドメスティック・ミステリ”というらしい。
謎解きは、難しいトリックを好む人からすれば「ふざけるな!」って感じだと思う。それに、私から見ても事後の説明があっさりしすぎている。動機や犯行の手順は、ホントにさらっと流してしまうので、「もうちょっと詳しく教えてよ」と言いたくなるくらい。でもきっとそれでいいのだ。ジェーンにとっちゃ殺人事件は日常に紛れ込んできた異質なモノで、それがあると安心して“日常”ができない。だからそれを取り除くために、せっせと探偵活動に精をだす。だから彼女にしてみたら「犯人を捕まえる」ところまでが大事で、それが済んでしまったら、動機やら何やらはもうさらっと流して、さっさと平和な日々に帰りましょう、って感じなのだろう。…本格ミステリ贔屓はキライそうだなー、こうゆうの。
同じような日常タイプの作品を書く作家にシャーロット・マクラウド(別名:アリサ・クレイグ)がいる。ただ、マクラウドの書く“日常”は、ちょっと変わっている。料理だの仕事だのってやっているコトは同じでも、住んでいる場所が現実にはない、どこか風変わりな田舎町や大学町だ。それに比べ、ジル・チャーチルのは現実っぽさが強い。ジェーンの住んでいるのは、アメリカの郊外住宅地で、環境的には変わったトコロは何もない。変わり者や嫌われ者はいるが、エキセントリックって程ではない。殺人は多いけど…ミステリだもん、そりゃ仕方ない。
とにかく私は彼女の生活が好きで。生意気な子供たちにイライラしても、それでもやっぱり子供たちとは仲良しで。彼らが成長しちゃうのが、ちょっと寂しいと思ってて。隣に親友の主婦がいて。ちょっと気になる年下の男性にドキドキして(←3巻目現在)。掃除がヘタで。料理は手抜きもして。庭いじりが楽しくて。バザーの係をやって。生涯学習の講座に通ってみて。…うーん、好きだなぁ。このシリーズを読んでいると、前にちょっとだけやった海外生活を、懐かしく、リアルに思い出す。料理を持ち寄ってのパーティーとか、雨の日に焼いたケーキとか、バーでのお喋りとか。そうゆう時間がたっぷりあった生活への憧憬も、この作品を好きになった大きな要素。…主人公のジェーンは母親業が忙しくて、そう暇してないんだけどね(笑)。
現在このシリーズは7作目まで翻訳されているが、私はまだ全部読んでいない。5作目くらいまでだった…と思う。けど、きっと回を重ねても雰囲気変わらず、安心して読める作品だと思う。
2002年に公開された映画のおかげで日本での知名度もぐんとあがった、それ以前から熱烈なファンの多い、ファンタジーの原点であり金字塔、『指輪物語』。私がゲームを始めたのは20歳を過ぎてからと遅くて、ドラクエを知るよりも先にこちらを読んでいたので、my≪剣と魔法の世界≫はこの作品(とゲド戦記とナルニア物語)が土台になっています。かなり熱心なファンの1人と言えましょう。持っているのは瀬田貞二さん訳の文庫版で全6冊。新版での文庫9冊分+追補編の一部が詰め込まれているので、字が普通の文庫本に比べて極端に小さいのですが、その分長旅に持っていくには最適の本です(実際NZ滞在には6冊抱えていきました)。
『指輪』の魅力を語ればキリがないのですが、まず挙げなくちゃならないのは、緻密に作りこまれた世界、中つ国の魅力でしょう。ファンタジーだからと言って口から出任せに世界を作ればいいってもんじゃありません。ときどきそうやって作られたとしか思えないファンタジーもありますが、そんな世界はいつか矛盾に耐え切れず破綻します。中つ国も完璧ではありません。例えば中つ国の外側の世界がどれだけ想定されているかってのは、少なくとも『指輪』だけを読む限り、よく分かりません。でもこの物語の舞台は中つ国であり、その中つ国に関する限り、トールキンはホントに細かく、ストーリーにほとんど関係のない部分までもを、きちんと設定しているのです。
人間以外にもエルフ族、ドワーフ族、ホビット族、オーク、ゴブリン、トロール…と種族があり、同種族でも住んでいる場所によって性質や文化が違います。それぞれの暮らしぶり、何に魅力を感じ何を尊ぶか、どんな外見でどんな言葉を話すのか、そこまできっちり描かれているので、読者も情景をありありと描き出せます。ピーター・ジャクソン監督によって映像化された中つ国を「イメージ通り!」と思ったファンが多かったのは、トールキンが自分のイメージを読者にきっちりそのまま伝えるのに成功した証じゃないでしょうか。ちなみに私は森に住む美しいエルフにも憧れますが、やっぱこの物語の中心を担う、丸い扉や窓のついた素敵な穴に住み、うわさ話が大好きで、のんびり戸口に腰掛けて煙草の煙で遊ぶ…けれども強い芯を持ったホビット族に、強い愛着を覚えます。
風景の描写も同様に鮮やかです。のどかなホビット庄に深い暗い森、霧のかかった谷間に切り立った山々、荒涼としたモルドールの国に荒れ果ててしまったモリアの坑道、人間の作った美しい都に雄大な大河アンデュイン…。おお。私は旅をする物語には地図がついてて欲しくて、その地図と見比べて位置を把握しながら読み進むのが好きなので、巻末or巻頭の地図と首っ引きになっちゃいます。こんな素晴らしい描写には、引き込まれずにはいられません。そして忘れちゃいけないのが、登場人物たちの人間らしさ。以前「私はファンタジーは読まないの。だって妖精も龍も存在しないのだから、嘘くさくって」と宣った方がいらっしゃいましたが、そりゃその人の自由なのですが、もったいないなーと思ったものです。
トールキンは「牛や木々に親しむには龍やエントに親しむ必要があり、人間を知るためにはエルフやドワーフを知る必要がある」とまで言ったそうです(←すいません、未確認情報だしウロ覚えです。正しいの知ってる方教えて)。私はそこまでは言いませんが、でもエルフやドワーフを描いているからって、それがお伽噺でしかないとも言えません。エルフやドワーフ、ホビット、ゴブリンを描きながら、人間のとある性質を描き、共感を抱かせるコトはできます。この物語に出てくる種族は、もちろん人間も含め、とても存在感があり、近しい感覚…親しみを感じます。友達を呼んでご馳走を楽しみながらお喋りするのが好きなホビットが、とんでもないモノを手に入れおっかなびっくり旅に出る…黒の乗り手に襲われたときの恐怖、宿屋に辿り着いたときの安堵感、見知らぬ人への警戒心、友達の申し出をありがたく思う気持ち…ほら、簡単に感情移入できるでしょう?
主要な登場人物たちをこの調子で語ってたらホントに終わらないので、ホビット族以外を簡単に。灰色のガンダルフ。賢者のくせに怒りんぼで口が悪く、魔法使いだけあって謎めかすのが好きです。厳しいけれどもときおり優しい。旅の仲間たちに頼りにされるのがよく分かります。エルフ族のレゴラスとドワーフ族のギムリ。最初は警戒しあっていた2人が次第に親しくなっていくのが嬉しい。2人の戦のときの会話なんか大好きです。森の奥方ガラドリエルのところに一行が訪れる場面で、ギムリが奥方に望みを述べるシーンも大好き。それから馳夫さん。イシルデュアの世継で物語後半では大活躍ですが、私は最初の頃の謎めいた野伏の方が好き。嬉しいコトに後半になってもちゃんと野伏らしさを失いません。この人も苦労症ですわな。そしてゴンドール王国執政デネソールの長男ボロミア。誇り高い武士で故に自分が正しいと思ったら人の話を聞き入れない傾向があり、一瞬の誘惑に負けてしまうけれども悪人ではない、きわめて人間らしい人。私この人好きでねー。彼が“小さい人たち(=ホビット族)”に気を使う描写はたまりません。
旅の仲間以外ではこの人の弟のファラミア。父デネソールとの関係に悩む様子は、まるでヤマトタケルノミコトのようでツボ。やたら立ち直りの早いローハンのセオデン王もカッコいいし、森のトム・ボンバディルは素敵です。ああエントたちも忘れちゃいけない! あと大事なのは…ゴクリ! 自分の良心と指輪の誘惑との間で引き裂かれる、とことん哀れな生き物で、なぜか憎めません。彼がそっとフロドを撫でるシーン…あそこでサムが戻ってこなかったらどうなったのだろう…と読み返すたびに思います。瀬田さんが訳した、ゴクリの話し言葉は見事だと思うなー。名訳! なんせ「しどいよ、しどいホビットさんたちだよ、かわいそうなスメアゴルいじめるよ」ですぜ?
さすがに冥王サウロンやオークどもは文句なしの悪役なんですが、それ以外の人たちはいいトコロも悪いトコロもある、弱気になるコトもカッとなるコトもあるって作り方がいいのですよね。だからこそファンタジーでありながら、絵空事になっていないのです。それからコレはこの物語に限らないのだけれど、昔の物語に出てくる人たちの倫理観やら忠誠心やらには、ぐぐっときちゃいます。ほろほろ泣いてしまったりして。なんて言えばイイんだろ…。例えば、友人のために力を貸すとか、仲間を悪く言われたら黙っていないとか、一度たてた誓いは守り抜くとか、今の自分にできるコトを力いっぱいがんばるとか…そんなコトを、「しなくてはいけないから、そうする」のではなくて、それは息をするほどに当たり前のコトだとでも言うように、迷いもせずにやってのける、そんな風な“人してのあり方”に揺さぶられてしまうのです。
具体例を挙げると、まずフロドの旅立ちのシーン。ここでサムと2人でこっそり旅立つハズだったフロドは、計画が仲のよいメリーとピピンにもバレているコトを知り、2人に引き止められるのだと思って「私は行かなくちゃいけないんだ」と言います。するとメリーとピピンはこう答えるんです。「わかってないなー。あなたは行かなくちゃいけない。だから僕らも行くんです」。ああ、どうよどうよ? 凄くない? サムもフロドに置き去りにされそうになったときに言いましたよね、同じ台詞を。それからこの物語は壮大な戦の物語ですからねー。この先には忠誠やら名誉やら献身やら盛り沢山で、こんな凄い台詞が次々飛び出すのですよ。たまりません。ローハン軍が戦いながら歌を歌い出すシーンなんか、すごい昂揚感を覚えます。
ホンットにキリがないので、もうそろそろ止めますが…最後に1つだけ。サムがイシリエンで作った香り草入り兎肉シチューって、美味しそうだと思いません?
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