サイトを毎日更新する人ってどうやって時間を作っているんだろう。私の時間の使い方は確かに下手だけど、それだけじゃない気が…。意思力の問題?
書きたいことはいろいろあったんだけど、今一番書きたいことは書けない。なんというか、すごく動揺する出来事があったんだけど、今まで全然心の準備をしていなかったことなので、かなりコタエタ。今もすっかり解決した訳じゃないけど、とりあえず何にもできることはないし、心配ばかりしていても仕方ないので、あまり考えないようにする。
今まで、Web日記で↑みたいな思わせぶりなことを書かれるのはイヤ…というか「気になるじゃんよー、中途半端に書かないでよー」と正直思っていたんだけど、書かずにはいられない気分なのだ。書くと整理できるし。でも私の問題じゃないから詳細は書けない。もし心配かけちゃってたらゴメンよ。私は元気です。
『ドロ沼』に入れたい作品はたくさんあって、どれから取りかかろうか迷っているうちに、無性にマリオン・ジマー・ブラッドリーのダーコーヴァー年代記シリーズが読みたくなった。でも前に読んだ時は図書館から借りたので、手元にはない。読みたいなー、でもあれ20冊くらいあるんだよなー、また図書館から借りるのめんどいなー、どうせ置いてないから予約して取り寄せだよなー、…買うか! 一度心を決めれば、もう欲しくて欲しくて堪らなくなる。贅沢に大人買いだーと、早速本屋に行って注文。「すみません、在庫全然なくって、重版の予定もないですねー」 ……えっ?
考えてみりゃそう不思議じゃない。何十年も前の本だし、書いたのも少なくとも日本では大人気作家とは言えない。が、欲しい気持ちは募るばかりなので、インターネットで検索。意外にファンは多いみたい。古本屋とかで在庫がないかと思ったが、あったのは“初版本1200円”…ひーん、初版じゃなくていいんだよぅ。新刊でも400円とか500円なのに、なんで倍以上払わなくちゃいけないのだ。私の経済状態はそんな余裕はないのだ。悔しい。
私は本はなるべく買わないようにしている。とてもじゃないけど欲しい本全部を置いておくスペースはない。ただでさえ田舎の実家に相当数の本を預かってもらっているというのに。私はマンガも大好きなので、好きなマンガ家の新刊を買うだけで、かなりのペースで本が増えてしまう。だから他の作家のは図書館で借りるとか人から借りるとかして、まず試す。その中で、何度も読み返したくなる本、どうしても手元に置いておきたい本しか買わない。一度買うと捨てられなくなっちゃうし。これは仕方がないし普段は上手くいってるけど、今回みたいに「買う」の決心が遅すぎることもある。めっちゃ悔しい。
上手い具合に本を回す方法ってないのかなー。今度近所の図書館でもう置いておけなくなった本を無料配布するらしいんだが、そこの在庫はロクなもんないし、行く気もしない。でも例えば図書館に「いらなくなったら欲しい」本を登録しておいて、それが放出される時に、同じ作品を欲しがってる人同士で競争するとか、できないかなぁ。何年待っても欲しい本ってあるんだけど。あるいは私みたいに「本は捨てられないけど、欲しい人がいるならあげて(売って)もいい」人と交換できる場とか…。どこかにあるんでしょうか。誰かそういうサイトでもご存知なら、ぜひ教えてください。とことん悔しい。
結局昨日の教習は中止になった。予約を丸ごと取りなおさなくちゃいけない。まったくタイミングが悪すぎる。
先日買ったMDラジカセが配送された。ダメになってしまったミニコンポと入れ替えるついでに、スチールの棚を整理する。どこかを整理する場合、私はまず中の物を全部広げないと気が済まない。ので、とりあえずスチール棚にのっている物を全部外に出す。六畳の部屋に文字通り足の踏み場がなくなる。小さな棚にこれだけたくさん入っているとは驚きだ。棚の重みで畳に凹みが付いてしまっていたので、これまた前々からやらなくてはと思っていたように、足の下に板を噛ませる。外はいい天気だし、のこぎりをひくなんてタマにしかやらないので、楽しい。だが楽しいのはここまで。空っぽの棚をセットしなおして振りかえると、ひどく散らかった部屋がある。空巣に入られたような部屋を見ていると、片付ける気が失せてしまう。
そういえば雑貨がなんの整理もなしに棚に並べてあった。だから片付かないのだ。すぐに100円ショップに買い物に行く。小さなプラスチックのケースを買ってくる。これで雑貨を小分けにしよう。ついでに本屋によってマンガ雑誌を。帰ってドアを開けると、あいかわらず部屋は汚い。途端にイヤになる。小休止と称して買ってきた雑誌を読む。気がつくと、始めるのが遅かったせいもあって、すでに暗くなりかけている。
自分に発破をかけて棚に物を入れなおす。だいぶ片付いては来たが、まだ床に物が散乱している。この機会に捨てる物や、他の場所に入れ直したい物、返さなくちゃいけない物が出てきたからだ。あっとしまった、そろそろ近所のスーパーが閉まる時間だ。夕食の材料を買いにいかなくちゃ。再び外出。帰るともう20時すぎ。友人に電話。部屋が汚くて悲しくてでも片付けたくないと訴える。そんなこんなで21時近く。同居している妹が帰ってきたので、夕食を作る。休日は食事の時間も後へ後へとズレてしまって、不健康でいけない。妹に面白いから、と勧めて一緒に「生きてこそ」を見始める。私は3度目なので、ビデオに見入る彼女の傍らで、この日記を書き始める。…まだ、部屋は散らかっている。
今日は現実逃避のためだけに更新。
雪が降っている。雪が降っている。雪がしんしんと降っている。To-koは電話を待っている。
今日は初めての路上教習の日なのに…!! 18:40からの予約。夜間&雪の悪条件でやれっていうのか? 雪で中止になったらそれはそれで困る。第2段階はセット教習だの高速教習だの細かく決まっているから、一つ狂うと予定を全部たてなおさなくちゃいけなくなってしまうのだ。
昨日は会社帰りにお芝居を見て(酒を飲んで)日付が変わってから帰宅。下北沢でファントマの『三蔵』を見てきた。ファントマは初めて見る劇団。以前惑星ピスタチオという本拠地関西の劇団があって、その特異な芸風で関東でもかなり名前を売った。私はその劇団が大好きだったのだけれど、柱となる役者が一人減り二人減りして、残念ながら去年解散してしまった。ピスタチオその後、演出家と残った何人かの役者で細々と公演を続けているのだが、なんせ役者が足りないので、客演を多用している。その客演の一人が、ファントマの伊藤えん魔さんだった。なんせ元ピスタチオは芸風が特別なので、客演はその雰囲気に上手く馴染めないことが多い。浮いてしまうのだ。えん魔さんは違った。雰囲気に馴染みつつ、それでも自分のスタイルを崩していなかった。公演後のトークで、えん魔さんが演出にも口を出していること、自分でも劇団を持っていて、作・演出を手がけているのを知って興味がわいた。それが昨日の観劇につながったのだが、期待にたがわず面白い劇団だった。いかにもえん魔さんが書いた作品。大ブレイクするにはまだまだの感があったが、私にはその方が嬉しい。
劇団がブレイクするとダメになるってのが私の持論だ。四季とか宝塚は別。あれは金をかけて大規模な舞台や豪華な衣装や技術のあるダンスや、その他楽しめるもろもろの要素を持っているから。私の言うのは、小さな規模でファンを集めていた劇団。が、マスコミに取り上げられるようになるともうダメだ。あっと言う間に劇場でのマナーも演劇の魅力も、何にも分かっていない客が集まり、いい役者はTVに引き抜かれてしまう。かつてのピスタチオがそのいい例。で、TVに引き抜かれた役者が活躍するかと言うと、演劇ファンにとっては、答えはNoだ。例えば西村雅彦さんや筧利夫さん。現在はTVで活躍中だし、TVでしか見たことのない人の中にもファンは多いと思う。だけど元々舞台の上にいる彼らを知っている私には、TVの中の彼らは窮屈そうに見える。舞台上の時の方がずっと魅力的だ。TVと舞台の演技は、まるで別のものだ。舞台の演技をTVでやると、やたら大げさだしテンションは高いし、周りの出演者から妙に浮いてしまう。だから周りに合うように演技を押さえる。だけどやっぱり妙なのだ。押さえているのがこっちに分かってしまう。私のような演劇ファンは、舞台でしか見られない演技が見たいのだ。あのテンション、あの熱気が欲しいのだ。舞台からTVに移って魅力を増した役者を、私は知らない。
話がズレた。ファントマの話に戻る。この劇団には魅力的な、柱的存在の役者が何人かいて安心して見ていられる。だけど逆に素人丸出しの脇役もいるし、無理のある展開や設定もある。また話がズレるが、素人丸出しってのは演技が下手って意味ではない。演技の上手下手以前の問題。演技ができるか否かって話で、演技力は経験を重ねれば上達するが、演技のできない人は大半が恐らく永遠にできないままだ。話を戻す。ファントマ。初めて見る劇団ってのは、こちらも期待半分不安半分で構えているものだ。傲慢な言い方だが「見極めてやる」みたいな気分もどこかにある。それが長く続けている劇団で、固定客がついていたりすると更にヤバイ。固定客は役者を知っていて「この人がこういう出方をするとギャグがくる」「この役者は絶対笑わせてくれる人」ってのを既に知っているので、こちらが雰囲気に慣れ笑えるようになる前に笑ってしまうのだ。それは馴れ合いであり、自分がその固定客の中に入ってしまえば気持ちも分かるものなのだが、初めて見る客にとっては邪魔だ。自分が面白いと思っていないのに先に笑われちゃうと、妙に冷める。嬉しいことにファントマはそういう構えを吹き飛ばしてくれて、一度その雰囲気に慣れると笑いが止まらなかった。総合的に見ると評価は+でまた見たいと思うが、観客数が飛躍的に伸びることはまだしばらくはない気がする。
ファントマを楽しむために、なるべく長い間、小さな劇場で続けて欲しいと思う。
昨日やっと、coolのサーバにファイルをアップロードした。紆余曲折の末、なんとか無事に終了したのだが、今まで作業していたのとは別のパソコンから初めてこのホームページを見てがっかり! 色が全然違うじゃん。これじゃMacからだったら、全然別物になっているんだろうなぁ。Webセーフカラーじゃないのをかなり使っているし。でも直す気力も技量もないので、当分このまま。
…と、思ったけど、一番気になった部分はけっこう簡単に直せました。
今日は学科教習2時間。あまりにも腹が立ったので、以下恨みつらみ。
都内某教習所の某教官へ。あなたの話はつまらないのです。50分で何回脱線したか分かってます? しかもそれが全部自分語りだって気付いてます? 誰も楽しめない話だったって分かってますか? 「実を言うとネ、私、先週新潟に行ったんですけど…」って実を言うほどの話ですか? 雪がすごくて警官にチェーンをするように言われたって話から、教訓を読み取れって言うんですか? 「私が海外に行った時に…、あ、これ、自慢じゃないんですけどネ」って何ですか? 誰も自慢だなんて思ってません。しかも「海外って言ってもグアムなんですけど」って更に何なんですか? グアムって海外じゃないんですか? 「実を言うと、私、学生の頃はけっこう悪いことをやってたんですヨ」 …だから? その過去、誇りにしてませんか? そのフレーズ聞くの何度目だと思ってるんですか? しかも「これこれをやって危ない思いをしたから、こういうのは危ない」って話じゃなくて、「これこれなんて無茶なこともやってたんですよ。ま、こんな話はどうでもいいんですけど」って何が言いたいんですか? 自慢ですか? 自慢ですよね? ちっとも羨ましくないです。どうでもいい話ならしないで下さい。私たちが、あなたの話を聞くためにいくら払っているんだか、分かってますか? それともこれは50分間のガマン料ですか? 右の耳から左の耳に流していたので、今日の教習のポイント、分かりませんでしたよ。何より一番イヤなのは、あなたが私と同じ年だってこと。同じ年なのに、そんなツマラナイ話をしないで下さい。
ムカムカしていたのだけれど、2時間目の「危険予測」の学科で浮上。イラストを見て考えられる危険性を予測するってので私の妄想力が暴走して、自分で自分がおかしくなってしまったから。「あの車の影から、子供が出てくるかもしれない」「この自転車、歩行者を避けて車道に入ってくるかもしれない」「この対向車のドライバーは、実は飲酒運転をしていて、こっちに突っ込んでくるかもしれない」「向こうの対向車のドライバーはラリってて、すごいスピードを出してるかもしれない」「この対向車はドライバー1人に見えるけど、助手席の見えない部分に子供がいて、ふざけてハンドルに触るかもしれない」「ひょっとしたら助手席に隠れているのは、ナイフを持った犯罪者で、怯えたドライバーがいきなりドアを開けて飛び出してくるかもしれない」。…どこまでやっても尽きないんだけど、危険予測ってどの辺までやればいいんだろう?
昨日は酒飲んで遊んで帰ったので、日記はサボり。飲んだあと、久しぶりのゲーセンで「北斗の拳」をやったら、すっかりまわってクラクラした。よく見ると「飲酒した後はやらないように」の注意書き。ありゃ。
「フレンズ」を2本続けて見たせいか、英語で書かなきゃいけないメールがあるせいか、それとも最近NZ滞在中の話を書いてたせいか、英語で喋る夢を見た。私の夢は、ひどい時にはとことん非現実的な癖に、こういう時だけ現実的で、夢の中の私の英語力は実際と全然変わらない。自分の知っている数少ない単語を並べて、なんとか意思を伝えようと四苦八苦している。起きた直後には、どういう単語を使って何と言ったのか覚えているくらい。全然眠れた気がしない。ただでさえ眠りが浅くて慢性的に寝不足なのに。
ビデオで『生きてこそ』を見た。アンデス山脈に飛行機が墜落して、何人かが死んだ人の肉を食べて生き延びた、実話をもとにした話。期待にたがわず、いい話だった。だいたい私はサバイバル物に弱いのだ。もしも自分がその状況に置かれたらどうなるだろう、何ができるだろうと考えずにはいられない。彼らはラグビーチームのメンバーだったから、基礎体力はあったろうけど、私だったら…。結局女は誰も助からなかった。最後まで生き残った女性の顔は私好みで、生き残ることを切に願ったが「あ、ヤバい」と思った次のシーンで、やっぱり死んでしまった。何人かが生き延びるのは分かっていたが、正確な人数を知らなかったので、人が死ぬたびに「もう最後の人数を知らせてっ」とわめきたくなる。これが小説ならガマンできずに最後を先に読んでしまったかも知れない。見ているこっちは最初に飛行機が落ちることも、そのうちに死体の肉を食べるようになることも知っているのだから、最初のうちに飛行機の中でふざけている登場人物たちを見るのはたまらない。『タイタニック』を見たときも、主役たちのストーリーよりも冒頭の出港のシーンに涙腺が刺激された。船からテープを投げて、これからの船旅を心待ちにしている人たちが最後にはみーんな死んでしまうのだ、と思ったら…もうダメ。『生きてこそ』も、どう見ても死んでしまう人ががんばっているのを見ると、「お願いだから助けてあげて」と思う。実話を元にした話がつらいのは、死ぬ人はどんなにいい人でも死ぬしかないところだ。
ホントの極限状況を見たことはないが、聞く話見る話必ず出てくるのが、その状況の中で信じられないくらい優しく、あるいは強くなれる人たちだ。そうありたい、と願うのは誰しもだと思うが、実際そういう立場に置かれた時に私はどう行動するんだろう。そういうシチュエーションに巡り合わない限り答えの出ない質問。極限状況に置かれたくはないが、この答えは知りたい気がする。
ところでこの映画、神に祈るシーンがよく出てくる。私は、少なくとも名前のある神は信じていないけれども、こういう時に呼べる神を持っているのは、ある意味幸せなのではないかと思う。多分私も同じ状況に置かれたら、神の名を口にするだろう。その神が具体的に何を差すのかは、私にもよく分かっていなかったとしても。
NZにしばらく滞在したことがある。牧歌的なイメージの国だが、交通事故による死亡者数が多いらしい。スピードの出しすぎが問題だそうで、TVでよく「交通事故に気をつけよう」のCMをやっていた。これがかなり強烈で、私の通っていた語学学校でもよく話題にのぼった。例えば、こんなの。
取調室みたいな場所。若い男性の顔のアップ。彼が口を開く。「気がつかなかったんだ…」/突然飛び出してくる少女のショット(無音)/「避けられなかった…!」/少女。さっきより近くにいる(無音)/「あの子は…」/もっと近づく少女。驚いた顔のアップ(無音)/「あの子はまだ…」 男性の顔が歪む/少女の顔のストップモーション。家から飛び出してきて泣き叫ぶ女性(無音)/「たったの6歳だったのに…!」 泣き崩れる男性。 −完−
パブ。扉が開いて一人の男が入ってくる。彼の顔には傷がある。なんとなく緊張している男に、友人たちが声をかける。「もう大丈夫なのか?」「やっと戻ってきたな!」 男も笑みを浮かべる。友人たちに囲まれて、やっとリラックスしたようだ。突然、後ろから声がかかる。「あなたが殺したのね!」 驚いてふりかえる男。中年女性が立っている。彼女のそばにいる中年男性の制止を聞かず、女は言葉を重ねる。「人殺し! よく平気な顔でいられるわね!」 どうしたらいいのかわからない、男の友人たち。女は連れの中年男性に引っ張られて、パブから連れ出される。言葉もなくうつむく男。気まずそうにただそれを見つめる友人たち。パブの外から、なおも女性の叫びが聞こえる。「人殺しぃ!!」 −完−
仮装パーティー帰りらしい、若い男の子のグループ。めいめいドラキュラやフランケンシュタインの仮装をしている。もう出来あがっていて、テンションが高い。ビールの回し飲みをしながら、高スピードで車を飛ばす少年たち。カーブで曲りきれずに、車が横転。幸い、落ちたのは草っ原。窓から少年の一人が這い出してくる。「すごかったよな! 今の!」「もう一回やろうぜ!」 どうやら全員怪我はないようで、先に出た少年と笑いあっている。「ほら、早く出てこいよ」ビールを呷りながら、少年が声をかけた次の瞬間、炎上する車。車の中から聞こえる声は、一転、悲鳴に変わる。あっけにとられる少年。すぐに事態を飲みこむが、何も出来ずに、車の周囲をうろつくしかできない少年。悲鳴、悲鳴、悲鳴…。 −完−
行楽帰りの家族。父親が運転している。助手席に母親、後部座席に娘。あくびをする父親。母親が気遣って休憩を取ろうと言うが、次の予定があるらしく、それを断って運転を続ける。やがて、疲れているらしく、母親と娘は眠りこんでしまう。うとうとしだす父親。ハッとして目を開くと、カーブに突っ込んでいる車。慌ててハンドルを切るが、間に合わず、車はカーブから飛び出す。車は池に落ちる。沈んでいく車。車は完璧に見えなくなるが、水面には空気の泡。やがてその泡も消えて、静まり返る水面。一瞬後、父親が浮かび上がってくる。回りを見まわすが、誰も続いて上がってはこない。必死に妻と娘の名を呼ぶ父親。答えはない。助けを呼ぶ父親。カメラがどんどん遠ざかっていく。付近には助けを与えられるような人影はない。ただ虚しく響く、父親の叫び。 −完−
文章力がないせいで、あのリアルさを伝えられないのがもどかしい。日本では、刺激が強すぎるとか言われてお蔵入りになりそうだが、現地ではそれなりの効果はあるようだ。ファームステイをしていた家の長男も自動車を引っくり返す事故を起こしたのだが、3番目のを思い出してすぐに車から離れたそうだ。私自身、何年か前の話なのに、かなり鮮明に覚えている。
免許が無事に取れても、忘れないようにしよう。
4日目。やった。昨日の夕方から雪が降った。東京の雪はすぐに汚れるから好きじゃない、と思っていたのだけれど、今日多摩川の土手を歩いていたら、雨上がりとはまた違った空気で、いつもとはまるで違った景色に見えて、一瞬で意見を変えた。富士山もくっきり見えて、なんだか朝から得した気分。
昨日書いたこと。友人関係なら一つや二つ意見が違っても他の部分で補いあえるけど、昨日の関係のような場合は、つながりは彼/彼女が書いていることしかないから、その文章で意見が違うと自分の全部が否定されたように感じるってことか? なんか被害妄想だわ。
今、教習所に通っている。この間仮免を取ったところで、今度の週末から路上。今日は学科だったのだけど、内容は「特徴的な事故と事故の悲惨さ」。見せられたビデオが生々しくって、ボロボロ泣いてしまった。涙腺が壊れているのは知っていたけど、教室で泣くのはかなり恥ずかしい。この年まで免許を取らなかったのは、人を轢くのが怖かったからだ。いや、今も怖くない訳ではないのだけれど、必要がでてきたからやむを得ず。どうせ取るなら楽しもうと思ってるけど。ビデオを見ていて、NZの交通事故撲滅のCMを思い出した。やけにリアルで怖いのだ。明日でも思い出せるだけ書いてみる。
今日初めて女性インストラクターの教習を受けたのだけれど、それが初めて50分ちゃんと聞いていられるものだった。今までのインストラクターは無駄話がつまらなくって、「だから何?」ってのばっかりだったんだけど、彼女のは寄り道の話もちゃんと教習に関係があるもので、大事な話だった。法定教習で50分ちゃんと受けなければいけないと言うのなら、今日みたいにちゃんと実のある話をしてほしい。
今月中にこのサイトをある程度見られる形にしたいんだけど、好きな小説が増えなくて困ってる。好きなのがない訳じゃない。シリーズ物が多いからだ。正確さを期すために読みなおそうと思っていたんだけど、1つのシリーズが20冊もあると時間がかかりすぎる。コンテンツが少なすぎるのもイヤだし、適当なことを書くのもイヤ。でもきっと後者を選んでしまう私。
3日目。おおまだ続いてる、と自画自賛してから気付く。三日坊主でも3日は続くんだから、喜ぶのは明日にしよう。
自分の好きな人に好いてもらいたい、というのはかなり一般的な感情だと思うのだけれど。普通の、お互いがお互いを知っている関係なら、それは当たり前だと思う。好きでいてもらうために、どこまでするかと言うのは人それぞれだけど、ま、それは別の話。お互いに好きでなきゃつきあいは続かないだろうし、たとえケンカをしても、仲直りの可能性はある。だけど、これが一方的な関係の場合が問題。
ここで言う一方的な関係ってのは、例えば作家とファンとか、役者とファンとか、Webでテキストを公開している人とファンとか。想われる方にもいろいろあるんだろうが、私はいつもファンの立場の方なので、そっちで時々味わう気持ちがある。役者は別だが、作家とかサイト管理者の場合、向こうの書いたものを読めば読むほど相手のことをよく知っているような気になってしまう。そうやって一方的に好意を持っている相手に「あなたが嫌いだ」と言われると、向こうはこちらを知らないので文句も言えず、でもやっぱり悲しくて、落ち込むことってないですか?
嫌いだと言われたと思うってのは、その人の「嫌いな人」カテゴリーに明らかに自分が入ってしまう時。例をあげると、イギリス関係のエッセイで有名な林望さん。一時期彼のエッセイをよく読んだのだけれど、その中で彼がよく嘆いているのが酔っ払いの態度だ。いくつか読むと、彼が決してお酒を飲む行為そのものを否定している訳ではなくて、酔って醜態をさらす人間が嫌いなだけだと思うのだけれども、文章中でいちいちそう但し書きをしてはいない。だから「酒を飲む人間は醜悪だ」みたいなフレーズが出てくることがある。そういう時、酒を飲む私は自分が醜悪だと言われた気がして、それが何とも思っていない相手なら平気だけど、相手が好きなだけにダメージを受けてしまう。
林望さんの場合は「この人の言う酔っ払いには私は含まれない」と思いこめるので、まだマシだ。一番ダメージの大きいのは、例えば私がAという作品を好きな時に「Aみたいな薄っぺらな作品で満足できるような薄っぺらな人間」とか言われてしまう時。好みの違いじゃんと思う前に、「ああ、この人から見たら、私なんかどうせ薄っぺらのぺらぺらよぅ」と一瞬だけど深く落ち込む。
じゃそういうの書かない人がいいのかっていうと、そんなことはない。多少毒がある人間の方が面白いと思うし、自分に向けられていない辛辣な文を読むのは大好きだ。要するに長々と書くまでもなく、単なるワガママというか自意識過剰というかなんだけど。自覚しているだけにやり場がなく、こんなところで書いてみる。
私の文章には「〜と思う」ってフレーズが多い。多すぎる。それがちょっと気になってる。
例えば、他人の文章。内容に共感できない場合は別として、「だ、である」で言い切る文体に憧れる。“潔い”印象があるし、何かを言いきれるだけの自信があるのがカッコいい、と思う。じゃあ私も言い切ればいいだけの話なんだが「〜は何とかである」と書くと、自分で「なに偉そうに語ってるんだか」と思ってしまう。他人がやっている分にはカッコいいと思うのに、なんで自分だとそうなんだか。
会話の時には、こんなことはない。どっちかと言うと、信じてないことまで言いきっちゃって誤解を招くパターンが多い。なのに文章だと言い切れないのは、長く残るものだからなのか。「やっぱり」とか「でも」も多いわ、そう言えば。語彙の少ない証拠。
他人の真似をしても、しんどいだけなのでしないけど、こんな短い文章に「思う」が3回も出てきちゃってるのはやっぱりマズいような。
日記はじめ。もともと日記をつける習慣はないし、いつまで続くことやら。旅行記とかは書くの好きなんだけど。まぁ、とりあえずやってみよう。
「HTML事典」なんぞを買ってきてから早2ヶ月。気が向いて暇なときしかパソコンに向かわないから、やたら時間がかかってしまった。確か去年中の公開を目指していたんじゃなかったっけ。やっと何となく形になってきたけど、自分に色使いのセンスがないのがしみじみ悔しい。センスにあふれる小人さんが欲しい。
この文章はまだパソコン内にしかないから、読んでいるのは私一人。他のコンテンツはそうでもないんだけど、この日記はひたすら独り言を言ってるような気がして、ちょっとわびしい。