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エレナ・ポーターの『少女パレアナ』をご存知だろうか。アニメ化された時の名前、ポリアンナの方が通りがいいかも知れない。両親に先立たれ厳格な叔母パレーに引き取られた少女パレアナが、その「天使のような」心で周囲の人間たちを変えていくという話で、発表当時(1913年!)には読者の熱狂的な支持を受けたそうである。パレアナは何でも“喜びの遊び”にして、どんな状況にあっても何かしら救いを見出そうとする、ある意味前向きな少女だ。例えば、人形が欲しいときに松葉杖をもらってもがっかりしないで「この松葉杖を使うような怪我をしてなくて嬉しいわ」となるワケ。私はこのパレアナが大っ嫌いだった。自分を引き取ってくれたパレー叔母さんをすごくいい人だと思いこんでいるのはいいとして、だからって相談もしないで犬や猫や果ては人間まで拾ってくる。で「叔母さんはいい人だから、絶対に見捨てたりしないわ」と言い放つ彼女のはた迷惑な善意。言ってはいけないと言われたことを、ことごとくバラしてしまう彼女の、先を考えない軽率さ。寝たきりの病人に「他の人がみんなあなたみたいに寝たきりでないことを喜びましょう」と言う彼女の無神経さ…。物語のキャラクターで嫌いなタイプはいくつかあるが、そのうちの1タイプ「相手の立場や事情を斟酌せずに、自分の信念を押しつける人間」の典型がパレアナだったのだ。 パレアナを凌ぐキャラクターはなかなか現れず、彼女は長年にわたってNo.1のポジションをキープし続けていた。しかし驕れるものは久しからずで、終にはその座を明け渡す時がやってくる。このパレアナを追い落とした女こそ、夏子である。 新潟の造り酒屋「佐伯酒造」の娘、夏子は、兄の死をきっかけに実家に戻ってくる。兄の意思を継ぎ、まぼろしの米を使って日本一の吟醸を造るためである。周囲との軋轢、無理解、何一つ知らない米作りの難しさ…艱難辛苦の末、理解者もでき、彼女はとうとう「夏子の酒」を完成させる。あら筋だけを聞くと、感動物語である。いや、実際に読んだ人からも“感動できる作品”だと聞いて、楽しみにしていた。しかしワクワクしながら読み始めて15分後、私はムカムカしていたのであった。なぜ感動的な物語でムカムカしなくてはいけないのか。原因は、ひとえに夏子である。 彼女が実家に帰る前、東京でコピーライターとして働いていた時から、“何かが違う”と思った。実家に戻ってすぐ、奥さんの出産を控えて気が気でないにも拘わらず仕事から離れようとしない蔵男に「古い習慣にこだわるなんておかしい」と言っておきながら、次の瞬間「女は不浄。蔵は女人禁制」だと言い返されて、「ごめん…バカだったわ、あたし」と泣きながら蔵を飛び出す彼女を“ワケ分からん”と思った。が、本格的にムカつきだしたのは、兄の残した一握りの種籾をまいて米作りを始めた辺りからである。 苗床も田んぼのメドも立てずに種籾を発芽させる夏子。周りに農家は山とあるというのに、機械を借りようともせず、鍬1本で田起こしをしようとする夏子。手に血を滲ませ打ち込んだ鍬を握りしめて「どうして…抜けないの…」と倒れ伏す夏子。当たり前だってば。それは引っ張るもんじゃないんだっつーの。見かねてトラクターを借りてくれた父親に「できます! やらせてください!」と意地を張る夏子。全然根拠のない信念。更に友人たちが機械を借りてきてくれて、彼女の傍らであっという間に田んぼ全体を起こしてくれる。「やめて! こんなこと頼んでない!」というくせに、やってもらったらあっさり受け入れる夏子。おまけに雨の中での作業がたたって、寝こむ夏子。雨の中での作業は、台風襲来中の田んぼでも繰り返され、またもや寝こむ夏子。 世の中には、しなくていい苦労をして「自分はこんなに苦労しているんだ。大変なんだ」とアピールしたがる人間がいる。もっともっと効率のいい方法があるのに、先を考えていないから無駄な労力を使うのだ。それで結果がついてこないと「こんなにがんばったのに、どうして?」とくる。夏子が、それである。苗床も田んぼも、なぜギリギリになるまで確保しようとしないのだ。おまけにタダで借りようとする。いや、結果的には貸してくれた人にちゃんと金は支払うのだが、借りる段階でそういった話はしていない。“自分は正しいことをしているのだから、他の人もわかってくれるハズ。お金でどうこうするのではなく、みんなが望んで、自主的に協力して欲しい”ってのが夏子の信念らしく、彼女がそう思うのは別に構わないし“いつかは、そういう方向にもっていきたい”なら、分からないでもない。しかし、一朝一夕で周囲にそれを期待するのは甘すぎる。町の人には『夏子の酒』に対する思い入れはないのだ。 金銭を絡めたくないというなら、それはそれでいい。が、そうすれば田んぼを借りにくくなるってのは、当然予想して然るべきではないか。夏子は22歳なのである。パレアナのように11歳の子供ではないのだ。いい大人なのである。だいたい田んぼを借りた後はどうするつもりだったのだ? 全部手作業? どれだけの作業をしなくてはいけないか、何を用意しなくてはいけないか、夏子は何も考えていない。いつも土壇場になって慌てるのである。台風だってそうだ。まぼろしの米が倒れやすい品種だってのは、前々から言われていたではないか。どうして台風が直撃するまで何の手段も考えないのだ? 台風なんてのは毎年来るものだ。ひどい場合もあり軽くすむ場合もあるが、そんなに大事な米なら、最悪の事態を考えて備えていてもいいだろう。おまけに散々人の手を借りておきながら、刈り入れ時に手伝いに来た人間に向かって「来ないで! 刈り取りはあたしと義姉さんだけでやるの!」ときたもんだ。感謝知らずもいいところである。どうしてもそうしたかったなら、前もって言っておけ。手伝いに来てくれるのも予想できただろ? もっとも癇にに障るのは、酒蔵の責任者、杜氏の『じっちゃん』の扱い方である。老齢のじっちゃんは長年の無理が祟って、体にガタが来ている。一度は引退を決意した彼だが、収穫したまぼろしの米を使って『日本一の吟醸』を造りたいという未練は残している。周囲はじっちゃんの体を心配して引退させようとするのだが、夏子はじっちゃんの熱意を受け入れるという形で、次の年の仕込みを彼に託す。あと1年杜氏を勤めれば命の保証はしないと医者に言われたじっちゃんをである。これも、じっちゃん本人を想っての行動なら、いい。いや、夏子もそう思い込んでいたのかも知れない。でも夏子にとって本当に大事なのは、じっちゃんではなくて『夏子の酒』である。じっちゃんを全面的に信頼し、彼に任せるつもりならば、夏子がしなくてはいけないのはじっちゃんのサポートではないだろうか。じっちゃんが倒れた場合にどうするのか考えておくのは、佐伯酒造の専務である彼女の仕事ではないのか。が、そういった仕事をしないくせに、何かと言うと彼女は『専務』としての無茶な発言を繰り返す。 なんと夏子は、無理を言って仕事に復帰させたじっちゃんを、意見が合わなくなるとクビにしようとするのである。新しい味を出すために新しい酵母を使おうと言うじっちゃんに、従来の酵母を使いたがる夏子。彼女の意見を取り入れないなら辞めてほしいとまで言うのだ。結局新しい酵母に軍配があがり、じっちゃんの正しさが証明される訳であるが、夏子は結局じっちゃんを信頼しないままである。なのになんで、じっちゃんに無理を言って杜氏を勤めさせるのか、理解に苦しむ。そういう経過の後、出来あがった吟醸に、割り切れないものを感じながら、その想いを口に出せず苦しむ夏子に至っては、もう範疇外だ。 物語が終わったとき、私が思ったのは「それで黒岩酒造の息子はどうなったの?」だった。夏子の周りには、彼女に想いを寄せる奇特な男が3人も出てくるのである。佐伯酒造のホープ、草壁さん。(余談だが、彼は真剣に杜氏になろうと決めた時から、どんどん魅力を失っていったと思う。)福井の天才蔵元、内海さん。そして黒岩酒造の息子の慎吾くんである。その中で真っ先に告白をした慎吾くんであるが、夏子は『1年返事を待って欲しい』と頼むのである。私には彼を待たせる夏子の気持ちが分からない。どう見ても、夏子の中に慎吾くんの居場所はない。有力なのは内海さんだし、次にも草壁さんが控えている。1年待たせる意味はどこにあるのだ? 1年待って、ごめんなさいをするのは目に見えている。1年後に慎吾くんに返事を迫られても「あ、忘れてた」ってところであろう。 そんなこんなで、私は夏子が嫌いなのだ。言っておくが、結果を恐れずに行動する人間が嫌いなのではない。私は自分のことを“口ばっかりで行動力に欠ける”と思っているので、そういう人間には憧れるし、コンプレックスをさえ持っている。夏子が行動的な人間と一線を画すのは、結果の受け止め方である。世の中には、がんばっただけではどうしようもないことが、いくらもある。いくらがんばっても、結果が出なければ意味がないのだ。それは自分の努力が不足している場合もあり、もともと自分の能力の限界を超えている場合もある。そんなときに「こんなにがんばったのに」を言い訳にはしちゃいけない。すれば負けである。先に繋がらない。次の機会には、もっと努力をするか、もっと能力をのばすしかないのだ。それをせずに、だけど物語だからこそ大団円を迎えてしまう夏子を、だから私は嫌いなのである。 Copyright© 2001-2006 To-ko.All Rights Reserved. |