先日、上京してきた母と飲んでいたときの話。彼女はその日の昼、なんと26年ぶりに高校時代の仲良しと再会してきた後で、私も「友達ってありがたいなー」としみじみ感じるコトがあった直後だったので、自然とお互いの“友達”についていろいろ話した。かなり酔ってしまったので記憶が今イチはっきりしないのだが、どうゆう流れでか、母が「旧姓で知り合った友人との付き合い方と、結婚して今の名字になってからの友人とのそれは違ってる」みたいな話を始めた。やっぱり旧姓の自分を知っている友人と会うときには“昔の自分”になるのだと。そして「旧姓のうちはまだ親の影響下から抜け出てないような気がする」とも。
その話は別にどっちの友達がいいとか、どっちのほうが親しくなれるとかって趣旨じゃなかったし、一度も名字の変わったコトがない私には旧姓・新姓と言われてもピンとこなくて「ふーん、そうゆうもんかも知れんが。でも一生結婚しない人や名字の変わらない男の人は、そうはっきりと線を引けないんではないのか」と聞いていたのだが、考えてみると、私にも思いあたるフシがないでもないんだった。旧姓・新姓の使い分けではなくて、本名とTo-koの使い分けで。
私の本名はここで使っている名前のTo-koとは全然違っているのだが、今親しくつきあっている友人のほとんどが、本名を知っていても私を「とーこ」と呼ぶ。表記は変えても、音では一貫して「とーこ」の名前を、私がもう10年以上使っているからだ。もちろん会社では名字で、親戚一同(この中にも親しい友人はいるが)には下の名前で呼ばれている。しかしそれ以外は、見事なくらい「とーこ」で知り合った人とばかり長続きしている。何年か前まで親しくしていた幼馴染が2人ほどいて、彼女たちには本名で呼ばれていたが、残念ながら今では疎遠になってしまった。20過ぎまで仲良かったので、一生モンの付き合いになるかと期待していたのに。涙。そっちとはまたどっかで道が交差してるコトを祈るしかない。
まあ「とーこ」で知り合った人ってのは、ネットを含め趣味の世界でのお友達で、何らかの点で私と共通項がある人ばかりなので、当たり前と言えば当たり前の話だ。誰にでも、親につれられて行く場所ではなくて、自分の意志で行った場所で友達を作るようになる時期、ってのはあるだろう。そしてそうゆう友達付き合いは長続きしやすいと思う。ただ、普通はあまり名前を使い分けたりしないだろうから、そうはっきり線引きも出来ない(しない)んじゃないだろうか。私はたまたま、別の名前をつける必要があった。そしてその名前で知り合った人と長くつきあっているトコロからすると、私が「とーこ」を使い始めた時期が“親の影響下から抜け出た”時期と重なるのかも。だとしたら、何かの節目の時期から別の名前で始めてみるってのは、ちょっと面白いかもしれないなぁ。ふむ。(別に「とーこ」以前から知ってた人とはダメって話じゃ全然ないからね!>該当者さま)
私は普段あまり年齢を気にしない(ようにしている)のであるが、ときどきホントに真っ剣に自分がいくつなのか忘れているときがある。それはずばり、通りすがりの他人の年齢を当てようとしているときだ。この前友人たちと飲んでいたときもそうだった。隣のテーブルについたグループがちょっと変で、思わずしげしげと観察してしまったのだが、その人たちが立ち去ったあとしばらく、うちのテーブルは彼らの話題で盛り上がった。そうゆうときに「あれはけっこういってるでしょ。どう見ても30は超えてる!」なーんて口にして、直後にやっと自分の年を思い出し、「ありゃ、自分と変わんないじゃん」と凹むなんてのはしょっちゅうだ。しかもそのときは「いや、あれは絶対27、8だよ」と友人から訂正が入り、更に凹んだ。だって自分よりも年下な人があんなに老けてるなんてさー。いや人によって老け方違うのはわかってるけど、なんとなく。
別に私たちが際立って若く見えるワケじゃないのはわかってる。他人から見れば私たちも年相応に見えるんだろう、とは思う。しかし何せ付き合いが10年にもなると、どうしても出会った頃のノリが続いていて、ついお互いの年を忘れてしまう。揃いも揃っていつまでもふらふらしているので尚更だ。ときどき「私たち、いったいいつ大人になれるんだろうねー」という話をする。10代の頃は今の私の年の人は立派な大人(てかおばさん)だと思っていたが、自分がなってみると全然そんな実感はない。だいたい大人って何さ。…とまで書いちゃうと、いくらなんでもガキんちょすぎるだろうか。まあ少なくとも人に迷惑をかける類のガキんちょじゃないとは思う。だからイイや。…って思っちゃうのはマズイのか。
外面の話から内面の話にズレちゃった。けど、話の流れに身を任せ。まぁとにかく、自分が大人であるっていう実感が持てないのは、いろんなコトに迷いがあるからじゃないかと思う。けど迷わない人ってのも怖い。自信に満ち溢れた人はカッコよく見えるけど、それと「自分が絶対に正しいと信じていて違う意見を聞かない人」って紙一重だったりはしないか? 同じタイプの人でも、その人がどっちを向いているかによって評価が両極端に分かれたりしないか? だからなのか、付き合う側からいけば、迷っている人ってキライじゃない。いや、好き。そりゃ「迷ってるの迷ってるのどうしようどうしよう」と寄りかかられてばかりじゃ困るけど。そう考えると、迷ってはいるけどそれなりに自立してて、ある程度自信もあって、楽しくやれてる私らは立派な大人なんじゃーん。…と思えるときもある。でもそれならナゼ大人の自覚が…
てな具合に、この話を考えるといつも無限ループに陥ります。そうゆう話は他にもいっぱいあるけど。おまけに書き始めたときに何を言いたかったのかも、きれいさっぱり忘れました。話の流れに身を任せているとよくそうなります。まったく、人生って難しいね!(……と、この強引なマトメはやっぱり大人とは言えんよなぁ。)
10/5の日記でチケットが取れないと嘆いていた三谷幸喜さんの新作コメディ『BAD NEWS ☆ GOOD TIMING』を見て参りました。うふふー。持つべきものは(運の強い)友達でございます。いや実はいつも一緒に芝居を観に行く3人組のうち、2人分のチケットは抽選で取れていたんですよ。でも1人分は足りなくって、仕方ないので「私は当日券にかけるから、2人で行っていいよ」と言っていたのですが、当日はやっぱり電話が通じず、半分以上諦めていたのです。そしたら携帯が鳴って「To-ko、取れたよ!」と嬉しい連絡が! やはり「もし当日券がダメで観られなかったら、2人で覚えてきて演じてみせて。北島マヤのように」と無茶な注文をつけておいたのが効いたとみえます。うそうそ。仕事中にしつこく電話をかけてくれた彼女に感謝!です。
今回のは典型的な三谷テイストのシチュエーションコメディで、場面はホテルのロビー。ここで結婚式を直前に控えた、ある意味ロミオとジュリエットなカップルが、お互いの親に結婚を認めさせるまでのドタバタドラマです。なんとなく『君となら』を思い出しますが、今回は結婚式を何時間か後に控えて初めて、何も知らない親に「結婚する」と告白しなくちゃいけない設定で、タイムリミットが決まっているので更にスリリングです。「隠し事を持っていて打ち明けようとしている人」が各種事情でなかなかストレートに切り出さないので、「打ち明けられる人」が勝手にいろいろ勘違いをしちゃって、それがまた微妙にズレてるだけなもんだから「打ち明ける人」は話が伝わったと勘違いしちゃって、勘違いに勘違いが重なってどんどん会話が噛み合わなくなっていく…ってパターンが三谷さんのコメディには多いのですが、それがまた上手くて面白いのです。
例えば(上演中なので反転させて読んでください)このカップルが結婚を親に内緒にしていた理由は父親同士が昔ケンカ別れして嫌いあっている元・漫才コンビだったからなのですが、2人がなかなか結婚話を打ち明けられないでいるうちに、父親たちは周囲の状況から何やら秘密のパーティーが用意されているらしいと気付いてしまうのです。それはもちろん披露宴の準備なのですが、そんなコトとは露知らない父親たちは、ホテルの従業員に「本日はおめでとうございます」などと(彼らにとっては)意味不明のお祝いを言われたりするうちに、「これは俺たち2人の漫才コンビを再結成させるために子供たちが企んだに違いない。お客たちはかつての名コンビの再結成を祝って集まっているのだ」と勘違いします。
それからまた紆余曲折があって、父親たちは1日限りの復活を決心しネタの練習に入るのですが、それが『お嬢さんをください』というコント風のもので、途中に「娘をやる訳にはいかん!」という台詞があるのです。で、その練習風景をたまたま目にした事情を知らない披露宴の司会者が、本当に新婦の父が愚図っているのだと思い込んで「今の台詞、聞き捨てにはできません。私も話に入れてください」とやってきます。父親たちは「なんで素人がいきなりコントをやりたがるんだ」と戸惑ってますし、司会者の方は会話の間も何も関係なく話に割り込んで、コントをやろうとしている2人に「何でそのタイミングで入ってくるんだ」と怒られます。この辺の食い違いがもう最高。ありもしないドアをマイムであらわせ、とか言われて、何で結婚の話し合いをするのにそんなコトをしなくちゃいけないのか、さっぱりワケがわからなくなっている司会者には、笑いすぎて腹が痛くなりました。
あとはもう役者さんたちが上手くて。角野卓造さん・伊東四朗さんのお父さんコンビは息も合ってていい組み合わせだし、新婦の母の久野綾希子さんはさりげなーく遊んでていい味出してるし、結婚コーディーネーター(司会者)の伊藤正之さんは前述の通り翻弄される演技が必見。新婦の沢口靖子さんは…うー…彼女はまあ可愛いければいい役ではあるんですが…とにかく声が小さいのが気になりました。他の人がよく通る声をしているだけに、ちょっと目立つ。新郎の生瀬勝久さんは困った演技がいい役者さんですが、今回も彼女に振り回されて困りまくってました。『人間風車』のときみたいに、キレた演技もめちゃ怖いんですが…要するに、上手い役者さんなんです。そして私のお目当ての八嶋智人さん! これがびっくり。知名度から言ってメインの役ではないと思ったのですが、そしてストーリー的には脇役なんですが、「ホントの主役は八嶋さん?」ってくらいに出ずっぱりで目立ってました。相変わらず台詞なくてもオーラを飛ばしまくって怪しさ倍増で……ああ満足。
いい芝居を観ると、ホント、シアワセになります。面白い映画とか、本とか、マンガとか、一瞬現実を忘れさせてくれるツールはいくつもありますが、いや別に忘れたいほど現実がツライわけじゃないんですが、ほらあるでしょ、シアワセなときならよりシアワセに、シアワセでないときも一瞬ほわあんとさせてくれるようなモンって。私はどれも好きで、どれが一番、とは言えないんですが、芝居はちょっと他のツールとは位置付けが違っていて、こうゆう後から何度も思い返してシアワセになれるような芝居を観るたびに、芝居が好きでよかったなーとしみじみ思うのでした。…あとはもう少しチケットが取りやすければなあ…。
私は昔、大変女の子らしい子供であった。それが途中でどう道を踏み外したのか、化粧もろくにせず、会社の飲み会で上司の隣に座らされても手酌で呑むような、こんなガサツな女に育ってしまったのであるが、それでも小さい頃は女の子らしかった。「女の子だからといってイワユル“女の子の趣味”を押し付けたくない」と思った父親が、ミニカーを買い与えてみたりもしたらしいが、それには目もくれずに父親をがっかりさせ、人形遊びとか料理とか裁縫とかにしか興味を示さない、そんな女の子だった。…ホント、どうしてこんなになっちゃったんだろう。
自分で思い返してみても、いつから料理を始めたのか、どうやって習ったのかを覚えていない。包丁の使い方はレクチャーされた記憶があるが、どうやって味をつけるかなんてのは、最初っから“適当”だった。多分、自分も目分量で料理をする母親から、口伝えで教えられたのだろう。「お塩どのくらい入れるの?」「んー、テキトー」みたいな感じで。さすがにケーキを焼くときなんかは材料を量ったが、学校の家庭科で料理を習うようになる頃にはすでに、計量カップやスプーンを使って「塩、小さじ1/2。醤油大さじ1…」なんて厳密に量って料理をするなんてばっかみたーい、と思っていた。
ところがこの間、会社の女のコ(21歳、実家暮らし)と喋っていたとき。彼女が「先輩、あたしこの前、初めて本見ないで料理したんですよー。今まで本を見て材料量ってたんですけど、あれってわかりづらいじゃないですか。本には2人分とかで分量が書いてあって、それを4人分とか5人分に計算し直しますよね? でも調味料って“適量”とか“少々”とかが多いじゃないですか! 2人分で“適量”だと4人分だとどのくらいになるんですか!? “少々”の倍ってどのくらいですか!? わからないじゃないですか!」と一生懸命に訴えてきて、私はげらげら笑いながら聞いていたんだけど、その彼女の様子がもうとーっても可愛くて。
で、そのときにふと思った。あー私にはこんな時期はなかったなー、と。いや、あったのかもしれないが、多分気付かないうちに過ぎちゃったんだろう。小さすぎて覚えていないとか。料理に限らず私は変に器用なところがあって、あまり苦労しないである程度のコトができてしまったりするんだけど、それは長所とばかりは言えない。最初から知ってしまっているコトで逆に、通れない体験や考え方もたくさんあって、そうゆうのは引き返してやってみるワケにはいかないのだ。そう思うとなんだかすごくもったいなかったような気がして、ちょっとだけ、悲しい。
CHIAKIさんの10/22の日記にあった 「粋のように残ったひとにぎりの友達に対しては同性でもどこか恋人のような思慕を抱いていることにも、そうでない友達に関しては消息さえ気にしていないことにも。」 の一文に触発されて。
この一文の前半部分で、ふと思い出したコトがあります。CHIAKIさんが日記で書いているコトとは全然違うのだけれども、いや関係ないコトもないんですが、そしてこうゆうコトを何度も書くのもなんだかなーと思っているのですが、書かなきゃ始まらないし、今日はそれが本題じゃないからまあイイか、ってことで、とにかく思い出したのは、「To-koに彼氏ができなさそうな理由」として何度か言われてきた言葉です。理由もなにもそりゃただ単にあれなだけなんですが、そう面と向かって言うワケにもいかないのでしょう。皆さん口を揃えてこうおっしゃいます。「だって独りでも楽しそう(or 平気そう)なんだもん」。実はこれを聞くたび、二重の意味で引っかかりを覚えています。
一つは「じゃあ何よ、あなたは恋人がいないとダメダメのへにゃへにゃになっちゃうの?」って当然の反論で、これは口にも出しますが、それ以外に思うコトがもう一つ。内心で私はいっつも「あたし別に独りじゃないんだよなー」と呟いています。皆が、そういう意味で「独り」を使っていないと分かっているからあえて反論もしませんが、何か引っかかるの。最初のと矛盾するかもしれませんが、独りでも平気な人なんていないと思います。私が楽しくやっていられるのは自分が独りだと思っていないからで、それはCHIAKIさんが書いているとおり「ひとにぎりの友達に対しては同性でもどこか恋人のような思慕を抱いて」、頼りにしているからなのでした。
頼りにしていると言うのは、なんと言えばいいんだろ、例えば私がガケからぶら下がっていたら、きっとこの人は一生懸命助けようとしてくれるだろうなー、という信頼です。あまりにも陳腐な例えで恐縮ですが。この場合、その友達に彼氏/彼女/夫/妻/子供/別のもっと親しい友達…etc.がいるのは問題じゃありません。「2人がぶら下がっていたら、どっちを助ける?」って言ってるワケじゃないのです。話は逸れますが、こうゆう風に考える人ってマンガやドラマにはよく出てきますけど、ホントにいるのでしょうか。で、こうゆう問いかけをする人って、助けられるシチュエーションばかり想定しているケースが多いようですけど、逆に自分が助ける立場の場合、助ける順番はちゃんと決まっているんでしょうか。すごく気になる。ゼヒ聞きたい。いたら教えて。
えーっと、実際に助けを求めるかどうか、っていうのはもちろんまた別の話です。私もガケからぶら下がってなんかいたくないし。それからもっと言っちゃえば、実際に助けてくれるかどうかさえも、問題じゃないです。ただ、その人がいるコトで「万が一ガケから落ちても大丈夫」と思えるかどうか。それが私には大事なのです。そうゆう人がいなかったら、ガケっぷちなんか怖くて歩けないです。私の友達はすごく少ないですけど、中には「友達」と括っちゃっていいのか怪しい人もいますけど、でも私はその少数の人たちに日々いろんな方法で助けられていると思います。その実感がある限り、私は自分が独りだなんて決して思えないのです。ああシアワセもんだよな。ツクヅク。
そりゃ寂しいときはありますよ。でも恋人がいようが結婚してようが子供がいようが、ときに寂しくならない人は珍しいでしょう。だから例え滅多に会わなかったとしても、「私は独りじゃない」と思わせてくれる人がいる、しかも複数いる私は、ホントにホントにシアワセだ、と思ってます。これで「独りで平気(別の意味で)」じゃなかったら罰が当るでしょ。………そして、図々しいのですが私も、私がいるコトで誰かが「自分は独りじゃない」と思ってくれるような、そんな存在であれたらいいなぁ、ありたいなぁ、お互いにそういう存在であったらステキだなぁと、いつも思っているのです。
昨日の続きです。舞台の芝居をビデオに記録する場合のあらまほしき形。こりゃもう単純明快で、観客の目線が動くようにカメラを動かして欲しい。それだけである。観客の中にも変にマニアックな方を見ている人はいるけど、大多数の客は同じ方向を見ている。昨日書いた、脇に立つ人の方が目立つ場合などでもそうだ。最初は気付かなくても他の客の反応でそっちに目がいくものなのだ。
手持ちの中で唯一(!)楽しめるのがBSで放映された、またまた惑星ピスタチオの『破壊ランナー』。BSだからコマーシャルも入ってないしカットもされていない。冒頭に字幕は入る。しかしそれも邪魔じゃないタイミングで、気持ちよく入る。ピスタチオは設定がぶっとんでいるコトが多く、一人が何人も何十人もの役を兼ねているせいか、劇場でもいつもカッコいいパンフレットが配られ、そこで設定や役柄の説明がされているのだ。ちょうどそのパンフレット分の情報量くらいが、字幕で説明されるワケ。確かに無くてもいいんだけど、あってもOKの演出である。
それだけでもありがたいのに、その上これ、カメラの動きがすごく自然でいいのだ。『破壊ランナー』の中で一番のギャグシーンは、何と言っても“中央郵便局”である。これは男優2人だけのシーンで、妖しいおかま役の保村さんが部下の佐々木さんに、実は今までの行動の裏には隠された動機があったのだ、と打ち明けるシーン。このシーンをきっかけに物語はシリアスモードに突入するのだが、その前に遊びがある。こゆのって文字だけで説明するのはツライんだけど。「実はわたし、中央防衛局にいたの。去年まで」と重々しく告げる保村さんに、呆然とした顔の佐々木さんが「中央……郵便局?」とぼけ、それを受けて保村さんが「ええそうよ、毎日毎日スタンプペッタンスタンプペッタン…」とぼけ返す、ただそれだけのくだらないギャグであるのだが、このくだらないシーンがこの芝居中の、白眉のシーンなんである。
惑星ピスタチオはもともと、公演を重ねるにつれて上演時間が延び、初日よりも楽日の方が長くなるような、アドリブの好きな劇団だった。だからこの「中央……郵便局?」とぼける回数も、多分日によってマチマチなのだ。そしてその先の保村さんのぼけも、日によって違うのだと思う。ネタはいくつか考えてはいても、細かい台詞回しまでは決まっていなくて、その場で適当に演じているのだろう。だから佐々木さんもどう返されるかは本番まで知らなくて、「お、今日はまだネタがありそうだ」と思えば、何度も何度も「中央……郵便局?」とぼけ続けるのだ。
役者さんにはこうゆうアドリブが面白くできる人とできない人がいて、できない人はいじっても痛々しいだけで笑えない。保村さんは、苛めて面白いタイプ。カッコいい役もできる役者さんなのだけど、こうゆうときに必死で場をつなげている保村さんは、もうめちゃくちゃ可愛い。苛めたおしたくなる。この繰り返しも、3回目くらいまでは毎回やるのだろう。「中央…郵便局?」と佐々木さんもあっさりぼける。ビデオではさらに2回、計5回やるのだが、もう4回目からの2人の表情がめっちゃいいのだ。
「中央防衛局にいたのよ!」と言った直後の(続けろよ!もう先につなげろよ!)って保村さんの顔、「……中央………」で間をとって(どうしようかなー?もう一回やっちゃろか)って佐々木さんの意地悪な顔、続きを待ってる保村さんの(まさかもう一回やるつもりか?頼むから先に進んでくれえぇ)ってびくびくした顔、「郵便局?」と言われ「ええ、そうよ!」と返す直前の一瞬の(くそっ言いやがった!)の顔、(へへー言っちゃたー。さあどう受ける?)って佐々木さんの嬉しそうな顔。この台詞以外の部分が、間が、もう最高で、劇場では呼吸困難になるくらい笑った。5回目になると保村さんがギリギリなのは客席にもわかって、「中央………」の間に(言う?もう一回言う?)と期待し(お願い、もう一回やって!)と思っていて、「郵便局?」と言った佐々木さんに思わず拍手をしてしまう。
話は違うけど、私はバレエの公演で一つの踊りが終わるたびに拍手があっておじぎがあって、というのが好きじゃない。どうしてもそこで物語が途切れてしまうからだ。拍手をしたいなら幕が下りてから思う存分すればよろしい、と思っていた。だから芝居の途中で拍手をしたコトもなかったのだけど、その私に初めて、もう力業で強引に拍手させたのも、ピスタチオである。笑って笑って呼吸困難になると、あとはもう拍手するしか道はないのだ。そうしないと苦しくて死んじゃいそうになるので。お約束の「ここで手を叩くもんだ」って拍手は好きじゃないけど、こういう“思わずしてしまった拍手”はすーごく気持ちいいもんです。
話を戻す。とにかく“中央郵便局”のときの観客の視線は、劇場でも役者2人の顔を交互に行き来すると思う。そしてビデオでも2人の表情がはっきりと、いいタイミングでとらえられているのだ。見事! 誰だか知らないけれど、これを撮った、編集したスタッフはよくわかっていらっしゃる。こうゆう観客の視線に近い絵を撮ってくれるセンスはどんどん広めて欲しい。それなら私も欲しい舞台のビデオがたくさんあるし、多少高くても買いたいと思う。テレビ業界の皆さん、そして劇団関係者の皆さん、こうゆうビデオを出してください。5000円も出して買ったビデオが、最高舞台を切り刻んだただの屑であったのを知ったときの、こっちの身にもなってください。お願い。プリーズ。
てなワケで怒りを吐いてすっきりしましたが、この話「倉庫」の方に書きゃよかった。まさかこんなに長くなるとは。てへ。失敗。
土曜日曜とひっじょーに不摂生で不規則な生活を送ってしまったので、死にそうなくらい眠い。目を開けていても目ン玉の上に更にもう一枚、透明のまぶたがある感じ。頭もぼーっとしていて、さっきは電話で大事な取引先のお客さん相手に「えーっとねー」などとやけにフレンドリーに語りかけてしまうテイタラク。ああ。今週からは規則正しい生活を送ろう!とまるで夏休みの小学生のような目標を掲げたいと思います。とりあえず今日は掃除をしーようっと。
ここ2週間ほど、必要があって手持ちの芝居ビデオを次々に見ていた。私の持っている芝居ビデオは、劇場中継などのテレビ放映を録画したものと、劇団が収録・編集して売っているもの2種類なのだが、見ているうちに怒りが募ってたまらなくなってきた。なのでここで吐かせていただく。
以前読んだ鴻上尚史さんのエッセイに、舞台を録画した映像は芝居のしぼりカスみたいなものである、というような意味の一文があったと思う。私はこれに全面的に賛成する。確かに舞台の録画には、舞台がもつ本来の魅力の1/10も記録されてはいない。いくら感動した舞台でも、その芝居のビデオを見て同じように感動するコトは不可能だ。劇場という閉ざされた空間の中の濃密な空気であるとか、役者の息遣いであるとか、舞台と客席の一体感であるとか、舞台の魅力はさまざまだが、そのどれもが録画できる性質のものではない。舞台と同じ興奮をビデオに求めるのは無茶というモノだ。それは承知している。
しかし。それならば舞台をビデオに記録するのは無駄なのかというと、それも違う。舞台芝居のファンとしてはやはり「もう一度見たい舞台」がある。あるいは「一度は見てみたい舞台」が。舞台は生ものだから、同じ役者、同じ台本でもその度に出来が違う。だから運よく再演があったとしても、時がたち役者が変わればまったくの別物になってしまい、同じものを見られる可能性は非常に少ない。だからその時々の記録は残して、一般客にも入手可能な状態にしていて欲しいと思う。もちろんそのビデオは芝居の残りカスだ。しかし舞台に慣れた人間なら、その残りカスから舞台を想像するコトは可能なのだ。
それなのに! まずは劇場中継。多分舞台の魅力など欠片も知らないスタッフが作ったものなのだろうが、ヒドすぎるものが多すぎる。集中が途切れるのでふざけるな!なのだが、まあコマーシャルが入るのは許そう。それで運営してるんだから仕方ない。更に百歩譲って、カットするのも目をつぶろう。時間枠が決まっていてどうにもできないのだろうから。しかしカットする場所の選択を見ると、スタッフの理解力を疑わざるを得ない。なぜギャグの前振りのシーンを入れて、役者が一番はじけていい味出してるギャグシーンをカットするのか。本編とは関係のないお遊びシーンを入れて、ストーリーに絡んでくる重要シーンをカットするのか。話わかってるのか。アタマ悪いんじゃないのか。
その上、台詞を「ここ笑いどころですよ」とばかりに字幕で入れる無駄な努力や、下手なカメラワークに至っては、呆れて声も出ない。舞台ってのはねー、顔だけアップで撮ってりゃいいってもんじゃないの! 舞台の役者さんは全身で演技してるんだってば。それに台詞喋ってる人だけが大事なんじゃないの。下手すりゃ脇役の聞いてる演技が観客の目を奪ってたりするの。舞台袖方向からの映像や、俯瞰の映像なんかいらないの。舞台は正面客席からが一番美しく見えるの。端っこの方の客席しか取れなくて「ああこのシーン正面から見たかった」ってコトは数え切れないほどあるけれど、「ああこのシーンを袖方向から見たかった」だの「上から見下ろしたかった」だのとは、決して、けーっっして思わないの。変な風にちょろちょろカメラを動かすくらいなら、たとえ役者の表情がよくわからなくても、正面席にカメラを据えて舞台全体が入るようにヒキで撮ってもらった方がよっぽどマシなの。聞いてる? 惑星ピスタチオの最高芝居『Believe』を最低最悪のくそ芝居にしてしまったあなた。ピスタチオってもう解散しちゃったから、同じのは二度と見られないんだよ? あなたが放映権を取ったばっかりに…。一生許さん。
次が劇団が売り出してるビデオ。実はこれに一番腹を立てているかも知れない。だって舞台の魅力がわからないばかがスタッフやってるんじゃなくて、劇団が編集してるんだよ? どうゆう役割分担になっているか知らないけれど、芝居の延長として演出家が最終的にOKだす性質のものなんじゃないのか? それなのにナゼあんなつまらないものを作れるんだろう。
私の持っているのでヒドイのが、thirdstage の『トランス』。たった3人の舞台だったけれど、これを劇場で見たとき、私はホントに揺さぶられた。さすが鴻上さんだと思った。だからビデオを買ったのに。もちろんコマーシャルはないし、下手なカットもない。しかしこの落ち着かないカメラは何なのか。確かにこれは動きの少ない芝居だ。役者の長い長い独白が延々と続いたりする。しかし劇場で見たときは、その独白に引き込まれた。ビデオでは、めまぐるしく変わるカメラが、集中の邪魔をする。役者の背中から撮るショットにどんな意味があるというんだ。
おまけに画像の処理をしすぎ。必死に人を探すシーンで映像をぶれさせてみたり、色をつけてみたり。舞台上ではそんなコトやらなかったでしょ? 必要なかったでしょ? それに場面が変わって屋上のシーンになるところで、本当の青空を映しちゃってどうするの。舞台は嘘の世界でしょ。その嘘にどれだけ没頭させられるかが勝負でしょ。実際の空を映して現実に連れ戻しちゃってどうするの。編集のせいで素晴らしい舞台がどれほどツマラナクなるかって見本にしかなってないよ。
…ってホントにわからないのは、この『トランス』は、今まで私が散々「天才だ」と褒めちぎってきた鴻上尚史さん関係の舞台だってコト。あんなに面白い芝居を作る人が、そして「ビデオは芝居の残りカス」と言える人が、どうしてこんなビデオに関係できるのか。映画監督としての鴻上尚史の血がうずくのかなー。頼むから舞台と映画はわけて欲しい。そうじゃないと他の第三舞台のビデオが買えない。好きな話はいくつもあるのに。
百万歩譲って(さっきから譲ってばかり。私ってば謙虚だなぁ)、舞台を知らない、あるいは私と違う方法で舞台を楽しんでいる人のために、分かりやすく編集したビデオが必要なのかも知れない、とは認めてもいい。その人たちが欲しいのなら、作ればいい。でも、今書いたようなコトは私一人の意見じゃない。芝居好きの友人たちもほとんど同じような意見を持っているし、私たちが特異な嗜好を持っているとは思わない。ナマの舞台になるべく近い映像が欲しいと思っている人も多いハズだ。
…えー、この後「あらまほしき芝居ビデオ」について書くつもりだったんですが、すいません、長くなりすぎて疲れました。また明日にします。