私は東京で生まれて今も東京で暮らしているが、10歳から18歳までは東北のド田舎で育った。両親は今もそのド田舎暮らしをしている。田舎自慢をするとよく「うちは電車が1時間に1本しかなくてぇ」とか言う人がいるが、私に言わせりゃそんなのは田舎のうちに入らない。うちから一番近くの駅までは車で30分かかる。歩いていこうとすれば…3時間だったかな。最近歩いてないので忘れちゃった。バスは何時間かに1本はあるがそれも途中までで、バスの終点からも2時間以上はかかる。ちなみにその終点からうちのある集落まで、家は一軒もない。集落内にも店は存在せず、東京から移り住んだ当初、うちにはガスも水道も電話もTVもなかった。どうだ! もちろんもっと田舎に住んだ経験のある人はいるだろうが、今のところ出会ったことがない。田舎自慢グランプリ優勝記録更新中。(しかし何で自慢したくなるんだろ。)
さてこうも僻地に住んでいると学校はどうなるのか。うちの場合、中学生からは町の本校に通うことになっていたが、小学校は集落の中にあった。分校ってヤツである。私は第二次ベビーブームのはしりだったから、私が小学生の頃は生徒数も多かった。13人もいたのである。分校全体で。もちろん学年ごとのクラスはなく、転校当初は低学年と高学年に分かれたクラスで授業を受けた。私が5年生になったときからは先生も2人から3人に増え、クラスも低学年、中学年、高学年の3クラスになった。しかしその後子供の数はどんどん減り、来春、今の6年生が卒業するのをきっかけに、廃校が決まったそうだ。
寂しいが、仕方がない。しかし気になるのは校舎である。今となっては楽しかった思い出ばかりが残っているし、どうせなら何かに使っていてほしい。取り壊しになるのは寂しすぎるではないか。と、遠く離れた地から勝手に思っていたら、どうやら人に貸すことになるらしい。校舎と敷地は市のものなのだが、借り手については住民の意向を尊重するとかで、近く集会が開かれるそうだ。あんな交通の便が悪いところで借り手がいるのが不思議だが、複数の希望者がいると聞いてこれまたびっくり。いったい何に使うのだろうか…。答えを母に聞いて、一番笑ったのがこれ。「喫茶店」…いったい誰が来ると期待して?
先週今週とやたら飲む機会が多くって、こう毎日書くのもなんなんだけど、また酔っちまいました。家で、上京している母親と2人でビール1Lとワイン1本を空けて、妹が帰ってきたときには焼酎に突入済み。久しぶりにロレツが回らなくなるほどべろべろになりました。うう頭が重いよぅ。母が帰る前に、も一度飲みに行く予定なので、今日は休肝日にしよう。体がもちませんって。
ところで、よくマンガとかに出てくる二日酔いの症状になったコトがありません。頭ががんがんしてちょっとした物音も響いて「お願い、静かに喋って…」ってヤツ。私は頭がぼーっとするだけです。あと記憶がすっぽ抜けたこともない。せいぜい曖昧になるくらいなので、知らないうちに青あざができているのはあっても、どうやって帰ったのか覚えてないなんてコトはありません。どっちも一回くらいやってみたいんだけど、どうやったらできるんだろう。飲みが足りないのかなぁ。もっと若いうちにやっときゃ良かったのでしょうけど、外で飲むと無意識にセーブしちゃうんですよね昔から。でも家でツブれるほど飲んでも変わらないから、もうこれは体質だと諦めるしかないのでしょうか。…何だかちょっとツマラナイ気がします。
お酒の飲み方に限らず、自分はツマラナイんじゃないかと時々ですが思います。基本的に優等生なので(悪い意味で)、安全な道から外れられないのです。突飛な発想ができないってゆうか。おまけに口ばっかりで実行力に欠けています。度胸が足りないばかりにやらなかったコトがどれだけあるか…。更には結婚とか出産とかの、通過儀礼となり得る経験をしていないコトに対して引け目のようなものを感じるときもあります。今していないからと言って一生しないと決めてるワケじゃないし、しなくちゃいけないとも考えてないのに、そのせいで自分がとてつもなく子供なんではないかと思ってしまうのです。若いと言えば聞こえはいいけど、要は成熟してないだけなんじゃないかと。
ま、そうゆう考えってのは、たまにふっと頭をよぎるだけで普段は自分の現状に満足してます。ツマラナイんじゃないかと思うのは「だから私はダメ」と落ち込むためではなく「じゃあこれから何かやってみよう」に繋げるためです。それで昔に比べりゃだいぶ積極的になってると思うし。やっぱりできないときもあるんですけど、それはそれで仕方ないです。いつかやれるようになればいいと思います。そうです自分に甘いです。他の道を行かなかったのを悔やんじゃいませんが、他の道を行っていたら自分はどうなっていたのだろう、というのはたまに考えます。同時に複数の道を歩けない以上、誰もが考えるコトでしょうけど。
てなワケで仲間内で初めて結婚を決めた人に、おめでとうを言ってきました。ついでにワインも2本ばかり空けたので(1人でじゃないよ!)、本日はまぶたが重くてたまりません。いやめでたい。ついでに遊びの予定もいっぱい詰めてみたりして。上手くいけば来週末の連休に海を拝めるかも知れません。嬉しいなぁ。梅雨、明けるよね。てかまだ梅雨なの?
仲間の1人が結婚となると、やっぱり話題は「次(に裏切るの)は誰?」になる。「To-koはどうなの?」とふられたので「ないない。初対面の人にも、当分独りだって断言されるんだもん」と笑っていたら、全員に「それは当たってる」と深く頷かれてしまった。おい! 「だってTo-koってさっぱりしすぎてるじゃん。もっと“彼氏欲しいオーラ”を出さなくちゃ」だそうで。似たようなコトは何度も言われてるので今さら傷つきゃしませんが、一度他人の目で私を見てみたいもんだ。(←ムリだってば。)その後、飲むとすぐに顔に出る私が真っ赤になってふらふらしていたら、「To-ko、酒飲んで男に会えばいいんじゃない?」と更に追い撃ち。あのぅ、こないだその種のコメントをもらったのは、さんざん酒飲んだ後だったんですけど…。
私たちは普段「色気よりも食い気」を前面に押し出して活動しているので、彼女のおかげでめったにしないような会話ができて、楽しい一夜だった。願わくば結婚してしまう彼女とも、これからの楽しい時間をたくさん共有できますように。
友人が結婚すると聞くとき、私がまず最初に感じるのは寂しさだ。すごく身勝手だとは思うけど、私にとって大事なのはやっぱり自分とその人との関係性であり、結婚がそれに及ぼす影響を何よりも先に考えてしまう。要は「もうあんまり遊べなくなっちゃうのかな」って心配なのだ。懸念通りだんだん疎遠になってしまうことも、変わらず、あるいは違うスタンスでいい関係を続けられることもあるだろう。それはその人自身の性格だけでなく、結婚相手と作り上げる新生活のスタイルにもよるので、事前にどうなるかの予測はしづらい。だからまず寂しくなってしまうのだと思う。
でもそれは私の問題で、その人の幸福を願う気持ちはまた別のものだ。よかったね、おめでとう。シアワセになってね。の言葉に嘘はない。たとえその言葉を口にするときに私が寂しさを感じていようが、私が心から祝福していないとは言えないと思う。だって好きな人にはシアワセでいて欲しいからさ。で、こうゆう「おめでとう」の言い方は決して特殊ではないと思うのだ。自分が寂しいとか置いていかれた気になるとか、そういう感情があっても相手のシアワセを願っているのだったら、その「おめでとう」は本物だと言っていいんじゃなかろうか。
ところがずっと前に目が点になるような意見を読んだことがある。手当たり次第に選んだエッセイ集だか雑誌のコラムだかで見かけたもので、書いた人の名前も覚えていないが、内容は「どうやったら人の幸せを心から喜べるようになるか」についてだった。それは「本当に心から人の幸せを祝福するのは難しい。どうしても羨望や妬みの感情があるからだ」と始まっていた。私は人のシアワセなニュースを聞いても羨望…はあるけど、妬みってのはあまり感じない。ただ前述のように寂しさを感じることはあるから、その辺までは、まあわからないでもないな、と思って読んでいた。しかしその人はそういったマイナスの感情を払拭して心からの祝福を言える考え方がある、と言い切るのである。
その方法がすごい。そのシアワセを掴んだ人の苦労を思え、と言うのだ。「あの人も苦労したんだからやっと幸せになれてよかったね」なんて意味ではない。例えば自分の友達が出世した場合は「この人はキャリアを得るために今までいろいろ犠牲にしてきたに違いない。愛をあきらめたこともあるだろうし、体はきっと働きすぎでぼろぼろだろう。そういう犠牲を払わなければ手に入れられない成功なのだ」と考えれば、心からのおめでとうが言える、と。どうだろう。私はしばらくの間、開いた口がふさがらなかった。心から? それが心からの祝福? どー考えても違うだろう! ひっくり返せば「私はキャリアは手に入れられなかったけど、人間としてもっと幸せだわ」って意味でしょう? あんまりびっくりしたので、その後しばらく会う人会う人に「これ、納得できる?」と聞いて歩いたっけ。ほっとするコトに私の周りには「同感だ」と言う人はいなかった。
その文を書いたのは「ポジティブに生きよう」とか、生き方を偉そうに語っていそうな書きぶりの女性だった。人の不幸を数えて(自分の優位性を確かめて)安心するっていう、そういう感覚は私のどこか奥底にもあるのかもしれないけど、それを得々として話す、話せる人には我慢ができない。どんな人間にも醜い負の感情ってのはあると思う。でも多分あれを書いた人は自分のそれを自覚していない。醜いものだと思っていない。「心から人の幸せを祝える私って素敵」って意識がにじみ出ている文章だったもの。その無自覚がイヤ。その種の無自覚は人を傷つけることさえあると思う。
私は優しさとは程遠い人間だし、一生「優しい人」にはなれないだろう。でも優しくなりたいとは思っているのよ。ちょっとだけでもね。そのために必要なコトの一つに、自分の醜さを正当化しない強さがあるんじゃないだろうか。ホントに強い人は、ホントに優しくなれる人だと思う。ああ強くなりたいよぅ。(←とか言ってるうちはダメだろう。)
書き忘れたのですが、ふとBBSなんぞをつけてみました。トップページのタイトル画像の下に入り口があります。弱気な私の心境のまんまにとても目立たないようにしていたら、早くも「見逃す」と言われてしまったので、この日記ページからも行けるようにしてみたり。どうでしょう。ちょいと覗いてぺぺぺと書き込んでくれたら小躍りして喜びます。
さて昨日の健康診断、結果はまだもらっていないが診察カードを覗いたところ特に問題はないようだ。今年は胸の影もなくなっていたし(去年影があると言われ再撮影があった)。それにしても体重が増えているのは覚悟していたので驚かなかったが、この年になって身長が伸びるのはいかがなものか。ミリ単位なので多分測り方による誤差だとは思う。思うが、私、20歳を過ぎてから2cmは身長伸びているんだよね。まさかまだ伸びるのか? どうなっているんだ私の体。
ところで今回自費でプラスしてもらった血液検査が高校生の頃、大好きだった。「血を見るのがダメ」とか言ってるか弱い同級生たちを後目に、嬉々として列に並んだものである。自分の体にちゃんと血液が流れていると実感するのが、なぜだかとても面白かったのだ。それは今も残っていて昨日も針を刺されるところをマジマジと眺めていたのだが、どうも刺される針が太くなった気がする。学校では細い血管の持ち主に細い針を使ってくれたので痛い思いをすることなく楽しめたのに。そう私の血管は『おたんこナース』の似鳥さんに憎まれてしまうくらい、血が取りにくいらしいのだ。
そんなワケで血を採るのが好きだった私は16歳の誕生日を心待ちにしていた。献血ができるようになるからだ。それなのに! 基本的に健康な私の唯一の弱点がその血液であることが、血液検査の結果で判明してしまった。女性によくある「鉄欠乏性貧血」のひどいヤツで、しばらくは鉄の錠剤を飲むのを強要されたっけ。でも自覚症状がないのと改善が見られないのでいつの間にか止めてしまったけど。だいたい朝礼で校長の長々しい挨拶中に同級生がばたばた倒れるなかでぴんぴんしている私に自覚なぞあるハズがない。検査の間違いじゃないかと思ったくらいだ。
その後何度か献血を試みたが、たいてい事前の検査ではねられてしまう。どうも血が薄いらしい。もちろん貧血のくせに倒れたこともないってのは感謝するべきなんだろう。しかし何か釈然としない。か弱さも演出できないのに献血もできないなんて! まったくどうなっているんだ私の体。
先に楽しかったコトから書きます。昨日行ってきた渋谷パルコ劇場の『Vamp show』は、すっごく良かったです。日曜日まで公演が続くのでネタバレ箇所はまた隠して書きますから、読みたい方は反転させてくださいませ。今日のは長いよ。
三谷幸喜作・池田成志演出のこの『Vamp show』、再演だそうだが私は初めてだったので前知識ゼロの状態で観ることができた。三谷さんのいつもの作品は途中どたばたで大笑いさせて最後にはちょっとほろりとさせて締めるってパターンなんだけど、今回のは本人もパンフレットで認めているとおり異色のホラー。「観客をとことん怖がらせる話が書きたかった」そうだが、その意図は大成功している。下手なお化け屋敷よりもよっぽど怖かった。やっぱ上手い人はどんなジャンルを書いても上手いわ。途中まではいつもどおりに笑わせておいて、それが中盤からどんどん話がヤバくなっていくのだ。うおう。
題名からもわかるとおりに、これは吸血鬼の話。とある吸血鬼のグループ(男ばかり5人)は献血車の襲撃を繰り返しながら一緒に旅を続けていたのだが、ある山奥の駅で一人の女と出会う。言葉を交わすうちにうっかり正体をバラしてしまい、口封じのために彼女を仲間にするしかなくなる。しかしグループの一員、島くん(堺雅人さん)は実は吸血鬼ではなく「これ以上悲しい吸血鬼を増やしてはいけない」と必死に彼女を助けようとする…。
この辺りで私は彼女(松尾れい子さん)にひどくイラついていた。チャンスがあっても逃げようとせず、島くんが事態を取り繕おうとしているうちに、どんどん状況が悪くなっていくのだ。恐怖映画で何がキライって言って、ヒロインが変にぐずぐずしたり状況をわきまえず騒いだりして事態を悪化させるのほどイヤなもんはない。彼女さえとっとと逃げれば問題ないのに! ああでもそれじゃ話が終わっちゃう。こういう話にはバカなヒロインが必要なのか? ともう悶々としていたのだけれど、そこはさすが三谷さん。彼女がぐずぐずしていたのにもちゃーんとワケがあったのである。それなら納得。
ところで私は心臓に悪い系のホラーが苦手だ。貞子がTV画面から出てくるみたいな、じわじわした怖さってのもイヤなんだけど、それよりも例えば“停電して懐中電灯の光で家の中を見て回っていたら稲妻が光って窓の外に凶器を持った男が! しかも同時に落雷の音(大音量)!”とか“恐竜のうろつく島で研究所の廊下をびくびくしながら歩いていたら、いきなり窓ガラスが割れてヴェロキラプトルが! ひー喰われる!”とか、そうゆうのにひどく弱いのだ。それじゃ見なけりゃいいんだけど、怖いもの見たさはあるのである。で、昨日の舞台はモロにそれだった。
演出が上手いのだ。それに音響は小劇場の常で大音量。もう何度椅子の中で踊ったことか。そう、びっくりしてもそれを態度に表さなければいいのに、私はいちいちびくっとしたり声をあげたりしてしまうのだ。だから途中からはずっと声を押さえるために両手で口を塞いでいた。あの観劇中の私の顔はすごかったと思う。何かすがるものが欲しくて、何度か隣の席の友人の手を握りたくまでなった。向こうもびっくりするだろうと思ったのでガマンしたけど、終わったときは足の裏にびっしょり汗をかいていた。
役者さんも皆良かった。必死にあがいている島くんも、不死身の丹下(橋本潤さん)も、気弱なリーダー坂東(佐々木蔵之介さん)も、勘のいい佐竹(河原雅彦さん)も、小姑体質の野田(伊藤俊人さん)も、独特ムードの駅員(手塚とおるさん)も。丹下さんの死に様はもう怖くて怖くて直視できなかった。溶けて斬首なんて。おう。駅員さんのあの味は素晴らしかった。どーんと空気が重くなっても彼が出てくるだけで救われるの。佐々木さんはピスタチオを辞めて以来、初めてのハマリ役だと思う。今までは「ピスタチオ辞めておいてこんな芝居に出るの!?」って心境で、どうも佐々木さんの決断を疑っていたんですよ実は。今回のような役をどんどん演れるなら納得もしますとも。
この間の野田さんの芝居では観客のマナーや劇場の作りに憤慨したが、パルコは観やすいし客も慣れてていい感じだった。カーテンコールが無いのもいっそ潔い。こないだは引き際わきまえない客が「まだ出てくるかなー」とか言いながら何度も何度もカーテンコールねだって、それも違うんでないかと思っていただけに、今回のはすっきり。おまけが嬉しいときもあるし、1度もないってのは寂しいときもあるんだけど、作品の雰囲気によってはああやって「ここで終わり」と明確に示してもらえるのはいいと思う。ああもうとにかく舞台の良さを満喫できる、文句なしの芝居だったのだ。予想とは違ったけど。
友人2人とステキな芝居を見て美味しいものを食べて夏の予定を立てて、なんだかちょっと元気になって家に戻った。お風呂に入って寝る前にいつものメールチェックとお気に入りサイトの巡回。まさかまさかまさかそこに落とし穴があろうとは。毎日楽しみにしていたアホガメさんの「台有り」がなくなってしまいました。これで確実に日々の楽しみの一つが消滅してしまったワケです。寂しいよぅ。またどこかでお会いできるといいとは思うのですが、とりあえず、アホガメさんには「ありがとう」です。「台有り」がなかったら私のサイトもまだ始まっていなかったかもしれません。始める動機は他のサイトの影響もあったのですが、開設時期が予定よりも早まったのは、確実にアホガメさんのせいでした。イヤおかげでした。ホントにホントにありがとう。
気分的にすっきりしない今日この頃。大嫌いなむあむあしたこの東京の暑さのせいもあるかとは思うけど、やっぱり7月になってしまったのがコタエているのかも。年齢を重ねるほどに時の流れを早く感じてしまうのは仕方ない。でもいつものパターンなら、思い返してみればいろいろあって「あっという間に1年が終わった気がしても、今年はあれもやったしこれもやったし、なんだけっこう充実してたじゃん」と思える筈だ。なのに今年は半年経つのに何もやっていない気がする。いや実際にやっていない。なんでかというと、まあ事情はあるんだけど私の怠け癖のせいも多々あり、それがわかっているからすっきりできませんの。
それで今月に入ってからどんよりしていたのだけれど、どんよりしていても事態が自然と好転するハズもなく、ここはハチマキでも褌の紐でも締めなおせば済む話なんだけど、締めなおすにもきっかけというかエネルギーが必要で、そんなワケでこんなワケで、要はつまり飲みに行きたいのよぅ! 飲みに行っておしゃべりしてすっきりしたいのよぅ! 元気をくれそうな人と。←とことん身勝手。でも大事。もちろん一方的に元気もらったりはしませんとも。相手をげっそり疲れさせちゃうようなコトは。もらったものは倍返し…できるといいなぁとは思ってるのよ? 心がけとしては。
同じ愚痴を言うのでも、聞き手までもをドロ沼に引きずり込んでしまう人がいる。ああいうのには上手く付き合えない。ただ聞いているフリをするだけでも苦痛。あれってどういう心理なんだろう。自分が沈んでいるときに人と会いたくなるのは浮上したいからじゃないの? 相手まで不幸にしたいワケじゃないだろうに。逆の立場だったら人の泣き言を優しく聞いてあげるコトができてるんだろうか、そうゆう人って。たとえ泣き言を口に出すにしろ、口先だけでも笑えるような状況でないと人に会おうという気にはならないな、私は。せっかく2人(以上)でいるなら、楽しい時を過ごした方がよっぽどいい。あ、黙ってただ傍にいて話を聞いてほしい場合もあるけど、それはまた違う関係性の中での話。
しかし考えてみりゃ相手を選ぶのは難しい。たとえ私がすっきりできたとしても、相手がとってもセンシティブな人だったら必要以上に私の状態を大変だと思い込んじゃって、心配させちゃうかもしれない。そう考えると、たいていの話はできて相手に心配させる心配もなしに愚痴れてたくさん笑って別れられる、そんな友人に恵まれているのはシアワセだなーと思う。ただ今回ばかりはこれまたワケありで愚痴れないからなぁ。愚痴ったら絶対ケリ入れられそう。
まあ無い物ねだりをしていてもしょうがない。前に落ち込んでいたときはタイミングよく“心のミュージカル”を観れたので助かったんだが、今晩行くお芝居はその作用があるかしら。三谷幸喜さん作なので期待できるかも…と、アクマで他力本願だ今は。
昨日書いた「おかめちんこ」、仲間がいっぱいいるようで…。そうですよね、絶対間違いますって。誰だか知らないけど「おかちめんこ」って言葉を作った人間は、ひっかかるのを期待していたのに違いない。おまけに「神の溝知る」にもお仲間が。うわあ。恥をさらして書いた甲斐があるってもんです。しかし何故同じ勘違いをしている人がいると、こんなにも嬉しいのだろう。
今日は会社は休み。って海には行かず、ガン検診を受けたのだけど。別に気がかりがあったワケではなく、30歳になったので区が「受けなさい」と言ってきたのである。今まで高い区民税を払ってきたのだから、こういうのは利用しないともったいない。それに以前TVで婦人病の特集番組を見て「うーむ、いくら恥ずかしくても定期検診はしないといけないのか」と思っていたので、近所の婦人科の病院に予約を入れた。あーガン検診ってのは、乳ガンと子宮ガンです。胃ガンは35歳から。
診察にはやっぱり抵抗を感じたんだけど、初めて超音波の映像(でいいのか? よくドラマに出てくる、胎児を見るのに使うの)を見せてもらって、それは面白かった。でも説明してもらわないと何が映ってるのか全然わからない。一応視診と触診では問題なしで、最終的な検査結果は10日ほどして出るらしい。多分平気だとは思うけど、ちょっとどきどきものである。今週は週末にも健康診断の予定。こっちは会社で受けさせてくれる恒例の。ホントに必要最小限しかやってくれないので、今年は自費で血液検査をオーダーした。病気の特集番組とか見ると、すぐに症状が自分に当てはまるような気がしちゃう小心者のくせに、病院にはめったに行かないので一度くらいは調べておこうと思って。精神の安定のために。
ところで検診が終わったあと「恥ずかしくない婦人病の検診」ってあるんだろうか、とちょっと考えた。女性の医師がいいって人もいるけど、私はあまり気にならない。てかどっちでも恥ずかしい。まあ深刻な病気を患っている場合は相談しやすいとか悩みを打ち明けやすいとか、女性医師にはそういうメリットがあるかもとは思う。ただ今日のような健康体での検診の場合は、相手が男でも女でもたいした差はない気がする。だとすると、相手がきっちり服を着込んでいるところで自分だけが脱ぐのがイヤなのか? …で、うっかり医者も看護婦も全裸の診察室ってのを想像してしまい、そっちの方がよっぽどイヤだと確信しました。
マジメに考え始めたのに、所詮私の思考の行き着くのはこんなトコロ。
毎年この時期に言っている気がするけど「梅雨ってまだ終わってないの?」 昨日も今日も、海が私を呼んでるぜって気候で、家や会社にいるのがもったいない。おまけに今読んでいる本では少年少女たちが海だ湖だボートだ帆走だと楽しみまくっているので、東京の暑さに耐えている自分がますますツライ。会社サボって海に行きたいよぅ。大人ってホントつまらない!……とは実はちっとも思っていないのですが。その気になりさえすれば、会社だってサボれるし、自分で好きなところに行けるんだし。やらないだけで。でも休みに関してだけはマジに子供が羨ましい。休んでも給料に響かないってのは、いいよなぁ。
そんな私は給料に響く寝坊をしたばかり。就業時間が始まってから起きました。近所の子供のはしゃぐ声に「朝っぱらからウルサイ」と起きてみたら、朝っぱらどころの時間ではなく真っ青。7:00にかけておいたアラームがどうなったのかは神のみぞ知る。
そういえば『赤毛のアン』で知ったこの「神のみぞ知る」というフレーズを、私はかなり大きくなるまで「神の溝知る」だと思っていた。この言葉を口にした子供にアンがぎょっとして「そんなことを口にするもんじゃありません」と怒るシーンがあって、それは今考えれば「神の名をみだりに唱えてはいけない」って意味だろうとわかるんだけど、当時は「神さまにも後ろ暗いところがあって、それを知るのはタブーなのだ」という意味だと思っていた。溝というのは、その後ろ暗い部分を指すワケである。これだと前後の文章の意味もよくわからなくなるのに、なぜそんなひねくれた受け取り方をしたのだろう。謎だ。
これに限らず私は言葉の覚え間違いが多い。「台風一家」や「狐につつまれる」みたいなオーソドックスなところはきちんと押さえているし、「並みの強さの台風」ってのは「波の強さの」だと思っていて「波が強い台風」って言えばいいのに、なんでこんなわかりにくい日本語ができたんだろうかとずっとずっと不思議だった。「波が強い台風」ってのがまともな日本語かどうかはさて置き。ロータリークラブをロリータクラブと読み間違えていたし、「はこびる」と「はびこる」のどちらが正しいのかは未だに一度考えないとわからない。上の分でも「みだり」と「みだら」のどっちを使うのかちょっと迷った。
そんなだから当然言い間違いも多い。話にエキサイトしていると言葉を選ぶ余裕がなくて、つい変なコトを口走ったりもする。ここに書いたのは自覚しているので気をつければいいのだが、やっかいなのは自分が勘違いをしているのを知らない場合。なぜか強固に思い込んでいて、本で正しい言葉を見ても誤植だとしか考えない。私が信じて疑わなかったもののうちの一つは、まずめったに日常で使わない言葉だったから良かったが、そうでなかったら……。
20歳くらいまで、「おかちめんこ」を「おかめちんこ」だと信じてました。